第10話 誘い
「大家さん! 救急車呼んでくれ! 早く!」
俺は暗闇の中で獣のように暴れる佐々木健太の骨張った両腕を押さえつけながら叫んだ。
衰弱しきっているはずの健太の力は異常だった。呪いなのか、火事場の馬鹿力なのか。
彼は俺の拘束から逃れようと、俺の手首に爪を立て、歯を剥き出しにして威嚇する。
「邪魔するな! あんたは敵だ! 凪さんが呼んでる! 俺を呼んでるんだ!」
「目を覚ませ、佐々木! そいつはお前を殺す気だぞ!」
ガタン、と本棚が倒れ、床に雑誌や資料が散乱する。
その物音に怯えたのか、大家が「ひぃっ」と短い悲鳴を上げ、慌てて階段を駆け下りていった。
(クソッ! マジで呼びに行けよ!)
暗闇と異臭の中、俺は痩せこけた、悪霊に取り憑かれたような男と二人きりになった。
「佐々木! しっかりしろ! 変な声に惑わされるな! 俺の声を聞け!」
俺はまるで除霊師のような文句を叫びながら、健太の体を床に押さえつけた。
その瞬間だった。
あれほど激しく抵抗していた健太の体から、まるで操り人形の糸が切れたかのように、ふっと全ての力が抜けた。
「……あれ?」
抵抗が消えたことに戸惑い、俺は押さえる力をわずかに緩めた。
健太は床に仰向けに倒れたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
そして、暗闇の中で、ゆっくりと顔を上げた。
その顔から、先ほどまでの獣のような憎悪は消え失せていた。
代わりに浮かんでいたのは、ひどく穏やかな、虚な微笑みだった。
「……三上さん」
その口調はまるで正常に戻ったかのようだった。
編集部で俺を呼ぶ、いつもの間の抜けた声色に近かった。
俺はその変貌に戸惑いながらも声をかけた。
「……佐々木? 正気に戻ったのか?」
「……うん。戻りましたよ」
健太はゆっくりと体を起こした。
その動きは滑らかで、俺は無意識に押さえていた手を離してしまっていた。
「よかった……。もう大丈夫だ。救急車が来たら、すぐに病院で……」
「そうですね。行かないと」
健太は俺の言葉に素直にうなずいた。
「……分かったんス。やっと。凪さんが何を望んでたのか」
「……何?」
「あの人も、ただ、分かってほしかっただけなんスよ。俺と同じだったから……」
(まだだ。まだ正常には戻っていない……。だが、少なくとも暴れる危険は去ったようだ)
俺はまずここから、健太を連れ出すことだけを考えた。
「そうか……。分かったなら立てるか? 下で大家さんが救急車を……」
俺が油断し、立ち上がろうとした、その隙だった。
「だから、みんなにも教えないと」
健太は俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、勢いよく立ち上がった。
そして、暗闇に慣れた目で正確にデスクの方へ向かう。
そこに置かれていたノートPCの画面を開くと、スリープ状態だったPCが即座に起動した。
俺はその、衰弱した人間とは思えない動きに、あっけにとられていた。
ノートPCのモニターが放つ青白い光が、暗闇の中で健太の顔を不気味に照らし出す。
瞳孔が開ききった虚ろな目で、光を浴びているのに痛がるそぶりすら見せない。
健太の指だけが、まるで別の生き物のように、記憶された動作を正確にトレースしていく。
「この『救い』を、みんなにも……」
「やめろ! 佐々木! 何をしてるんだ!」
俺は健太の背中に向かって怒鳴り声を上げた。だが彼は意にも介さない。
彼は虚ろな表情のまま、最後の操作を完了させた。
マウスのクリック音が響くと同時に、PCの画面に送信完了を示すマークが浮かび上がった。
彼の全身から力が抜けていき、恍惚のため息が漏れた。
「……送った」
「何を……何をした!」
俺は健太の胸ぐらを掴み、力任せにこちらへ引き倒した。
だが健太はもはや俺に何の抵抗も示さなかった。
床に転がったまま、ただ、うっすらと笑っていた。
そして、その虚ろな目がガムテープで目張りされた窓の方角をゆっくりと見上げた。
「……これで、あの人のところへ行ける」
「何を言ってる! お前は病院に行くんだ!」
「……聞こえる……」
健太は俺の声などまるで聞こえていないかのように暗闇の向こう側に耳を澄ませていた。
「呼んでるんス、凪さんが……。『こっちへおいで』って……。『よく、見てくれたね』って……」
健太はするり、と俺の拘束から抜け出した。
まるで合気道でも嗜んでいるかの様に易々と逃れたのだ。
そして今度は夢遊病者のように窓に向かって歩き出した。
「おい、佐々木!」
俺は健太に呼びかけ続けた。
大家が救急車を呼び、応援が到着するまで、彼をこの部屋から出してはダメだ。
その一心で、部屋の入口に立ちふさがり、彼を動向を見守ったのだ。
健太は俺の事などかまいもせず、窓に貼られた毛布とガムテープに手をかけた。
そして衝動的に、それを引き剥がし始めた。
バリバリバリッ!
けたたましい音と共にガムテープが壁紙ごと剥がれ、毛布が床に落ちる。
アパートの二階の窓から、十一月の薄曇りの、しかし暴力的なまでの光が暗黒の部屋に差し込んだ。
「やめろ! 光が!」
暗闇にいきなり差し込んだ光に、俺は思わず自分の目を腕で覆った。
だが健太は違った。彼はその光の中に、まるで救いそのものを見たかのように恍惚とした表情で立ち尽くしていた。
もう光を恐れてはいなかった。
「……ああ……きれいだ……」
健太はその光の中に何かを見ているかのように、ゆっくりと窓枠に足をかけた。
「佐々木! 危ない! ここは二階だぞ!」
俺の絶叫が狭い部屋に響く。
健太が窓枠の上で、ゆっくりとこちらを振り返った。
逆光で、その表情は黒い影になっていた。
だが俺には分かった。彼は笑っていた。
あの呪いの噂の通りに。死の直前に見せるという、あの笑顔で。
「見て……三上さん……」
それが健太の最後の言葉だった。
「やっと……ちゃんと、わたしを『見て』くれた……」
彼はまるでそこに透明な階段でもあるかのように。
あるいは愛しい誰かに手を引かれるかのように。
何の躊躇いもなく窓の外の虚空へ、その足を踏み出した。
一瞬の静寂。
ドン、という、何か重い袋が地面に叩きつけられたような鈍い音が響いた。
「……あ……あ……」
俺は開け放たれた窓枠に、よろよろと駆け寄った。
下を覗き込む。
そこにはアパートの裏手の、ひび割れたコンクリートの上に、手足が有り得ない方向に折れ曲がった健太が動かずに横たわっていた。
遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくる。大家が呼んでくれたのだろう。だが、それはあまりにも遅すぎた。
俺は開け放たれた窓から差し込む冷たい光の中で、ただ、立ち尽くしていた。
健太のノートPCの画面だけが異臭の漂う暗い部屋の中で、無慈悲に光り続けていた。
『送信完了:53件』その数字が何を意味するのか。俺は考えたくなかった。




