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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第33話 ホテルという名の病室

 蒼月凪の部屋は絶望の匂いで満ちていた。

 俺と茜はプリクラに写る『蒼月海琴』という、唯一の手がかりを前に立ち尽くしていた。

 茜のペンライトがプリクラと俺の爛れた顔とを交互に照らし出す。


「……三上さん、聞こえますか」


 茜の声が俺を現実に引き戻した。


「……ああ。……あいつの声も、うるさいくらいにな」


 俺の頭の中では凪の幻聴が先ほどから激しく抵抗を始めていた。


『……触るな。姉さんに触るな』


「……これ以上の情報はここには無さそうです」


 茜は日記とプリクラを証拠品を扱うように慎重にビニール袋にしまった。


「私たち二人だけでは限界です。一度、ここから退避しましょう。……あなたの体調も心配です」


 茜の提案は冷静で、医者としての合理的な判断だった。

 この呪いの震源地で、失明した俺と医師一人。これ以上、怨念と差し向かいで過ごすのは自殺行為だ。


「……黒田さんに連絡を」


 俺はかろうじてそれだけを口にした。


 茜はうなずき、すぐにスマートフォンを取り出した。

 この廃屋は電波が届くらしい。


「……もしもし、高嶋です。……はい。黒田さん、今どこですか」


 茜は俺の隣で、淡々と、しかし緊張を隠せない早口で状況を説明し始めた。


「……まだ、蒼月凪の生家です。……ええ、三上さんと一緒に。……ここで、最大のキーパーソンを見つけました。『蒼月海琴』。凪の姉です」


 電話の向こうで黒田が息を呑む気配が伝わってくるようだった。


「……はい。ですが、三上さんの体調が心配です。失明に加え、壊貌病(かいぼうびょう)の症状も酷く、発熱も……。安全な場所で休ませる必要が……」


 茜が黒田と何事か話し込んでいる。

 俺はその間、壁にもたれ、激しく襲ってくる痒みと痛みに耐えていた。

 腐臭が自分から発せられているのが分かる。

 俺はもう、普通の人間社会には戻れない。


「……分かりました」


 茜が通話を終えた。


「黒田さん、今、雨宮神主と合流し、別の調査を進めているそうです。……明日の朝一番で、私たちを車で迎えに来てくれる、と。それまで、どこか安全な場所で待機してくれ、と」


「……安全な、場所……」


 今の俺にとって、このK市に、そんな場所があるというのか。


「ホテルを取ります」


 茜はきっぱりと言った。


「三上さん、立てますか。ここを出ます」


 俺は茜の肩を借り、ゾンビのように立ち上がった。

 蒼月凪の呪いから逃れるための、一時撤退。

 だが、俺の耳元で、凪の声は嘲笑うように囁いていた。


『……逃げられると思ってるの?』


 K市の駅前は深夜だというのに、週末の酔客で、わずかながらも騒がしかった。

 俺と茜の姿は異様だっただろう。

 失明し、フードを目深に被り、腐臭を隠しきれない俺を若い女が支えているのだ。

 俺たちは人目を避けるように裏路地を選んで歩いた。


 駅前のビジネスホテル。

 自動ドアが開き、無機質なロビーの暴力的な蛍光灯の光が俺の目を刺した。


「……ッ!」


 見えないはずの目を通し、光はもはや視覚ではなく痛みとして俺の脳を直接焼いた。

 俺はその場にうずくまりそうになる。


「……大丈夫ですか!」


 茜が俺の体を支えた。


「……ああ。……頼む」


 フロントにいた若い男性スタッフが露骨に眉をひそめたのを茜は見逃さなかった。


「……いらっしゃいませ。ご宿泊ですか?」


「はい。一部屋。ツインで」


 茜が毅然とした態度でクレジットカードを差し出した。


「……あの……お客様、恐れ入りますが、そちらの……」


 スタッフの視線が三上のフードと、そこから漏れる異臭に向けられている。


「……親戚です」


 茜は嘘をついた。


「重い皮膚病で、私が東京から、ここの病院へ連れていくところなんです。長旅で疲れて……。何か問題でも?」


 医師の白衣は着ていなくとも、その知的な権威を感じさせる声。

 スタッフは一瞬ためらったが、茜の強い視線に圧され、黙ってカードキーを差し出した。


「……七階、703号室です。お大事に……」


 俺たちは逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。


 部屋に入った瞬間、俺はドアのすぐそばに崩れ落ちた。

 茜が、すぐに部屋の照明を全て消し、カーテンを閉め切った。

 ビジネスホテルの消毒された匂いの中に俺の腐臭が混じり合う。


「……すまない……。あんたまで、こんな……」


「……謝らないでください」


 茜は暗闇の中でスーツケースを開ける音を立てた。

 彼女はこの現地調査のために、最低限の医療品は準備していたようだった。


「……三上さん。ベッドへ。……少し、楽にしましょう」


 茜は医者だった。

 暗闇の中、彼女は俺の服を脱がせた。ただれた皮膚が空気に晒される。


「……ひどい……」


 茜の息を飲む音が聞こえた。

 彼女はこれまで、悪化した「壊貌病(かいぼうびょう)」をデータと写真でしか見ていなかった。

 今、目の前で、生きた人間の体が呪いによって壊れていく様を初めて目の当たりにしていた。


「……痒い……。痛い……」


 俺は子供のように、うわ言を繰り返すしかなかった。


「……動かないで」


 茜は持参した生理食塩水で俺の皮膚を洗浄し始めた。

 しみる。だが、それ以上に、人の手が触れるという感覚が、俺の精神をギリギリでつなぎ止めていた。

 彼女は俺の腕や背中に軟膏を塗り、ガーゼと包帯を巻いていく。

 それは呪いそのものには何の効果もない。ただの気休め。延命措置だ。


「……高嶋さん……」


 俺は暗闇に向かって声をかけた。


「……あんたは……これが伝染(うつ)るとか、思わないのか?」


 俺の言葉に、包帯を巻く茜の手が一瞬、止まった。


「……分かっています」


 彼女の声は震えていた。


「……学生の……私の患者さんが死にました。……私が『異常なし』と突き放したせいで」


「……」


「……私には責任がある。……そして、正直に言えば……怖いんです」


 茜は包帯を巻き終えると、もう一つのベッドに腰を下ろした。


「……あなたの、この姿を見ていると……もし、呪いを解けなかった時は……これが私の未来なんじゃないかって……」


 医師としての冷静な仮面が剥がれ落ち、一人の人間としての素直な恐怖がそこにあった。


 その時だった。俺の頭の中で、凪の声が激しく抵抗を始めた。


『……姉さんを探すな!』

『……姉さんに近づくな!』


「……ぐ……あああっ!」


 俺は頭を抱えて、ベッドの上でのたうち回った。精神への直接攻撃だ。


「三上さん!?」


 茜が駆け寄ってくる。


『汚すな! お前たちみたいな普通の人間が姉さんを汚すな!』

『見るな! 姉さんを好奇の目で見るな!』


「やめろ……! 黙れ……!」


「三上さん! しっかりして!」


 茜は俺を助けようと俺の肩を掴んだ。だが今の俺は呪いの器だ。

 俺の耳元で凪の声が冷ややかに、茜に向かって言った。


『……あんたも同じ』

『あんたも見たじゃない』


 その言葉の意味を俺はまだ知らなかった。

 茜はその言葉が聞こえたかのように、俺の肩を掴んだまま凍りついていた。

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