第2話 伝播のごっこ遊び
あれから二日が過ぎた。
月刊「深淵」編集部は相変わらずの空気に満たされている。
俺は来月号の特集記事『本当にあった!? 呪いの古道具』の構成案を練っていた。
正直、使い古されたネタだ。
だが、編集長はこういう分かりやすい『呪い』が好きだった。
「…………」
ふと視線を上げると、佐々木健太がまた自分のデスクでノートPCのモニターを凝視していた。
その背中はここ数日、妙に静かだった。
いつもなら「面白いネタ見つけましたよ!」と騒ぎ立てるか、あるいは大学のレポートに追われて「無理ゲーっス」とぼやいている頃合いだ。
だが、今の健太はまるで何かに取り憑かれたように画面に集中している。
俺が頼んだ資料のコピーも、まだ終わっていないはずだ。
「おい、佐々木。コピーはまだか!」
俺が声をかけると、健太の肩がビクリと跳ねた。
まるで背後から殴られたかのように大げさな反応だった。
ゆっくりとこちらを振り返った健太の顔を見て、俺は眉をひそめた。
「……あ、す、すみません、三上さん。今やろうと……」
「今やろうと、じゃねえよ。さっきから三十分、お前、画面に穴が開くんじゃないかってくらい睨めつけてるぞ。……また例のサイトか」
健太の目は血走っているというよりは好奇心でギラギラと輝いていた。
この手のネタを見つけた時の、あいつ特有の危うい目だ。
「違うんスよ! いや、違くはないんですけど、これは調査です! ちゃんと『深淵』のネタになるかどうかの!」
「ほう。で、何か出たか」
俺が椅子に深くもたれかかって問うと、健太は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「やっぱり、ヤバいですよ、これ。二日前の時点ではまだ『裏アカ』とか『匿名掲示板』の一部だけだったじゃないスか。でも今、X(旧ツイッター)のトレンドに、関連ワードが入りかけてるんス」
「関連ワード?」
「『目がチカチカする』です」
健太は得意げに自分のPCの画面を俺に向けた。
そこには『#目がチカチカする』というハッシュタグと共に無数のつぶやきが並んでいた。
『最近ずっと目がチカチカする。疲れ目かな』
『calmの絵、見ちゃったんだけど、気のせいか目が痛い』
『例のサイト、マジで呪われるかも。視界がなんか変』
「……馬鹿馬鹿しい」
俺は思わず吐き捨てた。
「言ったろ、佐々木。これは『ごっこ遊び』だ。誰かが『目がチカチカする』と言い出せば、それを見た奴が『自分もそうかもしれない』と思い込む。集団ヒステリー、集団暗示だよ。お前、民俗学専攻なら、そのくらいのメカニズムは分かるだろ?」
「で、でも、これだけの数が一斉にですよ!? しかも、みんなcalmのサイトに言及してる!」
「当たり前だ。それが『流行』だからだ。インフルエンザと同じで、情報は伝播する。特に恐怖はな。お前が今やってるのはその伝播に加担してるだけだぞ」
俺の冷ややかな言葉に健太はカッとなったように反論した。
「じゃあ、三上さんは、これが全部『嘘』だって言うんスか! これだけ騒がれてるのに!?」
「嘘かどうかは問題じゃない。俺たちが扱うのは『現象』だ。そして、今起きてる『現象』は『呪いの絵が流行っている』という事実だけだ。絵そのものに力があるわけじゃない。いいから、コピーを済ませろ。あと、来月の企画案、お前は『多摩川に現れたUMA』の担当だろ。そっちを進めろ」
「……ッス」
健太は子供のように唇を突き出し、不満を隠そうともせずに席を立った。
コピー機に向かうその背中が、やけに頑なに見えた。
(熱くなるのも大概にしねえとな)
俺はため息をつき、デスクの上に置きっぱなしになっていたタブレット端末に手を伸ばした。
スリープを解除すると、画面には健太が見ていた『BlueLull』のトップページが表示された。
雨の路地裏。月の廃墟。そして、中央に配置された問題の絵。
『Untitled_Sea』(無題・海)とだけ、そっけないタイトルが添えられている。
タブレットの画面ではサムネイルとして小さく表示されているだけだ。
(……確かに、うまい絵だ)
技術は確かだ。
暗い青の濃淡だけで、寄せては返す波の冷たさや、湿った潮の匂いまで伝わってくるようだ。
だが、それだけだ。
これを見て「目がチカチカする」? 馬鹿らしい。
俺は画面に映った自分の疲れた顔を見て、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「三上さん、コピー終わりました」
健太が戻ってきた。
俺は何事もなかったかのようにタブレットを健太に突き返した。
「忘れ物だ。それと、佐々木」
「なんスか」
「お前、民俗学をやりたいんだろ。ネットの流行に踊らされるのはジャーナリストの仕事じゃねえ。ましてや、学者のやることでもない。もっと自分の足を動かせ」
「……」
「そのcalmとやらが本物だと思うなら、ネットの書き込みを百回読むより、作者の身元を一人で突き止めてみろ。それが『取材』だ。……まあ、どうせ無理だろうがな」
俺なりの最大限の「指導」のつもりだった。
健太はタブレットを受け取ると、何も言わずに自分の席に戻った。
そして、俺に背を向けたまま小さな声でつぶやいた。
「……無理なんかじゃないスよ」
その声が俺の耳に届くことはなかった。
健太はコピーした資料を脇に押しやると、再びノートPCに向き直った。
その目はもう「ごっこ遊び」の参加者のものではなかった。
俺の挑発が、あいつの中で最も危険なスイッチを押してしまったことに、俺はまだ気づいていなかった。




