第26話 目覚めと幻聴
意識が腐臭の漂う淀んだ水底から、ゆっくりと引き上げられるような感覚があった。
俺はK市の安宿『みなと屋』の硬い畳の上で目を覚ました。
いや、目覚めたという感覚はなかった。
まぶたを開けても、閉じていても、俺の世界は何も変わらなかったからだ。
完全な闇。
昨日まで、かろうじて残っていた左目の針の穴ほどの光さえ、もうない。
俺はついに失明した。
呪いのプロセスは健太がたどった七日間を遥かに短縮し、俺の視界を完全に奪い去った。
「……あ……ああ……」
声にならない乾いたうめきが漏れた。
手探りで自分の顔に触れる。
目は開いている。瞬きもできる。だが、何も見えない。
絶望が冷たい水のように心臓を浸していく。俺の頭の中は光を失った暗室になった。
そして、それ以上に俺の理性を削っていくものがあった。
異臭だ。
昨夜、床に吐き出した胃液の酸っぱい匂いではない。
俺自身の体から発せられている匂い。
健太が死んだ部屋で感じた、あの、甘ったるく、物が腐っていくような匂い。
壊貌病の症状は俺が意識を失っている間にも確実に進行していた。
顔に触れた指先が、その証拠を捉える。
頬や額に広がった硬い発疹。そのいくつかはすでに潰れ、粘ついた液体がにじみ出ている。
腕も、胸も、背中も、もはや、まともな皮膚が残っている場所を探す方が難しかった。
灼けるような痒みと、皮膚が引きつれる痛みが全身を支配していた。
俺は生きたまま腐っていく。
健太と同じように幻聴に導かれ、窓から飛び降りるのが先か。
それとも、このまま、この部屋で腐敗して死ぬのが先か。
『……おはよう、三上さん』
声がした。
唯一、この暗闇の中でクリアに響く音。
呪いの声だった。
俺が失明したことを知ってか、その声は昨日までの嘲笑するような響きを消し、まるで古くからの友人に語りかけるような穏やかな優しささえ含んでいた。
それが何よりもおぞましかった。
「……黙れ」
俺は床を這い、壁に背中を預けた。体力は限界だった。もう指一本動かすのも億劫だ。
『やっと分かってくれたんだね』
声は俺の抵抗など意に介さず語りかけてくる。
『光のない世界。醜い体。誰にも理解されない孤独。……それが、わたしの見てきた、すべて』
「……お前を理解なんか、してたまるか……」
『もう、いいのよ。あなたはもう、頑張らなくていい』
声は甘く、優しく、俺の罪悪感に囁きかける。
『健太くんのこと、後悔してるんでしょう? あなたが臆病者だと突き放したから、あの子は死んだ。……でも、わたしが許してあげる』
「……やめろ」
『高橋さんも、あなたが間に合わなかったから死んだ。……でも、それも、わたしが許してあげる。もう罪の意識に苦しまなくていい』
この怨念は俺の弱さを、俺の後悔を、すべて知っている。
健太はこれに負けたのだ。許しという名の甘い毒に。
この声を受け入れた瞬間、俺の精神は呪いに乗っ取られる。
『だから、来て』
声は結論を告げた。
『舟倉で待ってるから。そこに来れば、あなたは本当に救われる』
俺は歯を食いしばった。
ここで死ねない。
健太への贖罪はこんな場所で、怨念に許されて死ぬことじゃない。
あいつの無念を晴らす。
そして、呪いにかかり、まだ生きている人をこの連鎖から救い出す。
その執念だけが俺の腐りかけた体に突き刺さった最後の杭だった。
その時。コン、コン、と、部屋の襖が控えめに叩かれた。
「……!」
俺は息を殺した。宿の老婆だ。
昨日、俺が逃げるようにチェックインした時、俺の顔をじろりと見た、あの老婆。
返事をしなかった。
すると、襖の向こう側で、カサリ、と何かが床に置かれる音がした。
そして、老婆は何も言わずに遠ざかっていく。
衣擦れの音。微かな足音。
この宿は古いせいか、失明した俺の耳にも、そういう生活音だけは妙にクリアに聞こえた。
俺は四つん這いになり、音を頼りに襖まで這っていった。
震える手で襖をほんの数センチだけ開ける。
ほんのりと香る米の匂いだ。
床に置かれたであろう物を慎重に手で探ると、小さな盆の淵に指先が触れた。
そこにあったのはラップに包まれた、温かい、おにぎりが二つ。
そして、湯気の立つ湯飲み。
……老婆は俺がこの部屋に閉じこもり、異常な状態にあることに気づいている。
俺が昨日吐き散らした、あの異臭にも。
だが何も言わず、ただ、食事を置いていった。
なぜだ?
気味悪がって警察に通報するのが普通だろう。
ただ単に親切なだけなのか?
あるいは哀れみか……。
どちらにせよ、ありがたかった。
俺はおにぎりを掴むと、獣のように貪り食った。
塩味が乾ききった体に染み渡る。
生きるためのエネルギーが、わずかに戻ってきた。
俺は覚悟を決めた。
もう、この目は見えないのだ。この皮膚が治ることもないだろう。
俺の現実は、この闇と、痛みと、異臭だ。
そして、こんな状況で得られる唯一の情報源は俺を殺そうとしている幻聴だけ。
俺はこの声を利用するんだ。
この声を新たな目として、道しるべとして真相を掴む。
「……おい、蒼月凪」
俺は暗闇に向かって、はっきりと語りかけた。
「聞こえてるんだろ。……いいだろう。行ってやるよ、舟倉へ」
『……!』
声が一瞬、喜びに震えたように感じた。
「だが、その前に、外に出る準備をしなきゃならん。……夜まで待て。それと、俺の質問に答えろ」
俺は賭けに出た。
『……なに?』
「俺は目が見えない。お前の言う舟倉とやらには、お前が導け。……それがお前の望みだろ?」
暗闇の中で、しばし静寂が訪れた。
怨念が俺の取引を吟味しているかのようだった。
やがて声は静かに、しかしはっきりと答えた。
『……夜になったら教えてあげる』
俺は腐った畳の上で口の端を吊り上げた。
呪われた当事者と、呪いそのものとの奇妙な関係が今、始まった。
夜を待つ。そして、俺はこの声だけを頼りに呪いの震源地へと歩き出す。




