第25話 増殖する悪意
社会のパニックは凄まじい速度で増殖していた。
『壊貌病』
週刊誌がセンセーショナルに名付けたその呼称は瞬く間に定着した。
もはやそれはオカルトや都市伝説などという曖昧なものではなく、現実を脅かす疫病として認識され始めたのだ。
SNSは恐怖の培養皿と化していた。
『壊貌病、空気感染するってマジ?』
『患者が使った電車の吊り革からうつるらしい』
『うちのクラスに「目チカチカする」って言ってる奴いるんだけど、休ませろよ』
『顔に発疹出たバイト、即クビになったらしい。当然だわ』
デマと憶測が事実として拡散されていく。
誰もがcalmのサイトを見た人間を呪われた者としてではなく、汚染源として恐れ始めた。
症状が出た者は学校や職場、コミュニティから瞬く間に疎外されていった。
ある女子生徒は顔に発疹が出たことを親に相談した結果、自室に鍵をかけられ隔離された。
ある大学生はアパートの隣人に「病気をうつすな」と罵声を浴びせられ、追い詰められた末に自ら命を絶った。
それは呪いの直接的な作用による自殺ではなかった。
人々が作り出した恐怖が人を殺し始めていた。
皮肉なことに恐怖が広がれば広がるほど、呪いの核心である『BlueLull』へのアクセス数は増加の一途を辿っていた。
テレビのワイドショーが「絶対に見てはいけない」と前置きしながら、モザイクをかけたサイトの画像を大写しにし、専門家がその危険性を語る。
それは人類の最も古い好奇心、「見てはいけない」と言われたものほど見たくなるパンドラの箱の心理そのものだった。
人々は恐怖に怯えながら、同時に、その恐怖の源を安全なスマートフォンの中から覗き見ていた。
そして、その無数の視線が、三年前の死者の怨念をさらに強大なものへと育て上げていた。
呪いは社会全体を巻き込むことで、かつてないほどのエネルギーを獲得し、その結果、新たに呪われた者たちの症状はより速く、より重く進行していく。
今や、サイトを見た者が数時間で失明し、幻聴を聞き、発疹に苦しむケースさえ出始めていた。
完全な悪循環だった。
K市の安宿『みなと屋』。
俺の肉体はもはや、俺のものではなかった。
視界はほぼ無い。左目の中心部にかろうじて針の穴ほどの光が残っているだけだ。
その光も暗闇の中で脈打つ黒い染みに、今にも飲み込まれようとしていた。
全身を覆う発疹は服と擦れて潰れ、ただれた皮膚は腐敗臭に近い甘ったるい異臭を放ち始めていた。
健太が死んだ部屋の、あの匂いだ。
俺は生きながらにして腐り始めていた。
『……ひどい顔』
声がした。呪いの声はもはや俺の頭の中で途切れることがなかった。
『鏡、見てごらんよ』
「……うるさい」
『わたしと同じだ。……いや、わたしよりも醜いかも』
「黙れ……!」
俺は手探りで水のペットボトルを掴み、ぬるくなったそれを口に流し込んだ。
肉体的な苦痛よりも、この精神を直接削ってくる声が俺の理性を蝕んでいく。
俺は自分がいつ、健太のようにあちら側に渡ってしまうか、その瀬戸際に立たされているのを感じていた。
だが、まだだ。俺はまだ三上悟だ。
俺はかろうじて残った左目の視力でスマートフォンの画面を眼球に焼き付けるように見つめた。
画面が痛い。
社会がパニックに陥っている今、ネットには普段なら表に出てこない情報が溢れかえっているはずだ。
俺は音声読み上げ機能を使いながら、SNSではなく、K市の、もっとローカルな情報……郷土史家のブログや、古い住宅地図のアーカイブを漁っていた。
蒼月凪。十九歳で死亡。光が苦手。海の近く。
そして、この皮膚が壊れる呪い。
蒼月凪は生前、皮膚の病気で苦しんでいた。
それは周囲の目を極度に恐れる病だ。
だとすれば、住んでいたのは人の多い場所ではない。
ひっそりと隠れるように暮らせる場所。
光を嫌い、海を愛した人間が最後に選ぶ場所。
俺はK市の地図を頭の中で再構築した。
駅前の商店街ではない。開発された新興住宅地でもない。
俺はK市の南西部に位置する、ある地区に注目した。
「舟倉地区」
古くからの漁師町だが、今はそのほとんどが廃屋と化し、地図の上では居住者少数区域に指定されている場所。
三方を山に囲まれ、海に面した小さな入り江。
郷土史家のブログによれば、その地形からK市の中でも特に日照時間が短く、一日中、薄暗い場所なのだという。
そして、その地名はかつて不治の病にかかった者を隔離し、海に舟で流したという、古い伝承に由来する、とあった。
「……ここだ」
俺は震える声でつぶやいた。
間違いない。
光を嫌い、人目を避け、病に苦しんだ蒼月凪が最後に住んでいた場所。
あるいはあいつの一族が古くから住んでいた場所。
呪いの震源地はここだ。
その瞬間。俺の脳を直接揺さぶるように声が響いた。
『……やっと、気づいたのね』
それは今までの嘲笑うような声でも、同情するような声でもなかった。
まるで、待ちわびていた客人を迎えるような、静かな歓喜に満ちた声だった。
『待ってるよ』
『わたしの家で』
次の瞬間。
俺の体から全ての力が抜けた。
激しい目眩が脳髄をかき回す。
胃が裏返るような強烈な吐き気。
「……ぐ……う……!」
俺は床に倒れ込み、胃液とも膿ともつかない、酸っぱい液体を畳の上に吐き出した。
体が言うことを聞かない。
視界の最後に残っていた針の穴ほどの光が今、完全に闇に飲み込まれた。
ついに俺は失明した。
そして、耳元で蒼月凪の声だけが子守唄のように優しく響いていた。
『おやすみ、三上さん。……もう、何も見なくていいから』
俺の意識は宿の冷たい畳の上で、ぷつりと途絶えた。




