第15話 蒼月凪
東高円寺の駅に向かう道すがら、俺、三上悟の頭の中では黒田刑事の吐き捨てた言葉が、壊れたレコードのように繰り返されていた。
『自殺教唆だ』
『ブタ箱にぶち込んでやる』
クソッたれが。現実の人間はいつだってそうだ。
自分たちの物差しで測れないものはすべて異常か悪意として処理する。
谷村刑事も、編集長も、そしてあの黒田も。
誰も目の前で起きている現象そのものを見ようとしない。
健太が死んだ。
高橋由紀という女子学生も死んだ。
二人だ。
呪いの連鎖は確実に始まっている。
健太がリンクを送ったのは53件。残りは51人か。
俺は神保町にある、寝に帰るだけのアパートに転がり込んだ。
編集部には戻れない。
俺は今や、編集長公認の頭のおかしい奴であり、黒田刑事にとっては自殺教唆の容疑者だ。
六畳一間の散らかった部屋。
シンクに溜まった食器と読み終えた資料の山。
健太の部屋とはまた違う、生活感にまみれた絶望がそこにあった。
俺は床にコンビニの袋を広げ、その上に健太の遺品――編集部から持ち出したノートやスケジュール帳をぶちまけた。
(警察には無理だ。俺がやってみせる)
黒田は言った。健太と高橋のPCからcalmという単語が出てきた、と。
警察の解析班も、今頃そのサイトを調べているはずだ。だが、彼らは「calm= 匿名の扇動者」という線でしか捜査しないだろう。
黒田の言う教唆犯を探しているだけだ。彼らには真実は見えない。
俺は健太の殴り書きのメモをもう一度睨みつけた。
『calm = nagi = 蒼月凪?』
健太はどうやってこの名前にたどり着いた?
警察の解析班より先に、なぜ健太だけが、この具体的な人名に迫れた?
あいつの民俗学の知識か?
それとも――呪いに取り憑かれた者だけが見える閃きがあったのか?
俺は自分のノートPCを起動した。
俺がやるべきことは一つだ。
健太がたどった道をもう一度、俺自身が寸分違わずトレースすること。
まずは『BlueLull』。あの忌まわしい暗い青のサイトだ。
俺はクリックして拡大はしない。だが、サイトの外側なら調べられる。
オカルト記者として培ってきた、ネットの裏側を辿る技術。サイトのソースコード、ドメインの登録情報、過去のキャッシュ。
だが、calmは健太が言った通り、徹底して匿名だった。
ドメインは海外の匿名サーバーを経由し、登録者情報は全て偽装されている。
黒田の解析班も、ここで手詰まりになるだろう。
(だが、健太は違った)
健太は『古い掲示板のログ』と言っていた。
calmという名前が世に出る前、nagiというハンドルネームを使っていた、と。
なぜ健太はそう推測できた?
『BlueLull』。サイトの名前だ。
「蒼い凪」。そこからnagiを連想したのか。
単純だが、あり得る推論だ。
俺は検索エンジンの検索期間をサイトが開設されたと思われる数年前より、さらに以前に設定した。
『nagi 画家』
『nagi デジタルアート』
『nagi 海の絵』
膨大なノイズがヒットする。同名のイラストレーター、ゲームのキャラクター。
だが、数十ページを執拗にめくっていくうち、俺は一つの古ぼけた個人運営のデジタルアート投稿フォーラムにたどり着いた。
すでに閉鎖され、過去ログ倉庫としてのみ残っている、インターネットの墓場のような場所だ。
そこに、いた。ハンドルネーム、nagi。健太のメモが正しかった。
そのnagiが投稿した画像は数点しか残っていなかったが、そのどれもが暗い青を基調とした、あのcalmの作品群と酷似していた。
間違いない。同一人物だ。
俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。健太は確かに真実の欠片を掴んでいたのだ。
俺はそのフォーラムに残された、nagiの全ての書き込みを一つ残らず洗い出した。
『あなたの絵はどこか悲しいですね』という他のユーザーからのコメントに対し、nagiはこう返信していた。
『見たままの風景を描いているだけです。神奈川の海は夜が一番青いので』
神奈川の海。そして別のスレッド。自己紹介欄。
『蒼い月が好きです。光は苦手ですが』
「蒼い月……?」
俺は健太のメモをもう一度見た。『蒼月凪?』
まさか。健太はこの「蒼い月」という書き込みと、「nagi」という名前を組み合わせて、あの名前にたどり着いたというのか?
俺は震える指で新しい検索ウィンドウを開いた。そして、打ち込んだ。
『蒼月凪 神奈川』
エンターキーを押す。
視界に飛び込んできた検索結果に俺は息を飲んだ。それは決定的な「現実」だった。
神奈川県の、とある地方新聞社のデジタルアーカイブ。三年前の、小さな、小さな訃報記事。
『市内在住の青年、自宅にて死亡』
記事本文は短かった。
『○月X日、K市在住の蒼月凪さんが、市内の自宅で死亡しているのが発見された。警察は事件性はなく、病死または自殺と見て調査している』
……死んでいる。
俺は椅子の背もたれに全体重を預けた。
calmこと、蒼月凪は三年前に死んでいた。
健太は正しかった。健太は死者の呪いによって殺された。高橋由紀も、同じだ。
なぜだ? なぜ、三年前に死んだ者が今になって健太たちを殺し始めた?
『BlueLull』のサイトはいつ作られた?
蒼月凪の死の直前か? それとも、死後に誰かが?
健太はなぜ、この『蒼月凪』という名をあの狂乱の中で口にした?
呪いそのものが健太に自分の名を告げさせたのか?
「……クソッ」
謎は解けるどころか、最大の恐怖となって俺に襲いかかってきた。
俺はもう人間を追っているのではない。
三年前に死んだ怨念そのものを追いかけ始めてしまったのだ。




