7.本館の現状
ある日の午後、セルマの住む書斎にハンナがやってきてこう言った。
「本日の晩餐はセルマ様とご一緒されたいと、旦那様がおっしゃっておいでです」
それを聞いて嫌な顔を見せなかったセルマは偉いと思う。
晩餐のための正装というのはすこぶる面倒なのだ。
特に女性の場合、まずは風呂に入り、指の先から足の爪までを磨き上げなければならない。そのあとも時間をかけて化粧をし、髪を結う。
ドレスはそのときの流行や季節に合った物を吟味して選ぶ、そのうえさらにアクセサリー選びにも時間をかける。
それだけの時間を割くならセルマは翻訳の仕事をしたかった。
今回はかなり短納期で引き受けてしまっている。というのも、一日中、翻訳の仕事をしていられるようになったからだ。
申し訳ないが晩餐の準備などしている余裕はない、しかし断りをハンナに言ったところで困るだけだろう。
彼女はただ、主人の下知をセルマに伝えに来ただけだ。苦情はベルナルトに言うべきだろうが、今夜というならそれももう間に合わない。
「わかりました。夕刻になったらドレスに着替えますから、手伝いに来ていただけますか?」
「では入浴のお支度をいたしますね」
「いいえ、それは自分でやりますから大丈夫です」
それを聞いたハンナは驚いた顔をしていたが、セルマは笑顔を崩さずにもう一度言った。
「夕刻に着替えの手伝いをお願いします」
ハンナから見たセルマはいずれ侯爵夫人となる女性で、そう言われたら反論はできない。
「では、また夕刻に参ります」
ハンナはそう言って書斎から出て行った。
セルマはそれを戸口で見送り、彼女の後姿が遠くなったところで急いで部屋に駆け戻った。
「お風呂なんか無しよ、できるところまで進めるわ。明日の朝にはここを発送しないと間に合わないもの」
イグレシア家経由にしているせいで、かけられる日数が一日短くなってしまうのだ。
セルマは猛烈な勢いで仕事を再開したのであった。
正装に着替えたセルマは指定された時間の少し前に本館にやってきたが、ダイニングはまだ準備が整っていなかった。
もう間もなく晩餐の始まる時間だというのにどういうことか。ひょっとして中止になったのか、と内心で喜んだセルマの後ろからメイドが慌てたようにやってきた。
「セルマ様、申し訳ございません。今、準備を進めてますので」
とりあえずサロンに入ってくれと言われ、使用人の邪魔になってはとセルマも素直にその言葉に従った。
しかし、こんなときにはすぐにお茶が用意されるはずなのだが、それもない。
使用人たちはバタバタと廊下を走りまわっており、開け放たれたサロンの入口からはそれが丸見えで、誰も扉を閉めようとすらしない。
明らかに統率が取れていないこの様子にはさすがのセルマも眉をひそめた。
そのときハンナが通りかかった為、セルマは声をかけた。
呼び止められた彼女は数枚の皿を抱えており、それをダイニングに運ぶところだったのだろうが、セルマはかまわず彼女をサロンへと引き入れ、その扉を少し閉めてから聞いた。
「なんだかお屋敷内がうまくいっていないようだけれど、なにかあったの?」
「それは、その」
彼女はそう言ったきり、口を閉ざしてしまう。
高位貴族に仕える使用人たちは皆、きちんと教育がされており、その家の内部事情は口にしないように躾けられている。
ハンナも例外ではないようで彼女は何も言おうとしない。そこでセルマはカマをかけてみることにした。
「家政婦長も執事長も姿が見えないようだけれど、今夜は外出されているのかしら?」
セルマの言葉にハンナはびくりと肩を震わせた。
それだけでセルマにはなんとなく事情がわかったが、これ以上、問い詰めてはかわいそうだと思い、サロンの扉を開けダイニングへと向かった。
そこには数名の使用人たちがいたが、それぞれが勝手に作業をしており効率が悪いことは明白だ。
「そこの貴女、テーブルクロスのしわをとって頂戴、急いでね。それが終わったらお皿を並べて」
そしてハンナには、ひとまず持ってきたお皿を棚の上に置き、グラスを持ってくるように指示を出す。
彼女が食堂を出る頃にはテーブルクロスは綺麗に整えられた状態になり、居残った者で皿を並べさせた。
「貴方でいいわ、テーブルのお花は背の低いものに取り替えてくださいますか。あまり高いと食事の邪魔になりますからね」
それから庭園の様子を思い浮かべ、
「書斎への小道はわかりますね?本館を出たすぐのところに青いお花が植わってるはずよ、とりあえずそれでお願いします」
と指示を出す。
そうしているうちにグラスやらカトラリーが届き、順次、並べられていく。
あらかたの作業が終わり、使用人たちがはけた頃、屋敷の主であるベルナルトがやってきた。
「すまない、待たせたか?」
「いいえ」
セルマはにこやかに微笑んで、食事の席に着いたのであった。
なにか用があっての晩餐のはずなのに、彼は社交界での噂や新聞に載っている程度の政治的な話題を口にするだけで、これといった話もないまま食事は終わってしまった。
食後のお茶の為にとサロンへ移動したところで、セルマは思い切って聞いてみた。
「なにかご用があると伺いましたが?」
セルマの質問にベルナルトは少しバツが悪そうな顔をして、
「久しぶりにきちんとした晩餐が食べたくなっただけだ」
と言う。
しかしセルマにはその言葉の意味がさっぱりわからない。
彼は侯爵令息だ、豪華な食事がしたいのなら毎日だって可能なはずだ。それとも晩餐と銘打たない日は質素な食事しか出してもらえないのだろうか。
しかしセルマに届けられている食事は充分に豪華で、おそらく彼も同じものを食している。
不思議がるセルマにベルナルトは少し声を落として言った。
「アリサと晩餐は食べられないだろう?」
アリサというのは彼が入れ込んでいる愛人の名前だ。
平民の彼女は晩餐のマナーを知らないのだろう。なんなら、今、こうして飲んでいるお茶の作法ですら、正式にはマスターしていないのかもしれない。
「君はマナーがなってないから晩餐は無理だなんてさすがに言えない。かといって、別々に食べるのもおかしな話だ。だから申し訳ないが君をダシにした」
「まさか、わたしがご一緒したがっているなどと言ってませんね?」
「わたしはそこまで愚かではないよ、社交に必要な話をすると言ってある」
勝手に惚れている設定を盛り込まれたらたまったものではないと思ったセルマだったが、それはなかったようで安心した。
しかし大事な話すら作り話なのだろうか。
「では、お話というのは?」
すると彼はなんでもないことのように言ったのだ。
「近々、父上と母上がこの屋敷に来ると言っている。申し訳ないが、ふたりが滞在している間は本館で生活してもらえるか?」
その言葉を聞いてセルマは固まった。
彼は使用人たちの統率がとれていないことを知らないのだろうか。
どういう理由かは知らないが、今、この屋敷には指揮者というべき人物がおらず、客をもてなせる状態ではない。
本来なら実質上の女主人であるアリサがそれを担うべきだが、余程のカリスマ性が備わっているのならともかく、平民の命令に侯爵家の使用人が従うとは思えないし、そもそも貴族教育を受けていない彼女では的確な指示を出すことすら難しいだろう。
おまけに今回の訪問者は義理の両親。
貴族だろうが、平民だろうが、太古の昔から嫁にとっての舅、姑は扱いに困る存在だ。
その最も難易度の高い賓客を今の状態でもてなすことなど絶対に不可能だ。
セルマが驚きで固まっているとベルナルトはなにを勘違いしたのか、どうでもいいことをペラペラと語っている。
「安心していい、寝室はもちろん別にする。わたしが愛しているのはアリサだけだからな、家門に誓って君に手を出したりは」
「無理です」
彼が言い切るより早くセルマは反対を口にした。侯爵の発言を遮るなど無作法だ。だが、この脳みそお花畑男にはっきり言ってやらないとセルマの気が済まない。
まさか反論をされるとは思っていなかったのだろう。彼は一瞬呆けたように口を開けていたが、それから一呼吸おいて言った。
「無理と言ったか?」
「えぇ、そうですわ。今のこのお屋敷では、お客様をお迎えするなど到底不可能です」
間髪入れずに言い切ったセルマに彼は眉をひそめ、不機嫌であることを示した。
「君は普段、書斎に籠っていると聞いている。そんな人間が何故、屋敷の内情を語れるんだ?
ここはアリサに任せてあるのだから、問題などあるはずもない」
「そう思われるのでしたらば、今すぐ家政婦長か執事長をお呼びくださいませ。彼らがまだこの屋敷に残っているのなら、ウェルタス卿の招集に応じることでしょう」
「なに?それはどういう意味だ」
「あとはご自分でお確かめください。お互いにプライベートには口を挟まない契約になっております故、わたくしはこれで失礼いたします」
セルマは立ち上がるときちんとお辞儀をし、書斎へと戻っていった。
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