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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第20話 声の導き

 体が芯から冷えるような寒気で俺は意識を取り戻した。

 アパートの床にどれくらい倒れていたのか分からない。

 完全な暗闇の中、体は鉛のように重く、激しい頭痛と吐き気が、まだ胃の底で渦巻いていた。


『……K市に、来て』


 幻聴は途絶えていなかった。

 俺が意識を失っている間も、呪いの声はまるで壊れたテープのように、その指示を俺の脳に送り続けていた。

 もう、くぐもった囁き声ではない。

 穏やかで、しかし拒否することのできない澄んだ声だった。


『K市に来て。わたしがいた場所に来て』


「……うるさい」


 俺は床に散らばった資料の山をかき分け、壁にもたれかかった。

 視界は最悪だった。

 右目はもうほとんど機能していない。

 中心部にかろうじて光を感じるだけで、その周囲はすべて、黒い染みに飲み込まれていた。

 左目も、すでに視界の半分が闇に侵食されている。

 俺に残された視力は健常な人間の四分の一にも満たないだろう。

 このまま、この暗闇の部屋で衰弱していけば、数日後、俺は健太と同じ末路を辿る。

 いや、その前に黒田がドアを破って踏み込んでくるか。

 いずれにせよ、ここにいては終わりだ。


『K市に来れば、分かるから』


 声が俺の思考を先回りするように囁く。


「……罠、なんだろ」


 俺は暗闇に向かって吐き捨てた。


「俺をお前の本拠地に呼び込んで、どうするつもりだ。健太たちと同じように殺すためか?」


『見てほしいだけ』


 声は淡々と答えた。


『わたしが見てきたものを、あなたにも見てほしいだけ』


 分かっている。これは罠だ。

 死者が俺を怨念の中心地へ呼び込もうとしている。

 行けば確実に呪いは加速するのだろう。

 俺は呪いに蝕まれた頭で必死に考えた。この呪いを解く鍵は一体どこにあるのだろうと。

 そして結論に至った。

 その結論そのものが、呪いに誘導されているのかは分からないが、とにかく俺は決めた。

 呪いを解くには呪いの大元を叩くしかない。

 そして、その真相を知る手がかりは、きっとK市にあるのだろう。


「……上等だ」


 俺は壁に手をつき、よろよろと立ち上がった。


「行ってやるよ、K市へ。お前の望み通りに。だがな、俺は健太とは違う。呪いに取り込まれに行くんじゃねぇ。呪いを暴き出すために行くんだ」


 声はふっと途絶えた。

 まるで、俺の承諾を聞き届けたかのように。


 決意は固まった。この視界が完全に奪われる前に動く。


 俺は手探りで最小限の荷物をリュックに詰め始めた。

 財布。

 画面はほとんど見れないが、通信手段としてスマートフォンは持っておこう。

 モバイルバッテリー。

 そして、健太の遺品である、あの殴り書きのメモ。

 これはあいつの形見であり、俺の唯一の道標だ。

 ノートPCは重すぎて諦めた。もう、あの光に耐えることもできないだろう。

 最後に俺は机の引き出しの奥を探った。

 あった。

 昔、夏の心霊スポット取材で使ったきり忘れていた、安物のサングラス。

 これがあっても、外の光は地獄だろう。だが、無いよりはマシだ。


 問題はどうやって、このアパートを出るか。

 黒田は「張ってる」と言っていた。玄関のドアは確実に見張られている。

 俺は部屋のもう一つの出口……台所の小さな裏窓に目を向けた。

 このアパートは一階だ。

 窓は小さく、大人が通るには窮屈だが、痩せこけた今の俺なら、ギリギリ抜けられるかもしれない。

 窓の外は隣のビルとの隙間、薄汚い路地だ。人が一人ようやく通れるかという程度の。

 ここなら表通りで見張っている黒田の部下にも気づかれないはずだ。


 俺はリュックを背負い、サングラスをかけた。

 暗闇の中でサングラスをかける姿はひどく滑稽に違いない。

 俺は最後に、窓に貼ったガムテープをほんの少しだけ剥がした。

 そこから漏れ込んできた冬の午後の弱々しい灰色の光。


「ぐ……ッ!」


 サングラス越しだというのに、網膜に焼けた鉄串が突き刺さるような激痛が走った。

 俺は痛みに呻きながらも、ガムテープを完全に引き剥がした。


 窓の鍵を開け、ガラス戸を引く。ギギギ、と錆びた音が響いた。

 俺はその隙間に体をねじ込んだ。


「……っ!」


 肩が、骨盤が、窓枠に擦れて痛む。

 だが、俺は構わず外の路地に転がり出た。

 ゴミの悪臭と冷たい外気が俺を現実に引き戻す。


 やった。脱出できた。

 俺は顔を上げないよう、うつむいたまま路地を走った。

 サングラス越しでも世界は白く、燃え上がって見えた。

 アスファルトの反射光が、ビルの窓の反射光が、俺の視神経を無慈悲に焼き切ろうとする。

 健太があの日、アパートの窓から飛び出す直前、光を浴びて「きれいだ」と言った。

 あれは嘘だ。

 あいつはもう、何も見えていなかったのだ。

 ただ、声に導かれるまま、(あちら側)へ踏み出したに過ぎない。


 俺は壁伝いに、よろめきながら神保町の駅へと向かった。

 道行く人々が、俺の異様な姿を遠巻きに避けていくのが感じられる。

 サングラスをかけ、光から逃げるように、ゾンビのように歩く男。

 誰も、俺に手を差し伸べない。

 それでいい。


 券売機も、もはやまともに見えない。

 俺はポケットの小銭をすべて掴み出し、一番安い切符を買った。

 K市までの運賃はあとで精算すればいい。

 ホームに滑り込んできた神奈川方面へ向かう電車。

 そのドアが開いた瞬間、俺は車内の暴力的なまでの蛍光灯の光に、一瞬、足がすくんだ。


「……行くしか、ねえんだよ」


 俺は自分にそう言い聞かせ、車内に転がり込んだ。


 乗客たちは好奇と侮蔑の視線を俺に向けていることだろう。

 俺は車両の隅でうずくまり、ただ、目を閉じた。

 ガタン、と重い音を立てて、電車が動き出す。

 俺は呪われた当事者として怨念の中心地へ向かっていく。

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