パラリシス
パラリシス
来店0日目
世の大人たちはなぜ珈琲を好き好んで飲んでいるのか
子供の頃そう思っていた俺は、今日も朝一番の深い苦みを味わっている。
小学生の頃、親の勧めで初めて珈琲を飲んだ。両親が無類の珈琲好きであったため、さぞ甘くておいしい飲み物なのだろうと期待していたが、初めて飲んだ時、あまりの苦さに思わず吹き出してしまい、母のお気に入りの服にぶっかけてしまった。あの時の舌に残る苦みと怒った母への恐怖は生涯忘れることがないだろう。
その出来事以降、無意識に飲むことを避けていたが、大学入学後に同学部の珈琲好きの友人にしきりに誘われたことで十何年ぶりにあの因縁の飲み物を飲むことにした。すでにその味を知っていた上で飲んだ結果、友人の服を汚すことになってしまった。
やはり俺には向いていない、もう一生飲んでやるものかと思っていたが、友人はあきらめの悪い性格らしく、その後も俺に数えきれない量の勧誘をしてきた。そして不幸なことに、サークルの同期やバイト先の先輩、中学からの親友など、自分の周りにあのおよそ人向けとは考えられない飲み物を好む人が大勢おり、その分誘いを多く受けることになった。
誘いを受け、自分にものめるかもという淡い希望を持ち、友人の家で後悔しながらシミ抜きをする。このパターンを何回繰り返してきただろうか。しかし人の慣れとは恐ろしいものだ、いつごろからかは忘れたが次第にあの苦さにも慣れ、気づけば毎日一杯飲むことが習慣になるほどになっていた。あの時諦めずに珈琲の道へ誘ってくれたたくさんの友人には深く感謝をしたい。
頭の中でひそかに友人にありがとうと伝えていると、つけっぱなしにしていたテレビからアナウンサーのはっきりとした声が聞こえる。
「昨日夕方、××市の道路で自動車の衝突事故が発生し、60代男性が死亡しました。」
「まじか。俺ん家の近くじゃん」
毎日事故や事件で人が死ぬニュースを聞く。
俺が大学で授業受けてる時、サークルで友達とふざけあっている時、バイトで客のクレームを聞いている時、どこかで人が突然死んでいる。被害者は死ぬ間際何を考えていたのだろう、遺族の方々は突然の出来事のあと、どうやって生きていくのだろう。考えただけで俺は胸が張り裂けそうになるが、同じ悲しみを大半の人は抱くことがなく、その日のうちにニュースで放送されていたことは記憶から抹消してしまうのだろう。
世の中の人は人が毎日死ぬことに慣れてしまっている。人の慣れとは恐ろしい。
そう思いながら二杯目の珈琲を飲む。
来店1日目
ある日、どこか適当な喫茶店で珈琲を飲もうと街をぶらぶら歩いていたところ、とある店を見つけた。
数年前にオープンした「パラリシス」という名前のその店は、レンガ造りの壁に、上部にガラスが付いている木製ドアがあるまるで老舗のような外観だった。
吸い込まれるように入った店内はレトロな雰囲気のある見た目であった。近年は中々見かけないが、このような喫茶店もたまにはいいなと思いながらカウンターの一番左の席に座った。
何を飲もうかとメニュー表を見ていると、『特製珈琲』というものがあったので、せっかくだからとそれを頼んだ。しばらくしないうちに届き目の前の机に置かれた。
果たしてどんな味なのだろう、と期待して飲んでみると、たちまち吹き出してしまった。今までの人生で断トツに苦く、おいしくない飲み物だった。非常に失礼だが、もはや飲み物と言っていいのだろうか。口の中の苦みをせめて和らげようと、珈琲のすぐ隣にあるお冷を飲んでいると、自分のことに気付いた店主らしき30代のふくよかな男性がこちらに来た。
「すみません。こぼしてしまって」
「全然大丈夫ですよ。『特製珈琲』が口に合わなかったんでしょう?」
「申し訳ないです...ってなんでわかったんですか?」
「その珈琲を初めて飲むお客さんは大体苦いか不味いかで同じことになるんですよ」
「そうなんですか」
「でもこの珈琲、当店一番人気のメニューなんですよね」
「本当ですか?一口飲んだ後だと中々信じられないんですけど」
「実は中に魔法の粉を入れているんですよ。はじめは非常に苦いのですが、何回か飲むと味が変化するんです。最初に飲んだお客さんには必ずこの話をするんですが、しばらくたった後にその衝撃を味わった方は皆大絶賛してくれます。『こんなのおいしい珈琲飲んだことない』って。」
店長はそういうと、床の掃除をはじめた。このまま店内にいるのも気まずかったので、店長に一言挨拶をしたのち、会計を済ませて店を後にした。
その後も俺はあの店に通った。店主の言うことを信じることにしたのもそうだが、仮に言っていた通りにならなかったとしても、自分の過去の経験からいずれあの味にも慣れるだろうと思っていたからだ。
結果、あの言葉は真実であった。これもまたいつからであったかは忘れたが、『特製珈琲』が甘い味に変わった。この世のどんな飲み物よりおいしいと確実に言えるほどに美味であった。飲んだ瞬間、口で天国が創造され、天使たちがハープを奏でている感覚を覚える。そんな味だ。気づけば私は毎日通い詰めるほどの常連客となってしまった。
来店2?日目
「先輩のおすすめ珈琲、どんな味か楽しみです!」
今日は珈琲好きのバイトの後輩とあの店に行っている。
「おっ、また来たね。今日は別の子連れてきたのか」
店長はそう言うとカウンターの一番左の席に私、その右隣に彼女を案内した。
「君はいつものやつで、ガールフレンドは何にする?」
「何ですかその呼び方。別にそんなんじゃないですって」
「そういうのいいっていいって、全部わかってるからさ。それで、どうする?」
謎に理解者ぶっているので、なんとか誤解を解こうと思ったが、面倒くさいことになりそうな気がしたのでやめよう。
「『特製珈琲』で」
「『特製珈琲』2つね、すぐ用意するから」
店主は厨房の方に、消えていった。
少しの沈黙の後、彼女が尋ねる。
「頼まなくてもあっちが把握してるってどんだけここ来てるんですか?」
「...覚えてないな」
「覚えられないくらいか、すごいですね」
「この店の珈琲がうますぎるからついつい来ちゃうんだ」
「そうなんですね。てかさっき店主が、『今日は別の子連れてきたのか』って言っていましたけど、私以外にも女の子をこの店に連れてきたことがあるんですか?」
「そうだなぁ、サークルの先輩、学部の同期、同じ中学のやつも連れて行ったな」
「結構いるじゃないですか! 女たらし」
「だからそんなんじゃないって」
「あ~はいはい、言い訳はいいですから。」
彼女は顔を俺からぷいと顔を背けるふりをする。
「そっかぁ...私が一番じゃなかったのかぁ...」
小さく彼女は言う。
「なんか言ったか?」
「なにも」
少し落ち込んだ顔に見えたのは気のせいだろうか。
彼女は話を続ける。
「それでその子たちもあの珈琲を飲んだんですか?」
「そうだな」
「飲んだ時何て言ってましたか?やっぱり大絶賛だったんです?」
「いや~それが全く覚えていないんだよな」
「覚えてない?」
「最近細かいこと覚えられなくなったんだよな」
「来た回数も覚えてないって言ってましたよね。先輩も物忘れがひどくなってきたか」
「まだそんな年じゃないわ」
そうしていると、店主が厨房から出てきた。
「はい『特製珈琲』2つね。こっちが君ので、こっちがガールフレンドのね」
呼び方を変えてくれていないが、指摘はしない。
「私早速いただきますね。いや~めっちゃ楽しみ!」
そう言って珈琲を飲むと、彼女は口からそれをこぼしてしまった。
しばらくむせた後、彼女は言う。
「何ですかこれ!めっちゃ苦いじゃないですか?うわ~結構こぼしちゃったぁ。店主さんすみません!」
何度も頭を下げる彼女。
「いいよ全然。それより服は大丈夫だった?」
「はい、何とか」
「なら良かった。拭くもの持ってくるね」
店主は、店の奥に姿を消した。
「大丈夫だったか」
別の席に案内された後、俺は尋ねる。
「何とか。それより先輩よくこれ飲めますね」
「そんなに苦くないと思うけどな。むしろ甘めだな」
俺がそう言うと彼女は大きな目を見開いた。
「同じ飲み物でこんなに感想違うことあります?先輩の味覚おかしくなっちゃいましたか」
「そんなことないと思うけどな。試しに俺の飲んでみるか?」
「いいんですか? あ、」
一瞬彼女が制止する。
「どうした?」
「これ先輩一口飲みましたよね」
「そうだな、あぁそういうことか。俺は別に気にしないぞ」
「私が気にするんです!」
どうしてもこの美味さを知ってほしい俺は、恥ずかしがる彼女を説得し結局一口だけ飲んでもらうことになった。
よほどなのか、彼女の頬がリンゴのように赤い。俺は雑な性格なので考えたことがなかったが、やはり女性はそういうことを気にしてしまうものなのか。この性格を改善した方がいいのかもしれない。
「飲みますね」
彼女が俺の珈琲を飲む。
瞬間、大きな目が零れ落ちそうなほどに開かれる。
「美味しいですね!こんなの飲んだことないです!もう一口飲んでもいいで...」
突然のことであった。驚きと笑みを含んだ顔は、途端に笑みをなくして床へ倒れていった。
何が起こったのかよくわからなかった。
バランスを崩して倒れたのだろうか。
「大丈夫か?立てるか?」
そういって手を指し伸ばす。しかしなぜか、彼女はピクリとも動かず口から泡のようなものを吹いている。
周りには気にせず珈琲を飲んでいる人が半分、悲鳴を上げている人が半分。たかが倒れただけだ、そんなに騒ぎ立てる必要もないのに。
そう思っていると、店主が店の奥から現れた。
倒れた彼女を見て、
「なるほど...はてさて、今回はどう処理をしようか」
そう静かに独り言を言う。
来店??日目
「昨日昼過ぎ、20歳の男子大学生の遺体が自宅で発見されました。原因は毒の服用とされていて警視庁の調査によると...」
「...またか」
不吉なニュースを聞きながら今日も私は朝一杯の珈琲をたしなんでいる。
最近、周辺の大学の生徒が毒で死亡する事例が相次いでいる。今ニュースにあるもので9件目か。
今テレビではその事件について毒物の専門家が招かれ、特集をしているようだ。
「最近相次いでいる事件ですが、原因となっている毒はどれも同じ種類だそうですね。」
「そうなんです。南米のとある民族で使用されているもので日本ではまだ規制されていないんですよ。」
「そうなんですか。早く違法にしてほしいですね。でも死んでしまうような毒をどうやって使っているんですかね?」
「この毒は少量だと死ぬようなことはないんです、非常に苦いですが。しかし、毒への抗体ができて徐々に摂取量を増やしていくと味が甘く変化して、これが非常に美味だそうです。その民族はそれを好んで使用しているのではないでしょうか。死亡した学生たちは抗体のできていない状態で多量に摂取してしまったことが原因だと私は考えています。」
「そのような特徴があったんですか。摂取量に気を付ければ、調味料などで私たちも使用することはできないのでしょうか?」
「これだけ聞くとちゃんと気を付ければ大丈夫じゃないのかと思う人も少なくないでしょう。しかし、この毒には恐ろしい副作用があるんです。摂取しすぎると、感情の起伏がなくなってしまうんです。私はこれを「感情の麻痺」と呼んでいるのですが、南米の民族では家族が死んでも涙1つ流さないようです。感情の麻痺が進むと出来事が起こった事すら忘れてしまうという研究結果もあるそうです。」
「非常に恐ろしい毒ですね。それではここで、以上となります。○○先生、ありがとうございました。次のニュースです。」
そうやって、事件のニュースは終わった。
「今日何度目だよこのニュース」
正直、新しい事件が起きるたびテレビで特集され、事件の起きなかった日でも似たような内容のニュースが流れ続けるので、正直飽きてしまってきた。近くで起きている事件ではあるが、しょせんは他人だ。気にする必要はない。そういえば、最近俺の周りにも1つ小さい事件が起きている。バイトの同僚が数人出勤していない。連絡もつかないそうだ。それ自体はどうでもいいが、自分のシフトが増えてしまうことだけはやめてほしい。来ていないと言えば、俺の大学の友人も最近見ない。
「周りでいろいろ起きているせいであんまりいい気持ちじゃないな。とりあえず今日もあの店行くか、そうだ」
珈琲を飲んだ後のコップを机に置き、パジャマを脱いで適当に放り投げながら電話をかけて、すぐその相手は出た。
「めっちゃおすすめの珈琲あるんだけど今日の昼飲まないか?」