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8.追加依頼

翌朝、いつものように起床し、窓を開け放ってブラッシングをしていると、ハンナがバスケットを持って、小道を歩いてくるのが見えた。

セルマが手を振ると彼女は笑顔を見せペコリとお辞儀をし、少し早足になってこちらに向かってくる。


下で出迎えようかと思ったがそれよりハンナの到着のほうが早そうで、そのまま二階の窓の前に立って待つことにした。


「おはよう」

「おはようございます、セルマ様」


セルマの挨拶にハンナは元気よく返事をした。


昨夜の彼女の態度から、本館がうまくいっていないことを察したセルマである。

告げ口したのかとベルナルトから彼女が責められていないか気がかりではあった。


愛人に溺れてはいても理性は失っていない彼のことだから、メイドひとりをいじめ倒すようなことはしないだろうとは思っていたが、その予想は当たっていたようでハンナは元気そうにしている。


その後の経緯をセルマは聞くつもりはなかった。聞けば首を突っ込まなければならなくなるだろうし、今は翻訳の仕事が忙しい。

今日発送する原稿はなんとか仕上がったが、次の依頼である論文はもう受け取っている。こちらの納期はまだ先ではあるが、原文が手元にあるのだから進めておきたい。


なにか言いたそうにしているハンナにセルマはあえてなにも聞かなかった。

聞かれない以上はメイドである彼女から話をするわけにもいかず、セルマは難を逃れることができたのであった。






『人生とは予想外の連続である』とは誰の言葉だっただろうか。


セルマは今、書斎でベルナルトと対面している。


というのも、セルマが朝食を終えたころに彼がここへ突撃してきたのだ。

本館とは違う質素な空間に彼は物珍しそうに部屋の中を見渡している。


「なにかご用でしょうか?」


その問いかけでベルナルトは、はっとしてセルマに顔を向けた。


「仕事の依頼をしたくて来たんだ」

「婚約者役というお仕事ならすでにいただいておりますが?」


セルマの遠慮のない物言いにベルナルトは少し嫌な顔をしながらも続けた。


「いや、追加の依頼だ。両親の対応をお願いしたい」


いつになく神妙な彼の物言いにセルマは内心で呆れたものの予想の範疇でもあった。


「アリサさんでは難しいということですか?」


答えなどわかっていたがあえて意地悪く聞いてやった。

アリサに屋敷を任せたベルナルトは愚かだ。優秀だと思っていたのに女が絡むとポンコツになるタイプなのかもしれない。ある意味、一番厄介だと言える。


「ちょっとしたことで家政婦長と揉めていた。アリサにそのつもりはなかったようだが、使用人ならクビを言い渡されたと受け取れる言い回しをしていた。

執事長も同じようなもので彼は自主的に謹慎をしていた」


「どうしてアリサさんに任せたのですか?彼女が大商家の娘ならともかく、そうでないなら人に指示を出す経験などしたことがないはずです」


使用人に指示を出すというのは簡単なようで難しい。的確な指示を出せなければ舐められるだけだし、そもそも『的確』というのは知識や経験があった上で初めてわかることだ。

家政を取り仕切ったこともない娘にできないのは当たり前である。


「アリサがやらせてほしいと言ったんだ、原因は君だと思うが」

「どうしてわたくしが関わりますの?」


急にお前のせいだと言われてカチンときたセルマが言い返すと、ベルナルトは肩をすくめる。


「君とわたしの間に愛はなくとも婚約者であることに変わりはない。そんな女性に負けてられないと思うのは自然なことだろう?」


いじらしいとは思わないか?、と彼は続けているが、セルマには馬鹿だとしか思えなかった。


自分ができもしない仕事に立候補するなど無責任だし、可愛いからと言って考えなしに任命する方も愚かだ。

今回は大事に至らなかったから良かったものの、侯爵という地位を考えたら、国を巻き込む事態にまで発展してもおかしくはなかった。


「今まで家政を担っていた家政婦長を呼び戻せば事足りますでしょう?」


ウェルタスの惚気を完全に無視して正論を語るセルマに彼はまたも不機嫌な顔をした。


「そうできないから君に依頼に来たんだ」

「もう他家に移ってしまったのですね」


セルマの指摘に、ベルナルトが口をへの字に曲げ黙っているということは当たりということだ。


家政まで任せられる女性使用人はなかなかいない。

アリサのせいでウェルタス家は優秀な使用人を失った。これを教訓に彼はアリサから女主人の権限を取り上げたのだ。

高い勉強料ではあったがすぐに軌道修正してくるあたりは優秀な次期侯爵なのかもしれない。


「わかりました、次の方が見つかるまでの間はわたくしがお引き受けいたします。ただし、料金はドラード家の二倍とさせていただきますわ」

「何故、そこで倍額になるんだ」

「あら、婚約者とハウスキーパーの二役なんですから当然です。それにいつもなら依頼はひとつずつしかお受けしておりませんのよ」

「マルチタスクはできないのか」


意地悪く笑ったベルナルトにセルマは言い返した。


「ミスの許されないお仕事ですから集中したいんです」


セルマの反論に彼はまだニヤニヤしていたものの契約の成立は宣言した。


「わかった、言い値でいい。あとで契約書をよこせ」

「かしこまりました、明日までにご用意します。ところで侯爵様がお着きになるのはいつですか?」

「明後日だ」


あと二日しかないがなんとかなるだろう。別に本館は掃除が行き届いていないわけではなかったし、侯爵夫妻が滞在する客間を整えればいいだけだ。料理も今からならまだ間に合う。



「ところでアリサさんはどうするのですか?」


彼は昨日、侯爵夫妻が滞在中はセルマに本館で生活するように言っていた。


「ホテルに移すつもりだった。本人は準備を手伝いたいと言っていたが、君の邪魔になるだろうから今から送ってくる」

「そうしてくださると助かりますわ」


不満はあるもののこの仕事に手を抜くつもりはなかった。


義両親のもてなしは嫁の仕事であり、下手を打てばセルマの評価に繋がる。


この婚約は一年未満で解消となることが決まっており、セルマは今度こそ、イグレシアにとって都合のいい家に嫁がなければならないのだ。

婚約破棄された令嬢というだけでも問題があるのに、そのうえ、気の利かない娘だったと悪評が立ってしまっては次が見つからない。


セルマはため息をついて立ち上がり、ベルナルトとともに早速、本館へと向かったのであった。










ウェルタス侯爵夫妻の訪問以降、セルマの生活は大きく変わった。


「セルマ様、もうそろそろサロンの調度品を一新したほうがよろしいかと思うのですが」

「新しい食器を手配したいのですがよろしいでしょうか、セルマ様」

「セルマ様、このお花をダイニングに飾ってみてはいかがでしょうか」


使用人たちはどうでもいいことをいちいちセルマにお伺いを立てる。

彼らは本館から書斎へと小道を歩いてくるため、誰がそうしたのか小さな灯りまで設備され、森の中にひっそりと建つ山小屋という雰囲気ではなくなってしまった。


生憎と家政婦長を任せられるような人物はまだ見つかっておらず、セルマはさすがに侯爵夫妻滞在期間のように本館での生活はしていないが、それでもちょっとした指示は出している。

そのこともあって、使用人たちはすっかりセルマに懐いてしまった。


本館にはアリサが戻ってきており、彼女はベルナルトから屋敷を整える権限だけは与えられているはずなのだが、その相談すら使用人たちはセルマにしてくるのだ。


「そういうことはアリサさんにお伺いしてください」


セルマにそう言われた使用人は困った顔をして、

「アリサ様はダイニングにユリの花を飾るようにお命じになられました」

と言った。


食事の席ではその香りも楽しめるようにとあまり強い匂いを放つ花は飾らないことがマナーとされている。

言わずもがな、ユリはとてもよい香りがする。サロンや玄関ホールに飾るのには適しているが、ダイニングには向いていない。


使用人の言葉にさすがのセルマも絶句し、それから、

「あなたの持っているお花を飾ってください、アリサさんにはわたくしがそう言ったと答えてかまいませんから」

と言ったのであった。


こんな風に、四六時中、使用人に押しかけられていては翻訳の仕事が進まず、仕方なく仕事量を減らすことにした。


時間ができた分、メイドたちと話をするようになり、セルマの書斎は彼女たちがお茶を楽しむのにぴったりな感じのいいカフェのようになってしまった。


しかしそれがいけなかったのか、思うように動いてくれない使用人たちへの苛立ちを募らせたアリサが、書斎へとやってきたのだ。

お読みいただきありがとうございます

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