第3話 深入り
俺の挑発が、佐々木健太という青年の持つ危うい導火線に火を点けてしまったことを、この時の俺はまだ正確には理解していなかった。
翌日の編集部。
健太はいつもの騒がしさとは打って変わって、まるで研究室の学者然として自席のノートPCにかじりついていた。
(多摩川のUMAか。ようやく本気で調べ始めたか)
俺はそう高を括っていた。
あいつの民俗学の知識も、たまには役に立つだろう。
俺自身は相変わらず『呪いの古道具』特集のための過去の掲載記事の洗い出しという、退屈な作業に没頭していた。
古びたバックナンバーの埃っぽい匂いが編集部に充満する。
昼休みを過ぎても、健太はデスクから動こうとしなかった。
カップ焼きそばをすする音だけが、やけに響く。
さすがにその異様な集中力に違和感を覚え、俺は声をかけた。
「おい、佐々木。そんなに多摩川の河童は魅力的なのか。昼飯くらいちゃんと食え」
「……あ、三上さん」
振り返った健太の顔は寝不足と興奮で奇妙な熱を帯びていた。
目の下にはくっきりと隈が刻まれている。
「河童じゃないスよ。calmです」
「……まだやってたのか。昨日、俺が言ったこと、分かってねえな。それは時間の無駄だ」
「無駄じゃない!」
健太は普段の彼からは想像もつかない強い口調で遮った。
俺は思わず眉をひそめる。
「三上さんが言ったんじゃないスか! 『身元を突き止めてみろ』って! 俺は今それをやってるんです!」
「……で、成果は?」
俺が冷ややかに問うと、健太は待ってましたとばかりにPCの画面をこちらに向けた。
そこにはびっしりとテキストが並んだ、十年以上前の電子掲示板のログが表示されていた。
「calmは徹底して匿名でした。X(旧ツイッター)もフェイスブックも、今どきのSNSは一切やってないか、消してる。でも、もっと古いネットの海を漁ったら、いくつか見つけたんです」
健太が指差したのはデジタルアート系のマイナーなフォーラムの過去ログだった。
そこにはcalmと同じ作風。暗い青を基調とした風景画を投稿している、別のハンドルネームが存在した。nagiという名前だった。
「このnagiって奴の投稿、calmのサイトが立ち上がる直前で途切れてるんスよ。しかも、自己紹介欄に、こう書いてある。『海が好き。でも、強い光は苦手』」
「……それがどうした。よくある設定だろ」
「設定なんかじゃない! これ、たぶん本人のことですよ! このフォーラムでのやり取りを見ると、この人、極端に他人との交流を避けてる。でも、作品へのこだわりは異常に強い。これ、絶対calmの同一人物です!」
健太の目は獲物を見つけた猟犬のようにギラついていた。
確かに、これはただの「ごっこ遊び」の参加者が見つけられる情報ではない。
健太が、その知識と情熱を本来とは異なる方向に全力で注ぎ込んでいる証拠だった。
「……だとしても、それが『呪い』の証拠にはならん。ただの引きこもりの画家だった、ってだけだろ。もういい、その辺にしとけ。お前、昨日からまともに寝てないだろ」
俺は昨日の自分の言葉が、あいつをここまで駆り立ててしまったことに、わずかな罪悪感と、それ以上の焦燥感を覚えていた。
こいつは境界線を越えようとしている。
「三上さんは分かってない!」
健太は苛立ちを隠そうともせずに叫んだ。
「あんたは全部『ネタ』としか思ってない! でも、この人は違う! この人の絵には本物の『苦しみ』が詰まってる! 『BlueLull』ってサイト名だって、『蒼い凪』……このnagiって名前と繋がるじゃないスか!」
「……佐々木」
「俺はこの人のことが知りたい。なんで、あんな絵を描いたのか。なんで、あんなサイトを作ったのか」
健太の口調はいつの間にか調査者のそれから、まるで故人を偲ぶ友人のような、ひどく感情移入したものに変わっていた。
「ネットの噂を理解するためには、その背景にある『民俗』を理解しないと……。この人を生み出した『闇』を理解しないと……!」
「佐々木、お前、少し熱くなりすぎだ。一度PCから離れろ」
「……ッス」
健太は俺の言葉に再び唇を噛み、乱暴にPCの画面を自分の方へ戻してしまった。
(マズいな)
あいつはcalmという未知の存在に自分を重ねようとしている。
民俗学徒としての探究心が最悪の形で暴走し始めていた。
***
その日の夜。
編集部には俺と健太だけが残っていた。
俺は企画書を仕上げるため、健太は「UMAのレポートを今日中に」と俺が釘を刺したためだ。
カタカタ、とキーボードを打つ音だけが響く。
午後十時。
俺は一息つき、自販機でコーヒーを買うために席を立った。
「佐々木、UMAは進んだか?」
声をかけたが返事がない。
健太のデスクを覗き込むと、彼はヘッドホンをつけ、画面に釘付けになっていた。
Wordの画面ではない。
まただ。『BlueLull』のサイトだった。
「おい」
俺は健太の肩を掴んだ。
健太はビクリと飛び上がり、慌ててヘッドホンを外す。
「……み、三上さん」
「UMAのレポートはどうした」
「あ、いや、それはその……」
健太の目は泳ぎ、ひどく狼狽していた。
「……煮詰まっちゃって。気分転換スよ、気分転換」
嘘だ。健太の額には脂汗が滲んでいた。
俺は健太のPCの画面を睨みつけた。そこにはあの海辺の絵――『Untitled_Sea』が、サムネイル表示されている。
「佐々木。お前……」
「分かってるんスよ!」
健太は俺の言葉を遮るように言った。
「分かってます……深入りはするな、って。でも、分からないんですよ! あの人たちのことが!」
「あの人たち?」
「『目がチカチカする』って言ってる人たちのことです! あの人たちは本当に『ごっこ遊び』なんスか? それとも俺みたいに、この絵に何かを感じ取ってるんスか?」
健太の瞳は焦燥と好奇心で潤んでいた。
「理解するためには……やっぱり、体験するしかないと思うんス。現場に行くのがフィールドワークの基本でしょ? なら、ネット怪談の『現場』はここじゃないスか」
あいつはマウスのカーソルを『Untitled_Sea』のサムネイルに合わせた。
俺の警告も、オカルト記者としての常識も、もはやこいつには届かない。
健太は学術的な探求という大義名分のもと、自ら呪いの淵を覗き込もうとしていた。
「見るしかないんだ。本気で」
その指がクリックされる寸前だった。




