抽象と具象の間で
遠くから水の音が聞こえてくる。ひどく人工的でありながら、不思議に拒絶感を催させないその音を、私は聴いている。
私は眠っている。眠っていながら、その音を聴いているのだ。すぐに少年の声が聴こえてくる。複数人の少年たちは、ここではない異国の言葉を発している。そうだ、私はお腹の中にいるのだ。そうして外界の音を聴いているのだ。
しかし、私は同時に机に向かって作業をしている、ことを感じている。夢中で何かを描き続けている。私は利き手ではない左手に触れるプラスチックの、その表面に入ったヒビの谷間を撫でながら、完全でないながらも十分に機能を果たしている三角定規を貸してくれた人物の顔を思い描く。しかし、その相貌は明瞭ではないから、私はひたすら机に向かって作業を続ける。その違和感に気付きながら、不意に私を包んでいる膜を破ろうとするものは、私たちではない何者かだ。私たちという言葉の指すものの正体を探るうち、不意に彼女と目が合った。
そうだ、さっきから聴いていたのは、電気で作られた水の音だ。そう気付いたとき、今やはっきりと彼女の姿を見据えていた。他でもない、あかりという少女の姿を……。
はっきりとした酷暑が退いたかと思うと、秋はいつの間にか鍵を閉め忘れた窓辺から忍び込んできていた。
そんな時間の経過を顧みる間もないまま、文化祭を前にした写真部の一年生は雑用に追われていた。写真の展示だけなのだから準備なんて大したことがないだろうと思い込んでいたのに、それぞれのクラスの出し物の準備と並行して進めなければならないから、時間の余裕はあまりなかった。私は高校生に上がった特権を享受するようにして、最初は日が暮れる時間までの居残りを楽しんでいたのが、やがてそれも苦痛になった。その理由は、他の子たちとの不和なのだろうということに気付いてはいる。それでも、他人の心と本当に分かり合えるはずもないのだから、私は不器用だと自覚しながらも、自分一人ででも作業を進めようとしていたのだった。
文化祭まであと一週間という日のこと、私はいつものように居残りをするはめになっていた。部の方で手つかずの作業があることが判明して、本来は担当外のその仕事を引き受けてしまったのだ。文化祭の当日に配られる冊子の宣伝文とデザインの下書きのために、私は小学生の頃から使っている定規を探した。けれど、間違いなくペンケースに収めていたはずの定規がどこかへ紛れて、たちまち作業を停滞させてしまった。ほとんど一人で奮戦していた私は、談笑しながら去っていく後ろ姿に声をかけることもできなかった。
道具がたった一つ無くなっただけで作業を進められないことの、ひどい無力感。鼻の奥につんとしたものを感じたそのとき、廊下から足音が聞こえてきた。相反する二つの感情を胸の中に抱きながら、私はその足音に耳を澄ませた。
たん、たたん、たたんたん。
何かのリズムを刻みながら近付いてくる足音は、やがて部室の前で止まった。扉が勢いよく開かれて、一人の少女が両耳からイヤホンを外しながら現れた。
彼女は、たしか私と同じクラスの、他の子からはあかりと呼ばれている子だ。彼女のことはよく知らないけれど、今のようにイヤホンで音楽を聴いている姿は印象に残っている。あまり積極的に他の子たちと関わろうとはしないながらも、孤立しているというわけでもなくて、たしか彼女を含めた何人かで一緒にお昼ご飯を食べたこともあったはずだ。でもそんな子が、どうしてこんな時間にこんなところにいるのだろう。
「月白さん、また居残りしてるの」
「……うん、また居残りしてる」
「そう、またなの」
半ば呆れるようにして発せられた声には、何か妙な震えのようなものが感じられた。普段からそのような、ある種張り詰めた声を発するのか、それとも何か緊張する理由があるのか、それは分からなかった。一方の私はというと、何故かしらほっとした気分になっていた。彼女の言葉からは率直な感情が察せられて、少し馴れ馴れしさを感じさせもしたけれど、同じ部活の子たちが抱きそうな嘲りや蔑みの色が読み取れなかったからなのかもしれない。
私は彼女がここに現れた理由を尋ねることや、私自身の窮状を訴えることを忘れて、何も解決していないというのに一段落した気分になっていた。
「困りごと?」
彼女は全てを察知しているような表情で尋ねてきた。私がゆっくりと、復活してきた無力感を味わいながら頷くと、そこに飛び出してきたのはプラスチック製の三角定規だった。私の使っている定規よりもよく使い込まれている、というよりも少し古びたその三角定規は、照明の反射のためか不思議に輝いて見えた。その光が、どこか恐ろしく感じられるくらいに。
「どうして?」
「困っているときはお互い様だから」
彼女は私の問いかけの半分にだけ答えた。やはり少し震えのある手で私に三角定規を手渡すと、彼女はくるりと背を向けてしまった。そうして今までイヤホンを差していた端末を机の上に置くと、こう呟いて音楽を教室中に流し始めた。
「少しの間、集中して作業してみて」
――私がそう口にすると、月白清加は、手元の用紙に視線を落として作業の続きに取りかかった。彼女は私が合図を出すまでは集中を切らすことなく作業を続けるだろう。照明を反射している三角定規の使い込まれた様子を眺めていると、私はついため息を漏らしそうになった。が、すぐに思い直して黒板に何事かを書き始める。あれは私の姉である瑞穂が遺していった、とても大切な三角定規なのだった。
瑞穂は私の三つ年上で、神童と言われることもある子供だった。勉強は私よりもよくできて、私の知らないような古い事柄やどこから仕入れてきたのか分からないような様々な事情をよく知っていた。随分と引っ込み思案で打ち解けにくいところもあって、それが玉に瑕だと言われてもいた。私はといえば、同年代の子たちに比べればずっと勘が良く、テストで十分に優秀な成績を収め、積極的に物事に挑戦したから部屋には様々な賞状が飾られていた。活発で、たまには友達と衝突もするけれどすぐに仲直りのできる、愛嬌のある子供だったと思う。言うまでもなく、私は姉への対抗心を抱いていた。
けれど、家庭の中には見えない序列が存在していて、私はいつも姉の次に扱われた。瑞穂は三つも年上なのだから、より幼い私が劣っているように見えるのは当然だ。そんなふうに自分を慰めたり、総合的には私の方が優れているのだと傲慢に考えたりした。だって私は、どこに出しても恥ずかしくない子供のはずだったのだから。
思えば、もっと幼い頃、例えば小学生に上がった頃の私は、特別な何かになりたいと考えていたはずだった。物語の中に登場する英雄たちは、それが同性であっても異性であっても、とても魅力的に映った。彼らが苦悩する姿も目にしていたはずだけれど、それ以上に特別な力を使って問題を解決したり力を持たない平凡な人々を救ったりする、そういう場面が私の心を大きく突き動かしたのを覚えている。特別な何かになりたいという意味では、私は元から特別な子供ではなかった。けれど特別視される姉と比較して必死に拠り所を見つけようとするうちに、私は特別な何かになりたいという心を忘れてしまったのかもしれなかった。
私が煮え切れない感情を抱いていた瑞穂が事故に遭ったのは、今からちょうど三年前のことだ。瑞穂は、遮断器の下りた踏切に取り残された車から見知らぬ人を助けようとして、巻き添えになって轢死した。
どうしてこんなことになったのだろう、どうして十六歳の彼女が死ななければならなかったのだろう、どうして私じゃなかったのだろう。煩悶と言っても大げさではないくらいに私は苦しんだ。目の前で姉が亡くなったのだから悲嘆に暮れるのは当然だと、ある人は感じた。別のある人はこう考えた、亡くなったのは無口なお姉ちゃんの方か、いずれにしても遺された家族は可哀想だよな、と。姉の死をきっかけに私はおかしくなってしまったのかもしれない、どうしてこんなに他人の考えたり感じたりすることが頭の中に入り込んでくるのだろう!
多数の人々の弔問を受ける両親の後ろに隠れながらも、私の心は太陽に向かって丸裸になっているような状態だった。けれども、少し時間をかけて、その感じ方が実際には間違っていることに気付かされた。丸裸になっているのは、人々の心の方だったのだから。両親の心情は動揺に動揺を重ねて必ずしも明瞭ではなかったけれど、人々が感じている以上にはっきりと、水面に陽光が反射するようにして私の心を包む壁に投映された。その光の粒の一つ一つを取り出してみることはしなかった。今は哀しみを共有すれば良いと思われたから。
けれど、七日を過ぎ、それに倍加する時間を経ても、私の心は一向に落ち着かなかった。一時的に感覚が鋭敏になっていると思っていたものが、他人の心を覗くことのできる力を備えてしまったとしか考えられなかったからだ。
日を追うごとに瑞穂を諦めることを覚えていった両親は、私の様子を見かねてある親戚のおばさんに相談した。小春おばさんというその人は、ずっと昔に一人きりの息子を亡くして今は一人きりで過ごしているのだと聞かされた。両親はおばさんの連れてきたカウンセラーを手放しで受け容れた。一方の私は、例え正式な資格を持っているとしても信用できないと思わずにはいられなかった。けれど、その若い女性から強い緊張を感じたとき、衷心から姉の死を悼みながらも難しいケースを前にして気を引き締める気概を抱いているのだと気付いて、私は自分自身の不明を恥じた。今は一人で使うようになった自室で彼女と向き合いながら、まるで答えの提示されている試験を受けるような心持ちで、発せられる問いかけに応じていった。このとき、私は初めて自分自身の力を真に自覚した。その結果として、じめじめとした梅雨に晒されることなく自宅で療養する権利を得ながらも、入院などの特別な治療の必要性はないというお墨付きを得るに至った。それから定期的に彼女の訪問を受けるごとに、皮肉な形で私の心は回復していった。
この力は特別なものだ! 世界で私だけが手にした、特別な力だ!
そうして瑞穂が去った哀しみは、いつの間にか忘れられていったのだった。しかし、その後にやって来たものは、今までまるで考えたこともない脅威だった。
その脅威とは、機関のことだ。単に機関と呼ばれていて、その単語が表しているものの全容は私には知る由もない。戦前、大陸に存在したという特務機関がその源流にあるのだと聞かされたことはあるけれど、誰がどのような目的のためにその機関を動かしているのか、それはやはり分からない。その情報をブラフと思いたかった。ただ、私以外に力を宿している人間が複数いることを知ってから、嘘と言い切ることはどうしてもできないのだった。
私はその監視下に置かれながら、ある目的のために機関に協力することになった。命じられたのは、月白清加に力が宿っているかどうか、それを他でもない私自身が確かめること。その命令の意図を十全に理解しているわけではもちろんない。だから、私は私なりの考えで行動しようとしていた。
かちり、と時計の針が動く。太陽はいよいよ沈みかけていて、三十分が経過している。清加が作業に集中するうち、私もまた意味のない遊びに没頭していた。私の愛聴するシュトックハウゼンの『若人の歌』という楽曲を繰り返し聴きながら、彼女は心の中に何かを芽生えさせるかもしれない。
清加の集中を解くために、私は言葉を発した。
「随分と集中してたね」
――もしかすると痺れを切らしたのだろうか、それまで沈黙していたあかりは、私の集中が途切れたその瞬間に声をかけてきた。間違いなく椅子に座っているのに、不思議と身体がふわふわとした感覚を訴えている。けれど頭ははっきりと透徹していて、なおさらその感覚が強まってくるようだった。
「ごめんなさい、ついのめり込んじゃってたみたい。……どうしたの?」
「いいえ、顔色が優れないように見えるから」
あかりは私の表情を窺ってくるけれど、しかし歩み寄ってはこない。そのことに違和感を覚えるだけの余裕は私にはなかった。それでも、次第に不思議な感覚は弱まってくるのだった。
「大丈夫。ちょっと根を詰めすぎたのかな。ねえ、これどう思う?」
私は無我夢中で描いたデザインをあかりに示した。彼女は机の上に広げた用紙に見入ってから、再び一定の距離を空けて黒板の近くの椅子に座った。
「よくできてると思う。デザインが好きなのね」
「うん。元々は写真じゃなくてデザインが好きだったんだ。視覚的なものが好きなのかな、多分」
「将来のことは考えたりするの?」
「好きなことを仕事にできればなあとは思うけど、家族は反対してるんだ。そんなに簡単なものじゃないって」
「お父さんの言う通りだと思う。どれだけ実力があっても世間で実力が認められるとは限らないから」
私は何かしらの違和感を覚えながら、彼女が黒板に描いたものを初めて認めた。そこには外国の言葉や元素の周期表が記されているのだった。
「あなたは堅実で、しかも勉強熱心なのね」
「黒板に一番近い席を割り当てられていて、ぼんやりとしてるわけにもいかないから」
そうか、普段の彼女はクラスで一番前の席に座っているのか。私は今更のように納得して、彼女のそうした一面に気付かなかった自分の見る目のなさに思い至った。
それにしても、私は小休憩のつもりで彼女に話しかけていたのだけれど、彼女のことを意識し始めると、私の居残りに付き合わせる義理はないはずだという申し訳なさを感じた。
「ねえ、良かったら少し手伝ってくれない?」
そんな私の都合の良い申し出は、
「たまには居残りというものをしてみるのが楽しいだけだから」
と簡単に却下された。私はできるだけ早く作業を終わらせるために、口を噤んで必死にペンを走らせるしかないのだなと思った。
しかし、彼女は不意にこんなことを尋ねてきた。
「ねえ、『あわい』って知ってる?」
その「あわい」という言葉を聞いたとき、私の頭の中には「淡い」という文字が浮かんできた。彼女が貸してくれた三角定規の線や数字が掠れてしまっているせいもあったのだろう。けれど、彼女が黒板に「あはひ」と書き記してもまだ足りなかった。その横にやや大きな文字で「間」と付け足されてようやくピントが合った。
「仕方ないよ、急に『あわい』と聞いて全てが繋がる人なんてそうそういないから」
彼女は指先に付いたチョークの白い粉を厭うことなく、優しく手を叩いて世界に還していく。秋の中頃の早々と暮れていく夕日を浴びているせいもあってか、きらきらとしたものが宙に舞っていて、私はそこにいる彼女が天使のように見えた。私は空想の中で、この学校には存在しないはずの合唱部が賛美歌を歌うのを聞いたような気がし、また先ほど流れてきた音楽の続きが聞こえてくるような気がした。
私が妙な空想をする間、彼女は笑みとも恐れともつかないような微妙な表情を浮かべていた。
「それにしても、あなたはちょっと優しすぎるのね」
私はどこか居心地の悪さを感じながらそう言わざるを得なかった。
「そうかな」
「あまり優しすぎると辛いこともあるんじゃないの」
優しく接してくれる相手に対してこんな口を利くのが私の悪いところだ。いつも言葉を発してしまってからそんなことに気付くのだけれど、彼女は私の想像していた以上に優しいのか、それとも単に鈍感なのか、微笑みを浮かべていた。
「大丈夫。私を傷つける人なんて、あの人以外には――」
――そう口にしたとき、私は自らが抑え込んできた哀しみというものを発見した。そうだ、瑞穂以外に私を芯から傷つける人なんていないはずだった。
けれどそのとき、清加は私に強い感情を抱いていた。それは、ある種の嫉妬だった。特別な感情を抱けるだけの相手がいないことを、彼女は嘆いている。そうじゃない、そうじゃないの。私もまた胸に抱いた強い感情を、心を開放してしまいたかった。
もちろん、そんなことはできない。私は溢れ出てくる感情を抑えるために、心を閉ざすことに努めた。それは清加の心を探ることを難しくしたけれど、私の意図を悟られることだけは避けなければならなかった。清加だけでなく、機関の人間に対しても。
一旦心を閉ざしてしまうと、胸に湧き上がってくる思いが身体の中で反響し合うようで、それが悲しみや恐れであるがためにとても鋭利な刃となって私を傷つけた。
お互いに心を通わせ得る存在を、機関の命令によって試さなければならないことの残酷さ。もし仮に、彼女に力が認められたなら、彼女はどうなってしまうのだろうか?
暮れていこうとする太陽を眺めながら、何も知らない彼女はこう呟いた。
「もうこんな時間なのね」
「今日はちょっと鋭角すぎるね」
――あかりは何故かしら感情を押し殺すようにして、そう口にした。
「何が?」
「あの光よ」
山の向こうに落ちていく太陽を、彼女は眩しそうな眼差しで眺めている。いや、見つめている。やはりそこに感情は認められない。眩しいのだったら視線を外せば良いのに、どうしても最後の一瞬を見逃すまいとして彼女は太陽を見つめている。
「光に鋭角だとか鈍角だとか、そういうものがあるの?」
「あるよ」
彼女は最低限の言葉を発しながら、いよいよ強く太陽を見つめている。その果てに彼女の失明があるように思われて、私は必死に彼女の気を引こうとする。
「それとは別に濃いとか淡いとか、そういうものもあるの?」
「ないわけじゃない、と思うけど……」
「じゃあ今日の光は濃いの、それとも淡いの?」
そう問いかけた瞬間、彼女の瞳の緊張が解けた。一瞬の後に彼女はわざと浮かべたような笑みを見せて太陽から視線を外した。そのとき、私は何かとてつもなく大切な機会を彼女から奪い取ってしまったように思われた。
「あなたって面白いのね」
「あなただって鋭角だとか鈍角だとか、変なことを言うじゃない」
「そうね、そうかもしれない。……でもそれが、私に許されたたった一つの表現法なの」
急にしんみりとした気分が押し寄せてきた。そして、お互いにそうなのだということが何となく分かるようになっていた。いつの間にかよく分からない会話に巻き込まれて、何も解決しないままに時が移ろっていく。彼女と話しているといつもこうなってしまうのだろうか、だから彼女は孤立しないまでも、一人きりで過ごしているのだろうか? ヒグラシの盛んな鳴き声が妙に寂しい気分を思い起こさせるように、街に灯っていく煌々とした明かりは何か虚しい気分を誘い寄せる。
「ねえ、最後に一つだけあなたに訊きたいの」
あかりは不意にそう呟いた。
「なに、最後って」
「あのね、時間というものはどんなふうに存在していると思う?」
「哲学はできないよ。それとも理科の話? 私、理数系は苦手なの」
私は黒板に途中まで書き込まれた周期表を見つめながら答えていた。最後に記されているHgとは何を表しているのだろう。机の上に視線を落とせば、よく使い込まれた三角定規がやはり照明の光を反射している。
「そんなに堅苦しく考えなくていいの。あなたなりの意見、あなたなりの考えが聞きたいだけ」
私よりずっと賢いだろうはずの彼女がそんなことを尋ねてくるのには疑念があったし、そもそも質問が漠然としていた。
「例えば真っ直ぐに進んでいるのか、それとも曲がりくねりながら存在しているのか、どっちだと思う?」
「時間は曲がったりしない」
「そう。じゃあ、砂時計を思い浮かべて。落ちていく砂とその先に積み重なっていく砂、どちらがより時間の本質を表していると思う?」
「……強いて言うなら、積み重なっていくものだと思う」
彼女はしばらく考え込んでいたけれど、何を考えていたのかは分からない。ただ後になって思ったのは、それは考える素振りをしていただけで、きっと彼女の中にはたった一つの答えがあったのだろうということだ。
「ありがとう」
「別にお礼を言われるようなことじゃないけど」
「いいえ、大切なことなの。あなたに答えてもらえて嬉しかった。ありがとう」
いつの間にか、太陽はもう沈んでしまっていた。屋外が暗くなるにつれて教室の照明はより強く自己主張をしていく。
「ところで、『あわい』という言葉だけど……」
「ああ、そうだった。でも、もうその話はいいの」
「どうして」
「多分、もう分かってしまったのね。曖昧な線がそこにあったとして、私はもうその先へ踏み出そうとしている。それを止められるものなんてないし、止めようとする人がもういないことも分かっている。だからもう『あわい』というものは、私の中には存在しないの」
光の強さに反して全てが曖昧になっていく。記憶の中にいる彼女の顔を私はもう思い出すこともできない。いや、本当はその瞬間でさえも彼女の表情をはっきりと認識することすらできていなかったのではないかと思う。私の記憶している彼女の最後の姿は、忍ぶようにして自己主張を遂げたそのときのものだ。
そういえば、返しそびれたはずの三角定規をどこへやったのだろう。あのとき無くしたはずの私自身の定規は、家に帰ってみればしっかりと筆箱の中に収まっていた。
私は彼女のことを考えながら、お詫びの手紙を書こうと思った。宛名の思い出せない手紙というものを。
私は瑞穂の遺していった三角定規を弄びながら帰路に就いた。いつもより遅い電車の人気の少ない車両を選んで乗り込む。やがて車体が動き始め、しばらく進んで橋を渡るところで車内の照明が明滅した。
「私の知らない力というものがまだまだあるのね」
いつの間にか向かい側に座っていた小春おばさんに声をかける。彼女は以前から機関に所属していて、私たち姉妹を監視下に置いていた。姉が私を庇護下に置いていたのとは違って、監視下に。車両の端と端には二人の男性が座っていて、おそらくは彼らの機関の人間であると思われる。おばさんから聞かされた数々の情報は、真実の情報と偽の情報、的確な情報と誇張された情報とが混交しているはずだ。けれど、機関の存在そのものについては疑う余地はないのだろう。私は背中に汗が兆すのを感じながら、それが額に浮かび上がってはいないことを不幸中の幸いと悟った。
「私一人に任せてくれるものだと思っていたけれど、やはり監視されていたようね」
「あんたはあくまで協力者であって当機関の人間ではない、当然のことさ。それよりも結論を聞かせて。月白清加は力を宿しているのか、それとも……?」
「彼女は力を宿してはいないと思う。少なくとも機関がリクルートすべき人物でもなければ、排除しなければならない存在でもない」
「それが嘘でないことを祈ってるよ。隠したところでいつかは分かるものだからね。……たしかに客観的に見ると、その判断は誤りではないようだ」
彼女は携帯端末を操作しながらそう口にした。
「ところで――」
「ああ、そうだった。あんたの知りたい情報はここに収めてある」
彼女は今まで触っていた携帯端末を軽々とした調子で投げ渡してきた。その態度に嫌悪感を抱きながらもパスワードを力で読み取り、それを入力してロックを解除する。そこにはいくつかのテキストファイルが収められていて、急いで目を通していく。そこには、瑞穂が轢死したときの真実が記されていた。
彼女は、私やその他の目撃者の心を操作して、事故を利用して死を装っていた。そう、瑞穂は生きている! その情報を得るためだけに、私は機関に協力したのだった。
「アドレス帳を開いてごらん」
彼女の言葉に従ってアドレス帳を開くと、一件だけ見慣れない名前が記されていた。
「これは……?」
「あんたの姉さんは別の生き方をすることを選び、今はそう名乗ってる。機関もまたそれを援助したんだ」
「どうして機関が手助けを?」
「あんたがいたからだよ。承知の通り、あんたは姉から機関の仕事を引き継いだ。まだ正式な構成員とは言えないけどね。それはともかく、これが仮に超能力の類であったなら力の継承もその喪失も可能かもしれない。けど、これは現実の話だ。あんたの姉は力を宿したまま、機関の監視下に暮らしている。もちろんあんたのように研究には協力してもらわなければならない」
「機関は私たちを守るの? それとも利用するの?」
「それは私には分からないが、ソフトランディングという文句はあんたも聞いたことがあるだろう」
秩序維持のために力の顕現のメカニズムを解析する。そして、最終的には力を持つ者が発生しないように努める。そのことを端的に表すために機関で使われているのが、ソフトランディングという表現なのだった。
「でも、力を利用しようという考えがないとは言えないでしょう」
「それもまた当然の理さ。問題がこの国の中だけで起こっているわけではない以上、他国が力を軍事利用しないとも限らない。テロも抑止しなければならない」
車内の冷房が利きすぎているせいか、それとも背中にかいている汗のせいだろうか、私は身震いしそうになるのを必死で押し留めた。
「それにしても、今回のことでやっと肩の荷が下りた。これでお役御免らしい、あんたは一つの仕事をやり遂げたからね」
「親戚業もお仕舞いなのね。長い間、ご苦労さまでした」
「心にもないことを。ま、退屈な日常ではなかったね。一つ忠告しておくが、姉のような変な考えを起こすことだけはやめておきなよ。それはあんたの姉の身にも――」
「それはもういいんです。もう、終わったことだから」
小春おばさんだった人は、ふんと鼻を鳴らすと別の車両に移っていった。目の下にクマ一つないことを自慢していたおばさんは、最初から存在していなかったかのように人々の記憶から消えていることだろう。
やがて電車は自宅の最寄り駅に到着した。その直前で瑞穂が事故に遭ったはずの踏切を通ったけれど、もう彼女のことは忘れるべきなのだろう。彼女は全てを私に託して去っていったのだから。
歩きながら、これからの過ごし方を私は考えていた。清加を、あの子を見守っていかなければならない。彼女が力を宿していないとは、実は言い切れないのだ。けれど力の顕現を抑えることくらい、私にもできるはずだ。かつて瑞穂が私に対してそうしたように。いつか私を追い越してしまうかもしれない素質を宿しながら清廉な心を持った清加には、私と同じ道を歩ませるわけにはいかない。
私なりの庇護者とともに生きていくこともまた、悪くはないのかもしれない。そのように思うとき、瑞穂の存在は真に心の中から飛び立っていくような気がした。
それからしばらく経ったある日のこと、私はベッドで眠っていた。
時折、自分自身の力を制御できなくなるようにして夢の中で未来予知をすることがある。そのことに怯えながらブランケットに包まっているうち、未来のどこかで遠くからバイクに運ばれてくるものがある。それは一通の手紙だ。
水兼灯里さんへ。
お元気ですか。最近は話す機会もないけれど、あのときは本当にありがとう。おかげで展示は上手くいきました。きっとまたいつか、あのときのように縹緲としたお話をしましょう。あなたが大切にしているもののことを聞かせてほしいし、あなたが聴かせてくれた音楽のこともきちんと知りたい。だからきっと、また会いましょう。
私は枕元の端末を操作して『若人の歌』を聴き始める。どこか遠く、名も知らぬ場所で暮らしている姉のことを再び思い返す。思えば、この楽曲は彼女が教えてくれたものだった。ちょうどこの音楽のように人の心の声が聞こえてくるのだと知ったとき、私は姉の企みを知った。
あのとき目にしたはずの彼女の新しい名前は、不思議にいつまで経っても思い出せない。機関によって何らかの暗示がかけられているのだろうか。力による暗示なのだとしたら、力で破ることもできるだろう。
少し考えた後、私は彼女のことを諦めた。そして、これからは清加のために力を行使するのだと、そう決意するのだった。