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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第28話 声の導き

 世界は昼も夜も等しく、完全な闇になってしまった。

 何も見えないという事実に俺の心は不安で押し潰されそうになっていた。


 『白杖をついて街中を歩いていた若者』『盲導犬と共に散歩をしていた老人』


 俺は盲目であっても世間で活動していた人達の姿を思い浮かべ、何とか自分を奮い立てながら不安に抗った。

 

 床や壁を手で探り、周囲の状況を把握する練習を重ねていると、また襖の向こう側で、カサリ、と何かが床に置かれる音がした。

 老婆が何も言わず、食事を運んでくれているのだ。


 俺は宿の老婆が置いていったおにぎりで最低限のエネルギーを体に押し込んでいた。

 皮膚はもう感覚がないほどに爛れ、痒みと痛みが交互に意識を奪おうとする。

 だが、それ以上に俺の全身を支配しているものがあった。

 呪いの声……蒼月凪の声だ。

 俺が、あいつの取引……舟倉へ行くことを承諾してから、声は俺の頭の中で一時も途切れることがなかった。


『……そろそろ、行こうよ』


 声は穏やかに、しかし有無を言わさぬ響きで俺の行動を促した。


 俺はリュックを背負った。

 中身は空になった水のペットボトルと健太のメモ、そして、もう気休めにしかならない軟膏のチューブだけだ。

 サングラスはもう必要ない。俺は光を認識することすらできないのだから。

 フードを目深に被り、ただれた顔を隠す。

 俺は老婆に食費さえ払わず、この宿から逃げ出す犯罪者でもあった。


 俺は手探りで部屋の襖を開け、音を殺して廊下に出た。

 老婆は帳場の奥で眠っているようだった。

 ギ、と、古い木の床が軋む。俺はその場で凍り付いた。

 だが、老婆が起きてくる気配はない。

 宿の玄関の引き戸に手をかける。

 重い。錆びついた戸車が俺の非力な腕に抵抗する。


『……左の、下の隅。そこを持って』


 声が冷静に指示を出した。

 俺は言われた通り、左下の隅に手をかけ、体重を乗せる。

 ガタガタと、音はしたが最小限の摩擦で戸は開いた。

 冷たい夜気が俺の爛れた顔を撫でた。


 K市の深夜の港町。

 視界は闇。だが、俺の感覚は異常に研ぎ澄まされていた。

 失明した代償か、あるいは呪いの副作用か。

 俺の耳は数メートル先の路地を歩く、野良猫の足音を拾った。

 鼻は潮の匂いに混じって、どこかの家から漏れ出す、古い油の匂いを嗅ぎ分けた。

 そして何より、皮膚が空気の流れを感じていた。

 右側から来る風は冷たく、左側の建物から反射する空気は生温い。


「……どっちだ」


 俺は暗闇の中でつぶやいた。

 舟倉地区。先日、PCで調べた廃墟の漁師町。

 この宿から南西の方角だったはずだ。だが、今の俺に方角など分かるはずもない。


『五歩、まっすぐ進んで』


 声がカーナビの案内のように俺の脳へ直接響いた。

 俺は杖代わりに拾った宿の傘立てにあった傘を突きながら、言われた通り五歩進んだ。

 コツ、コツ、と、傘の先がアスファルトを叩く音だけが俺の存在証明だった。


『……そこ、右。壁伝いに進んで』


 俺は右に曲がり、手探りで冷たいコンクリートの壁に手をついた。

 爛れた手のひらにザラリとした感触が伝わる。

 俺は盲目のゾンビのように蒼月凪の声だけを頼りに深夜のK市を歩き始めた。


 奇妙な関係だった。

 俺を呪い殺そうとしている張本人が俺の目となっている。

 こいつは俺を確実に自分の本拠地へと導いている。

 俺はその罠に自ら飛び込んでいる。

 だが不思議と恐怖はなかった。

 絶望はとっくに通り過ぎていた。

 残っているのは蒼月凪の核を暴くという、冷たい執念だけだった。


『……止まって』


 声がした。

 俺はその場で立ち止まった。

 何か生臭い匂いが風に乗って流れてくる。

 魚が腐ったような強烈な腐臭。


『……そこ、左に曲がって。……その匂いは避けて』


「……なぜだ」


 俺は初めて声に問いかけた。


「お前の仲間じゃないのか。その『腐った匂い』も」


『……』


 声は一瞬、黙り込んだ。

 そして苛立ったように低い声で答えた。


『……違う。あれはただの「(よど)み」。……わたしはあんなものじゃない』


 俺は言われた通り、左に曲がり、腐臭の発生源から遠ざかった。

 失明した俺の感覚はこの街の異様さをより鮮明に捉えていた。

 常人には何も聞こえない物音。

 常人には何も感じない匂い。

 このK市という土地は俺が思っていたよりも、ずっと深く、何かに汚染されている。

 蒼月凪の呪いはこの土地に溜まった、もっと古い何かと共鳴している。


 ***


 どれくらい歩いただろうか。一時間か、二時間か。

 アスファルトだった地面の感触が、傘の先から、砂利と乾いた土のそれに変わった。

 潮の匂いが一層強くなる。

 そして、波の音がすぐ間近で聞こえていた。


「……着いたのか」


『……うん』


 声は満足そうに答えた。


『ここが舟倉』


 そこは音のない場所だった。

 車の音も、人の話し声も、何も聞こえない。

 ただ、ザアアア、という、寄せては返す波の音だけが鼓膜を支配していた。

 地図からも忘れられた廃墟の漁師町。

 俺は確かに呪いの震源地に足を踏み入れていた。


『……こっち』


 声は俺を砂利道から、さらに細い獣道のような場所へと導いた。

 草が俺のズボンを擦る音がする。

 やがて、傘の先が硬い何かにぶつかった。

 木材だ。古い腐りかけた家の壁。


『……ここだよ』


 声が囁いた。


『わたしの家』


 俺は手探りで、その廃屋の壁を伝った。

 玄関だろうか。板が剥がれ落ち、ぽっかりと口を開けた空間だと分かった。

 俺はその空間へ、一歩足を踏み入れた。

 カビと埃と、そして、あの潮の匂いが鼻をつく。

 蒼月凪はここで生まれ、ここで病に苦しみ、ここで死んだのだろうか。


『……わたしの家へようこそ』


 声がひときわ優しく、俺の耳元で響いた。まるで、待ちわびていた客人を迎えるかのように。


 その瞬間だった。

 パッ! っと、俺が失ったはずの視界に暴力的なまでの光が叩きつけられた。


「ぐ……あああああっ!」


 俺は両手で顔を覆い、その場にうずくまった。

 目が焼ける! 光だ。懐中電灯の強力な光だ。

 誰か、いる!


「……動くな」


 低く分厚い聞き覚えのある声がした。


「……その顔、その姿……。やはり、お前か。三上悟」


 俺は激痛に耐えながら、光の奔流の向こう側に意識を向けた。

 声の主は黒田刑事だ。

 あいつは俺よりも先に、この場所にたどり着いていた。

 蒼月凪の生家。呪いの震源地での再会。それは奇妙な巡りあわせだった。

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