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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第22話 火種

 安宿のカビ臭い布団の中で、俺は目を覚ました。

 いや、眠っていたという感覚はなかった。激しい頭痛と絶え間なく襲ってくる目の痛みで、意識を失っていただけに近い。


 部屋は昨日と同じ完全な暗闇だった。

 窓を目張りしたガムテープが、わずかに剥がれかかっているのか、どこからか冷たい隙間風が吹き込んできている。


 体は泥のように重かった。

 昨日K市に到着してから、俺はほとんど何も口にしていない。

 胃が空っぽのはずなのに吐き気だけが込み上げてくる。

 そして何より、目だ。

 昨夜よりも染みは広がっていた。

 左目の視界も、すでに中心部を残してほとんどが闇に侵食されている。

 もう、遠くない。俺が完全に光を失う日は。


 それと、もう一つ。

 右腕が猛烈に痒かった。

 昨夜、一つだけ見つけたあの赤い発疹。

 暗闇の中で手探りで触れてみると、その数は明らかに増えていた。米粒ほどの硬い隆起が、五つ、六つ……いや、もっと多い。

 服の上からでも分かるほど、その存在を主張している。


「……なんだよ、これ……」


 俺は爪を立てて腕を掻きむしった。

 健太の呪いのプロセスに、こんな症状はなかったはずだ。

 失明、幻聴、誘い込み、そして自殺。

 皮膚に異常が出るなんて聞いていない。

 これは呪いの副作用か?

 それとも別の何かが始まっているのか?

 未知の症状は俺の焦りをさらに増幅させた。


 俺は重い体を引きずり、布団から這い出した。

 調査を進めなければならない。残された時間は少ない。

 俺は昨日コンビニで買っておいたカロリーバーを無理やり口に押し込み、ミネラルウォーターで流し込んだ。

 リュックから唯一の武器であるサングラスを取り出し、顔にかける。

 そして、部屋のドアをほんの少しだけ開けた。そこにある、廊下の薄暗い電球の光。


「……ッ!」


 それだけで眼球に激痛が走る。

 俺はうめき声を噛み殺し、壁伝いに宿の階段を降りた。

 帳場に老婆の姿はなかった。好都合だ。今の俺の顔を見られたくはない。


 外は曇り空。昨日より陽射しは弱いはずだった。

 だが俺にとっては真夏の直射日光と変わらなかった。

 サングラスをしていても世界は白く飽和し、輪郭を失っている。

 道行く人々の顔も、車の形も、ぼんやりとしか認識できない。

 俺はスマートフォンの音声読み上げ機能を頼りに目的地を設定した。

 K市立西高等学校。

 蒼月凪が三年前、十九歳で死んだというなら、恐らく、この街の高校に通っていたはずだ。

 卒業生名簿か、あるいは当時の教師に話を聞ければ、何か手がかりが得られるかもしれない。


 バスと徒歩で一時間近くかかった。

 高校の校門の前に立った時、俺はすでに汗だくで息を切らしていた。

 光の中を歩くだけで体力が異常に消耗する。

 守衛に怪しまれながらも、「卒業生の蒼月凪さんのことで、少しお話を伺いたい。雑誌の取材で」と、使い古した嘘をついた。

 幸い『深淵』という雑誌の名前までは知られていなかったようだ。俺は事務室に通された。


 対応してくれたのは人の良さそうな、しかし事務的な中年男性だった。


「蒼月……凪さん、ですか。少々お待ちください」


 男性はPCで何やら検索を始めた。

 俺はサングラスをかけたまま、その手元を凝視した。PCのモニターが、また俺の目を刺す。


「ああ……いました。蒼月凪。確かに本校を卒業されていますね。ですが……」


 男性はそこで言葉を濁した。


「……何か?」


「いえ……プライバシーの問題もありますので、詳しいことはお話しできませんが……。確か、在学中からあまり学校には……。体も弱かったようですし」


「病気だったんですか?」


「さあ……。もう当時の担任も異動しておりますので。卒業アルバムなら閲覧は可能ですが」


 それだけだった。

 体調不良で休みがちだった生徒。それ以上の情報は学校という組織の壁に阻まれて、何も引き出せなかった。

 俺は卒業アルバムの閲覧も断った。今の俺の目では細かい顔写真を確認することなど不可能だったからだ。


 無駄足だった。俺は礼もそこそこに高校を後にした。


 帰り道、俺は公園のベンチで、ぐったりと座り込んだ。

 体力の限界だった。

 サングラスを外すと薄曇りの空でさえ網膜に焼き付く。

 目を閉じると、暗闇の中に、あの黒い染みが、よりくっきりと浮かび上がった。

 そして、声がした。


『……無駄骨だったね』


 呪いの声だ。嘲笑うような響き。


「……うるさい」


『誰も、わたしのことなんか覚えていない』


『あなたは独りだ』


 呪いは俺の焦りと孤独に的確につけ込んでくる。


 俺はスマートフォンの画面を痛みをこらえて確認した。

 何か別の情報はないか。

 ニュースアプリを開いた瞬間、俺は目を疑った。

 SNSのトレンドワード。

 その上位に見慣れたハッシュタグが並んでいた。


『#目がチカチカする』

『#calmチャレンジ』


「……なんだ、これは……!」


 俺は震える指で、そのタグをタップした。

 そこにはおびただしい数の若者たちの書き込みが溢れていた。


『例の配信見てサイト見ちゃったw マジで目痛くて草』

『calmチャレンジ成功! 失明待ったなし!』

『見てって声聞こえた気がするんだけどwww プラシーボ乙www』


 馬鹿どもが。

 俺の血の気が一気に引いていく。

 昨日、俺が電車でK市に向かっている頃、どこかの配信者が「凸ってみた」をやっていたのだ。

 そして、それが切り抜かれ、拡散され、「チャレンジ」と称して、面白半分で『BlueLull(ブルー・ラル)』を見る若者が全国規模で爆発的に増えている。

 これはもう、M大学のサークル内だけの話ではない。

 火種は日本中に撒かれてしまった。


 健太の七日間。高橋の一日。

 これから一体何人が、あの窓から踏み出す?

 もう、俺一人の手には負えない。

 警察……黒田に?


 俺の言葉を誰が信じる?


 俺はスマートフォンの光に耐えきれず、画面を伏せた。

 右腕の痒みが、またぶり返してきた。

 俺は無意識に爪が食い込むほど強く、そこを掻きむしっていた。

 服の下で、増殖した発疹が、プチリ、と潰れる嫌な感触がした。

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