第32話 二階の部屋
「……二階だ」
俺が蒼月凪の幻聴に導かれてそうつぶやくと、廃屋の空気はさらに冷え込んだ気がした。
高嶋茜の懐中電灯の光が、俺の顔から、埃の積もった階段の方へと移動したのが分かった。
「……本当ですか?」
茜の声は俺の能力を試すような医師としての冷静さを保っていた。
「ええ……。あいつがそう言ってる」
俺の頭の中では蒼月凪の声が「早く来て」と、子供のように繰り返していた。
「……分かりました。確認してみましょう」
茜は決断した。
「三上さん、一緒に上がりますか? 肩を貸しますよ」
「……ああ、助かる」
俺は茜の差し出した手に掴まった。
彼女の衣服越しに、生きている人間の確かな体温が伝わってくる。
それが、腐りかけた俺の体にはひどく場違いなものに感じられた。
茜の肩を借り、俺は一歩一歩、廃屋の階段を上った。
ギシ、ギシ、と、傷んだ踏み板が俺たちの体重に悲鳴を上げる。
失明した俺にとって、この階段はいつ床が抜けるか分からない、奈落への入り口に思えた。
二階へ上がり、俺は、俺の耳にだけ届く声を頼りに進む。
『……こっち。左』
「……左だ」
俺が言うと、茜は「はい」と短く答え、俺を支えて二階の廊下を左に進んだ。
二階もカビと埃の匂いが凝縮されていて、むせかえりそうになる。
「三上さん、手前にドアが3つあります」
『……一番、奥』
「一番奥の部屋だ」
「……ここですね」
茜が一番奥のドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
ゆっくりとドアが開かれる。
その瞬間、俺の鼻を、ある匂いが突いた。
カビや埃とは違う。
俺が今、自分の体から発している甘ったるい腐臭。
そして、それとは別に、塗り薬……ステロイド軟膏に似た独特の薬品の匂い。
ここは生きていた頃の蒼月凪が病と戦っていた場所だ。
「……これは……」
茜が息を呑む音がした。
「……ひどい……」
「どうなってる?」
俺は茜に尋ねた。
「……窓が板で打ち付けられています」
茜はペンライトの光で部屋の内部を照らしながら、俺の目となって状況を伝えてくれる。
「三上さん……あなたから聞いたのと同じです。部屋に外の光が一切入らないように、完全に塞がれている」
「……あいつも光を……」
「そして壁一面に……絵が」
茜の懐中電灯が壁を舐める。
「スケッチ……デッサン……? 全部、海の絵です。でも……」
「でも?」
「……太陽が無い。全部、夜か、嵐の海のようです」
そうだ。こいつは光を憎んでいた。
この部屋は蒼月凪の内面そのものだった。
茜はさらに部屋の奥へと進んだ。
「……PCデスクと画材……。デジタルタブレットが埃を被っています。ここで、絵を……」
茜は何かを見つけ、声を潜めた。
「……本棚……。三上さん、これ……」
「何だ」
「……民俗学の専門書……? 『日本呪術全集』『穢れの構造』『異界と日本人』……」
俺は息を呑んだ。
健太だ。健太の本棚と同じだった。
健太は蒼月凪に民俗学徒としてのシンパシーを感じていた。
だが、それは逆だったのかもしれない。
蒼月凪は自分の病気と、この土地の穢れを呪術的な知識で理解しようとしていた。
だからこそ、あいつは単なる怨霊ではなく、これほどシステマティックな呪いを構築できたのだ。
『……この苦しみは医療じゃ治せなかった』
凪の声が俺の頭の中で、茜の発見に呼応するように静かにつぶやいた。
「……三上さん、薬がありました」
茜がPCデスクの上を照らした。
「薬袋です。……大量の薬のゴミ……」
茜はゴム手袋をはめた指で、埃を被ったプラスチックの容器をペンライトで照らし出した。
「……この処方……。間違いない。『光線過敏症』……太陽光に対する重度のアレルギーです。そして、こっちは……ああ、やはり……」
茜の声が、わずかに震えた。
「……『重度のアトピー性皮膚炎』。それも尋常ではないレベルの処方です。……この二つが彼女の『壊貌病』の……いえ、彼女が苦しんでいた病の正体……!」
茜は医師として、蒼月凪の病名を特定した。俺の体で今、起きている呪いの元だ。
その時、俺の幻聴がひときわ強くなった。苦しみに満ちた凪の絶叫が俺の脳を直接殴りつけた。
『痛い! 痛い! 痒い! 眩しい! 誰も分かってくれない! わたしの顔を見て、みんな笑うんだ!』
「ぐ……っ!」
俺はその精神的な奔流に耐えきれず、膝から崩れ落ちた。
「三上さん! しっかりして!」
茜が駆け寄ってきた。
「……大丈夫だ……。あいつの……苦しみが流れ込んできてる……」
俺は茜に支えられながら、デスクの方を向いた。
「……茜さん……。デスクの上に他に何かないか……。あいつの、もっと内面が分かるものが……」
「……! はい!」
茜は俺の意図を察し、再びデスクの捜索に戻った。
「……ノートパソコン……。それと、これは……日記?」
茜が一冊の黒い表紙の大学ノートを手に取った。
彼女はペンライトの光で、そのページをめくり始めた。
「……ひどい……。書き出しは普通の内向的な少女の日記です。絵のこと、学校のこと……でも、だんだん……」
茜は言葉を失った。
「……病気への恨み。他人への呪詛。光への憎しみ。……『今日も外に出られなかった』『顔が崩れていく』『誰もわたしを見ない』……」
それは呪いの設計図であり、蒼月凪の絶望の記録だった。
茜は日記の最後の方のページを震える手でめくった。文字はもはや判読が困難なほど荒れ狂っていた。
「……『許さない』『全員、呪ってやる』……そして……」
茜が、ある一行を読み上げた。
「……『姉さんだけだ』……『姉さんがくれた、このPCだけが、わたしの全て』……」
姉。
その単語に俺の幻聴が再び強く反応した。
さっきまでの憎悪とは違う。それは深い、深い依存と……愛情のような歪んだ響きだった。
『……海琴……姉さん……』
凪の声が初めて俺以外の誰かの名前を呼んだ。
「……今……」
俺は顔を上げた。
「……茜さん。あいつ……今、『みこと』と……」
「え……?」
「姉の名前だ。……姉の名前は『みこと』だ……!」
茜は俺の言葉に驚き、慌てて日記の他のページをめくった。
そして、あるページで手が止まった。
日記に一枚の写真が挟まれていた。
茜が、それをペンライトで照らす。
「……ああ……! これ……!」
それは色褪せたプリクラだった。
まだ顔の症状が出る前の内気そうに笑う蒼月凪と、その隣で彼に寄り添うように笑う、年上の女性。 そのプリクラの端に丸文字で、こう書かれていた。
『凪&海琴 ずっと仲良し!』
「……三上さん……。あなたの言う通りです」
茜は震える声で言った。
「キーパーソンは、この人だ。……蒼月海琴……」
俺と茜は暗闇の中で互いの存在を確かめるように息を詰めた。
蒼月凪にまつわる、この呪いを解く鍵を握るかもしれない人物。
俺たちはその存在に淡い期待を抱き始めていた。




