第19話 蒼月の声
どれくらい時間が経ったのか。
三時間か、あるいは丸一日か。
ガムテープで光を殺した、この六畳一間の暗闇の中では時間の感覚すら溶け落ちていく。
俺はアパートという名の墓場にいた。
昨夜、黒田刑事から「三人目が死んだ」と電話を受けてから、俺は一歩も動けずにいた。
動けなかったのではない。動かなかった。
光を浴びるのが怖かった。
アパートの外で見張っている黒田の部下に見つかるのが怖かった。
そして何より、自分自身の目の変化を、これ以上確認するのが怖かった。
一番の変化は目だった。
もう、染みなどという生易しいものではない。
昨夜、洗面所で確認したあの小さな黒い点は、まるで墨汁を垂らした和紙のように、じわりじわりと、しかし確実にその領域を広げていた。
右目の視界の半分はすでに闇に塗り潰されていた。
左目も始まっている。
PCのモニターの光がジェット水流で眼球を洗い流されるような、耐え難い苦痛を伴う。
俺は呪いのプロセスを健太よりも速いスピードで転げ落ちていた。
体が重い。
最後に何かを口にしたのはいつだったか。
冷蔵庫を開ける気力もなかった。
空腹も、喉の渇きも、視界が奪われていく恐怖の前では鈍い感覚でしかない。
俺は健太が死んだ部屋で感じた、あの異臭の発生源に俺自身がなりつつあるのを感じていた。
黒田からの電話。『自殺教唆の教祖様』
あの言葉が俺の最後の砦だった、ジャーナリストとしての自分を粉々に打ち砕いた。
俺は呪いと警察の二重に閉ざされた檻の中にいた。
その時だった。
『……キ……』
耳鳴りだと思った。
だが、それは耳鳴りのように無機質な音ではなかった。
もっと有機的な……衣擦れのような、乾いた葉を踏むような、微かな音。
俺は布団の上で、うずくまったまま息を止めた。
(……今のはなんだ……?)
音はアパートの目張りをした窓の方角から聞こえてくる。
風の音? いや、違う。
『……て……』
今度ははっきりと聞こえた。
「……!」
暗闇の中、俺はゆっくりと首を巡らせた。
音は変わらず、部屋の隅から聞こえてくる。
『…………見て…………』
俺は息を飲んだ。
声だ。
男か、女か。幼いのか、老いているのか。それも分からない。
健太が言っていた通りだ。
何枚もの湿った布を通して聞くような、くぐもったかすれた声。
第二段階。
呪いは俺の抵抗など、お構いなしに進行していた。
俺の命のタイムリミットが、また一段階早まった。
俺は耳を塞ぎたかった。
だが塞いだところで、この声は外から聞こえているのではないことを本能で理解していた。
これは俺の中で鳴っている。
『…………わたしを……見て…………』
「……うるさい」
俺は暗闇に向かってつぶやいた。
返事はない。ただ、水滴が落ちるように、一定の間隔で声は繰り返される。
『……見て……』
そして、数時間が経過した頃。声は変化した。
くぐもった布が取り払われ、まるで俺の鼓膜のすぐ側で囁くかのように、はっきりと俺の中で響き始めた。
『わたしを見て』
声が近い。
健太が言っていた、あの感覚。
現実の音が遠ざかり、この声だけが、やけにクリアに聞こえる。
声は俺の最も触れられたくない記憶を正確にえぐってきた。
『……あの子、苦しかったでしょうね』
「……!」
俺は心臓を鷲掴みにされたかのように体を強張らせた。
『佐々木健太。あなたのせいで死んだ』
「違う……!」
俺は叫んだ。
「あいつは呪いで……!」
『あなたが病気だと言った。あなたが臆病者だと追い詰めた。……あなたがあの子を殺したのよ』
「黙れ……!」
『編集長も、あなたのことを病気だと言っていた』
声は俺の孤独を正確になぞっていく。
健太がやられた手口はこれか。
現実の音を遠ざけ、社会から孤立させ、呪いの声だけが真実だと信じ込ませる。
『刑事も、あなたのことを教祖様と呼んでいた』
『誰も、あなたを信じない』
『あなたは独り』
俺は布団を頭から被り、耳を強く押さえつけた。だが、声は頭蓋骨の内側から直接響いてくる。
『でも、わたしだけは分かってあげる』
「……黙れ」
『あなたの苦しみも、あなたの後悔も。わたしだけが、ずっと見ていたから』
声は優しさを纏い始めた。
お前も、こっちへ来い、と。
俺の孤独に、罪悪感に、甘く寄り添おうとしてくる。
健太はこれに負けたのだ。
この甘い声に自分の全てを明け渡してしまったのだ。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
これは蒼月凪の声などではない。ましてや救いなどであるはずがない。
これは怨念が、俺という乗り物を乗っ取るために、俺の弱さをスキャンしている音だ。
俺は布団を跳ね除けた。
暗闇の中、手探りで床に散らばった健太の資料を掴む。
「……うるさいッ!」
俺は半分見えない目でPCのモニターを睨みつけた。
まだだ。俺はまだ「こちら側」にいる。
俺は健太じゃない。
「俺はお前に共感なんかしねえ! お前を暴き出す!」
俺がそう叫んだ瞬間。声が一瞬、止まったような気がした。
暗闇に本当の静寂が戻る。
だが、呪いは嘲笑うかのように最後の言葉を俺の耳にねじ込んできた。
それはさっきまでの甘い囁きとは違う、冷たく、明確な指示だった。
『……K市に、来て』
それは甘い誘いのようであり、拒否できない命令のようでもあった。
俺は激しい頭痛と吐き気の中、床に倒れ込み、意識を失った。




