6.ルシオの訪問
そんな日々を送るセルマをルシオが訪ねてきた。
「やぁ、セルマ嬢。遊びに来たよ」
「ようこそルシオ様、と言いたいところですが、わたくしはウェルタス卿と婚約していますから、こういうことは困りますわ」
「僕はベルナルトの友人だ、多忙な彼に代わって婚約者のご機嫌伺いにきただけだよ」
「相変わらず言い回しがお上手で」
ルシオは彼特有の気軽な雰囲気をふんだんに織り交ぜて、茶目っ気たっぷりの挨拶をする。
キッチンで給仕の支度をしているハンナにもふたりの会話は聞こえているだろうが、この雰囲気なら男女の色恋だと誤解されることもないだろう。
「花束を持ってきたんだ、美しい君にぴったりのバラの花」
差し出された花束を躊躇なく受け取ったセルマは、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「いい香りだわ、どうもありがとうございます」
「それだけ?」
「それだけとは?」
セルマの疑問にルシオはわざとらしく天を仰いで、
「なんてことだ、セルマ嬢ともあろうひとが花言葉を知らないなんて!」
と言った。
「もちろん知っていますわ、『あなたを愛する』でしょう?」
セルマの答えに満足げにうなずいたルシオは、僕の気持ちだよ、と微笑んでいる。
どこまでも気軽な雰囲気を崩さない彼に苦笑しながらセルマはそっと手元のバラに目を落としてから、
「あなたの愛はきっとこのバラの数ほどあるのでしょうね」
と笑い、それを聞いたルシオはまたも天を仰ぎ見て、
「ひどいよ、僕は本気なのに」
と抗議の声をあげた。
そのタイミングで支度を終えたハンナがワゴンを運んできた。
「お茶が来ましたわ、ルシオ様、どうぞお座りになってください」
「そんなものには興味がないが、君と同席できることは素直に嬉しいね」
「よくおっしゃいますこと。知っていますのよ、ルシオ様が大層ご令嬢方に人気があると」
「そうなんだ、でも僕の想う女性は一向に振り向いてくれない」
ルシオはそう言ってセルマを見つめるが、もちろん彼女は取り合わない。
「わたくしはあなたのご友人であるベルナルト・ウェルタス卿の婚約者ですわよ?」
セルマが口にした真実にルシオは大きなため息をつく。
「やはり君を彼に紹介したのは失敗だった、後悔してる」
「あら、わたしは感謝してますわ。とてもよい環境をご提供いただきましたもの」
そう言ってセルマは窓からの景色を眺め、ルシオも同じように窓の外を見た。
「木立に囲まれていて、風も気持ちがいいね」
「イグレシア邸を思い出しますわ。郊外に位置する屋敷ですから近くに小さな森があって、よく木苺を摘みに行きました」
セルマの思い出話を聞いたルシオは、
「君が苺摘みをするの?」
と言って驚いた顔をしている。
それはそうだろう、貴族令嬢は自ら森に入って木苺を採取するなどしない。
しかしセルマには身近なことだった。
「母の作るジャムが大好きで摘みに行ってましたのよ」
亡くなったセルマの母の実家も伯爵位であったが、それほど裕福ではなかった為、彼女は貴族令嬢には珍しく料理のできるひとだった。
イグレシア家に嫁いできてからはさすがに食事を作るようなことはしなかったようだが、それでもときどき、子供たちのためにジャムを作ってくれたのだ。
母の作るジャムは砂糖をたっぷり使ってあり、とても甘い。子供たちの口に合うようにと特に甘くしていたのだと思う。
その懐かしい味を思い浮かべたセルマは微笑みを零し、
「いつかまた、あのジャムを作りたいわ」
と言い、そんな彼女にルシオは朗報を伝えた。
「エミリオ君がイグレシア伯爵になった暁には、兄上も力になると言っているよ」
彼の言葉を聞いたセルマには喜びよりも先に疑問が浮かんだ。
「まぁ、それは何故でしょう?」
「なに、その反応は。嬉しくないの?」
彼女の反応を見たルシオはあからさまにがっかりしている。
「それはもちろんとても嬉しいわ、でもドラード家にメリットがあるかしら?」
「僕が兄上を説得したんだよ」
そう言って得意げな顔をしたルシオ。
彼はどうやって説得したのだろう。そもそも、何故?
様々な疑問が浮かんだものの、セルマ以上に嬉しそうな顔で微笑んでいる彼に問い詰めるのも野暮だと思った。
理由はどうあれ、ウェルタスとドラードというふたつの侯爵家がエミリオの後見をしてくれるなど、この仕事を受けた甲斐があったというものだ。
あの叔父のことだ、爵位を奪われてはなるまいと必死に抵抗をするだろう。
訴訟などという手段に出られたら、たとえ勝訴したとしてもイグレシア家にとっては醜聞にしかならず、それ以降にイグレシア伯爵を名乗るであろうエミリオの足かせとなることは明白。
愚かな考えすら抱かせないほどの後ろ盾を。
セルマは常々そう考えていたのだが、やっと現実味を帯びてきた。侯爵二家が懇意にしているイグレシアならば周囲は重きを置く。
イグレシアに手を出すと我が身にも火の粉が及ぶかもしれない。そう思わせることで叔父に手を貸そうという者がいなくなる。
となればあとは一対一の対決だが、身びいきを差し引いたとしても、エミリオがあの愚かな叔父に負けるとは思わない。
「手始めにこちらを」
ルシオはそう言って、ジャケットの内ポケットから一通の封書を取り出した。
封蝋はドラードの家紋であり、この手紙がドラード当主、つまりルシオの兄からのものだと推測できた。
「これは」
中身を確認したセルマはその情報に驚いた。
それは現在、叔父が住んでいるイグレシア邸に出入りしている商人や、叔父と懇意にしている貴族の一覧だった。
セルマも屋敷に残っている使用人を通してそれなりに情報を得ていたが、この手紙に書かれているほどの詳細な内容は把握していなかった。
どうやって調べたのかはわからないが、いつ、どこで、何を話したかまで記載されている。
さらに恐ろしいことに、幾人かの足が遠のいたことまで記してあった。
彼らはドラードの影がちらつき始めたことに気づいて、トラブルに巻き込まれるまいといち早く叔父を切り捨てたのだろうし、ドラードもそれを狙ってわざと大っぴらな調査をしたのだろう。
セルマは思わず感嘆のため息をついた、これが侯爵家の力というものなのだ。
もちろんメリットばかりではない、エミリオに代替わりしたイグレシアはドラードを裏切ることは許されなくなった。
しかしセルマの目から見たドラード当主はまともに見えたし、いずれにしても叔父を伯爵代理の座から降ろすには自分たちの力だけでは難しいとなれば、多少の泥水はすすらねばなるまい。
セルマはゆっくりとした動作で手紙を折りたたみ、丁寧に封筒の中にしまってからルシオに言った。
「ありがとうございます、早速、エミリオと情報を共有させていただきますわ」
「戦わずして勝つ、これも立派な戦法だよ」
ルシオは騎士らしくそう言って、セルマの戦いを肯定する。
彼のもたらした情報はセルマに未来への希望を抱かせたのであった。
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