第17話 代償
俺はアパートの万年床の上でノートPCの青白い光を浴び続けていた。
時刻は深夜二時を回っていた。
神保町の古いアパートの一室。
外を走る救急車のサイレンの音だけが、やけに生々しく耳に届く。
俺は独りだった。
警察からも、編集部からも、社会からも切り離され、ただ目の前のモニターと向かい合っている。
画面には『BlueLull』のトップページが開かれている。
中央に配置された、あの絵。『Untitled_Sea』。
蒼月凪の怨念が込められた呪いのトリガー。
(これしか、ない)
51人の見えない時限爆弾。
それを止めるには爆弾の設計図を手に入れるしかない。
設計図は呪いの内側。健太が聞いた、あの声だ。
俺は健太が死んだ日のことを思い出していた。
『わたしを「見て」くれた』
あいつはそう言った。
こいつは見ることを要求している。
ただクリックするだけじゃない。理解しようとすることを、その深淵を覗き込むことを要求している。
健太は民俗学徒としての探究心と、calmへの歪んだ共感で、それを受け入れてしまった。
俺は違う。俺はこいつを暴くために見る。
これは取材だ。俺が健太の代わりに引き継いだ最後の命懸けの取材。
俺は震える指をマウスのクリックボタンにかけた。
健太が死んでから俺の頭の中で鳴り続けていた後悔と自責の念。
その全てをこの指先に込める。
「……見てやるよ、蒼月凪」
俺は乾いた唇でそうつぶやき、クリックした。
カチリ、とクリック音が静まり返った部屋に響く。
サムネイルが拡大され、暗い青がモニターいっぱいに広がった。
佐々木健太が、高橋由紀が見た、暗い海。
技術は確かだった。
写真のように精緻でありながら油絵のような重苦しい質感がある。
インクを零したような、どこまでも深い群青色。
波打ち際だけが死人の肌のように不気味な白さで泡立っている。
それだけだ。ただの陰鬱な海の絵だ。
目がチカチカする? そんなものはモニターを凝視すれば当たり前のことだ。
幻聴? 自己暗示だ。
俺は目を逸らさなかった。
「見ろ」と言うなら見てやる。
俺はこの絵の中に隠された蒼月凪の意図を探した。
波の形、空の色、雲の配置。
何かサブリミナルなメッセージでも隠されているんじゃないか。
十分が経過した。二十分が経過した。
俺の目はPCのバックライトで乾き、痛み始めていた。
だが、それだけだ。呪いなど発動しない。
(……なんだよ)
拍子抜けだった。
同時に焦りが募る。
(俺には聞こえないのか?)
健太や高橋には受信できて、俺にはできない。
俺は呪いの対象外だとでもいうのか。
健太が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『あんたが臆病者だから、見えないだけだ』
『あんたにはこの人の「苦しみ」が分からない』
(苦しみ……)
俺はもう一度、絵に意識を集中させた。
テクニックじゃない。意図でもない。
この絵に込められた感情を読み取ろうとした。
暗い海。光のない空。若くして死んだ。病死、あるいは自殺。
nagiと名乗り、光が苦手だと書き込んでいた人物。
その瞬間。ぶわり、と、モニターから冷気が噴き出してきたかのような錯覚に陥った。
「……!」
俺は思わず椅子ごと後ずさった。
気のせいではない。
部屋の温度が数度下がったような肌を刺す寒気。
そして匂いがした。
俺のアパートの埃と古本の匂いではない。
潮の匂いだ。
真冬の夜の凍えるような湿った磯の匂い。
(……なんだ? これは)
俺は恐る恐る、再びモニターに顔を近づけた。
絵は変わらずそこにある。
だが俺の認識が変わってしまった。
それはもう、ただの絵ではなかった。
モニターのフレームはアパートの窓になり、その向こう側に本物の夜の海が広がっていた。
波が動いていた。
さっきまで静止画だったはずの波が、ゆっくりと、しかし確実に寄せては返している。
ザアアア……。
幻聴か? いや、違う。これは俺の脳が作り出した音だ。
俺はこの絵の中に引きずり込まれかけていた。
「……やめろ」
俺はマウスから手を放し、ブラウザを閉じようとした。
だが指が動かない。金縛りにあったように体が硬直している。
目が逸らせない。暗い、暗い、海の中心。その闇が俺を見ているのが分かった。
それは蒼月凪の目、そのものだった。
『わたしを見て』
声は聞こえない。
だが、絵がそう訴えかけていた。
―――どれほどの時間が経ったのか。
俺は何かに弾かれたようにPCの電源ボタンを強く押し込んだ。
ファンが止まり、モニターの光が消え、部屋は完全な暗闇に戻った。
「……はあっ、はあっ、はあっ……!」
俺は床に転がり落ち、荒い呼吸を繰り返した。
心臓が肋骨を叩き割るのではないかと思うほど激しく脈打っている。
全身が冷たい汗でびっしょりだった。
(……見た。俺は見たぞ……)
何とか立ち上がり、震える手で部屋の電気のスイッチを入れた。
パチリ、と音がして、六畳間の天井の蛍光灯が白い光を放った。
「……ッ!」
俺は顔を覆った。
眩しい。なんで、こんなに。
たかが安アパートの薄汚れた蛍光灯だ。
いつもなら薄暗いとさえ感じる光が今、俺の眼球を無数の針で突き刺すかのように責め立てる。
健太がアパートで叫んでいた言葉がそのまま蘇る。
『ひかりが……いたいんス……』
俺は洗面所に駆け込んだ。
鏡を見る。
目はひどく充血していた。
だが、それだけだ。
(気のせいだ。暗闇に慣れただけだ。さっきまでモニターを凝視してたからだ)
俺は自分に必死で言い聞かせた。
だが、鏡の中の自分の顔を見たまま俺は動きを止めた。
右目の視界の、ほんの少し右下。そこにあった。
「……あ」
まつ毛か? ゴミか?
俺は瞬きをした。消えない。
目をこすった。消えない。
それは健太が最初に訴えていた、あの染みだった。
白い洗面台を背景にしても、それはそこにあった。
インクを落としたような輪郭のぼやけた、小さな黒い点。
間違いない。俺は呪われた。タイムリミットは七日か、一日か。
恐怖、高揚、緊張、焦り――かつてない感情が俺の中で渦巻き始めていた。




