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5.『婚約者役』という仕事

セルマの婚約になによりも反対したのはエミリオだった。



「ベルナルト・ウェルタスは恋人がいるという噂があります、そんな奴と婚約しても姉上が幸せになれるわけがない」


エミリオの言い分にセルマもうなずいた。


「そうらしいわね、でもわたしはウェルタス卿に愛を求めてはいないの。だからそれは問題にならないわ」

「恋人の存在を承知した上で婚約するのですか?」

「そうよ、すべてはイグレシアの為だもの」


きっぱりとそう言い切ったセルマは、叔父に屋敷を追い出されたあの夕暮れに思いをはせた。




今にも雨が降り出しそうな空模様だというのに、屋敷に勤める全ての使用人がセルマとエミリオの見送りの為に裏門に集まってくれた。


ふたりに用意された馬車は家紋のついていない粗末な作りの物だ。

すべての決定権が叔父に奪われた今、使用人の采配で使える馬車はこれしかない。


詰め込めるだけ荷物を詰め込んだ大きなトランクがいくつも馬車に乗っている。

メイドたちが叔父たちに奪われる前にと手分けしてふたりの私物を入れてくれたのだ。


使用人を代表して家令がセルマの前に進み出て深く頭を下げた。



「セルマ様。どうか、エミリオ様をお願い致します」



セルマはイグレシア伯爵の実子ではなく、彼の友人である子爵家の娘だった。

営んでいた商売の関係で子爵は遠い外国へ赴かねばならなくなり、幼いセルマをイグレシア伯爵家に預けることにしたのだ。


ちょうどそのとき、イグレシア伯爵夫人はエミリオを身ごもっており、社交を控えていた。


「つわりがひどくてつらいのよ。セルマが話し相手になってくれたら助かるわ」


伯爵夫人はそう言ってセルマを快く引き受けた。


運命とは残酷なもので、セルマは両親とそれっきり会えなかった。

二人の遺体が見つかることはなく、空っぽなふたつの棺にすがって涙を流す幼子を不憫に思ったイグレシア伯爵は、彼女を自らの養子にした。


そしてエミリオ誕生の際、伯爵はセルマに言ったのだ。


「君はエミリオの姉だ、どうかこの子を守ってやってくれ」




セルマは今こそ、その使命を果たすときだと思った。


「お任せください、わたしたち、きっとこの屋敷に帰ってきます」


セルマは淑女らしく礼をし、家令をはじめとする多くの使用人に見送られて、エミリオと共に粗末な馬車に乗り込んだのであった。




それ以来、セルマは自身の持てるすべてをイグレシアの為にと舵を切ってきた。


この愛のない婚約も、イグレシアの、ひいてはエミリオの為になると見越して承知したのだ。


聡い彼にはそれくらいわかっており、さらには反対を口にしたところでセルマが考えを改めることがないということもきっと理解している。


だからエミリオは、今、苦悩に顔を歪めて、セルマを見つめることしかできないのだ。


「姉上、自棄になっているわけではないのですね?」

「もちろんよ、勝算があるからこそウェルタス卿の話をお受けしました」


セルマの言葉にエミリオは長く大きなため息をついてから言った。


「貴女の貞操が危ういようならすぐにでも連れ帰ります」

「それは絶対に大丈夫。ウェルタス卿は恋人に夢中だし、第一、誰もわたしを目にとめたりなんかしないわ」

「その意見には賛成できかねますがね」


エミリオはぶっきらぼうにそう言ったのであった。










彼の所有する屋敷は繁華街からほど近い場所に位置しており、気軽に街歩きを楽しめそうな立地であった。


屋敷に到着したセルマは来客用のサロンへと通され、しばらくしてベルナルトがやってきた。


「よく来てくれました」

「本日よりご厄介になります、宜しくお願い致します」


丁寧なお辞儀(カーテシー)で応じるセルマにベルナルトは頷いた。


「早速、貴女の住まいとなる書斎にご案内しましょう。そちらではどうぞ自由にお過ごしください。ところで、しばらくはドラード家へ行かれるのでしょうか?」

「あちらとの契約期間はまだ残っておりますので申し訳ございません」

「不貞さえご遠慮いただけましたら、あとは何をしていてもかまいませんよ」


婚約中に愛人を囲うなどという、とんでもない不貞を働いている男が何を言うかと言ってやりたかったが、だからこそ訳ありのセルマに話が回ってきたのだ。

それを思えば彼の素行の悪さを非難することはできない。


「ありがとうございます。わたくし、本が好きですから、読書を楽しませていただきますわ」


セルマは微笑んでそう言った。



案内された建物はベルナルトの言ったように書斎と呼ぶには贅沢すぎる造りであった。

キッチンもバスルームも完備されており、部屋は寝室と応接室の他にちょっとした私室まで用意されている。


その部屋は鍵がかけられるようになっており、セルマのもうひとつの仕事をするにはぴったりであった。



「なにかありましたらこのベルを鳴らしてください。本館の使用人部屋までひもでつながっていますので、気づいた者が対応します。細かいことはこちらのメイドと話をしてください」


それだけ言うとベルナルトは書斎を出て行った。

本館に愛人を待たせているのか、仕事があるのか、それはわからないがセルマにはどうでもいいことだ。


セルマは早速、残されたメイドに話しかけた。


「セルマ・イグレシアと申します、今日からよろしくお願いします」

「ハンナと申します、セルマ様のお世話をするよう仰せつかっております」


お互いの自己紹介が終わったところでセルマは言った。


「荷物の整理をしましょうか。ハンナはクローゼットをお願いします、わたしは私室を整えますわ」

「はい、かしこまりました」


ハンナはにこやかに返事をしセルマもそれに微笑んで、ふたりはてきぱきと片づけを始めたのであった。






朝、小鳥のさえずりで目を覚ましたセルマはぐーっと伸びをした。


昨夜のうちに用意しておいた水で洗顔をし、ひとりでも着替えられる簡素なドレスを身に着けると、窓を開け放って朝の爽やかな空気を部屋の中いっぱいに満たしてから、ブラシを手に取った。


朝日の中で、木々を眺めながらのブラッシングは格別だ。イグレシアの屋敷に住んでいたときもこうやって髪をとかしたものだ。


セルマが朝の空気を楽しんでいると、バスケットを持ったメイドが本館からの小道を歩いてくるのが見えた。

向こうもセルマに気づいたようで笑顔を見せ、ペコリとお辞儀をした。

セルマは手を振ることで返事をし、彼女を出迎えるために階下へと降りて行った。


「おはようございます、いつもありがとうございます」

「とんでもございません、セルマ様のお世話がわたしの仕事ですもの」


ハンナは笑顔でそう言い、お食事を用意しますねとダイニングへと入っていった。




セルマはこの屋敷に移ってからずっとこの書斎で過ごしている。

食事もすべてこちらに運んでもらっているし、ドラード家に向かう時もここから馬車を出してもらっている。


ベルナルトの愛人は本館に住んでいるらしく、セルマはそちらに近づかないようにしていたし、あちらからの接触も今のところはない。


愛人は平民女性だと聞いている。平民が全員そうだとは言わないが、秘密裏に事を運ぶことに慣れていない彼らは、周囲にそれを漏らしてしまう可能性が高い。


ベルナルトとセルマはベルナルトの父である現侯爵を偽りの婚約という形で騙している。

もしこの嘘が露呈したら実子のベルナルトはともかく、たかが伯爵令嬢のセルマはただではすまされないだろう。

それでなくてもセルマには後見となる両親がいないのだ、なんの温情もなく修道院送りにされる可能性もある。


セルマは自身の婚姻でさえ、エミリオのためになる相手を考えている。

侯爵からの罰として修道女にさせられた姉の存在など、エミリオを支えるどころか足かせにしかならない。


この婚約がニセモノであることは絶対に周囲に気づかれてはならず、それはベルナルトにも充分にわかっているはずだから、そうなるとどれだけ愛人を愛していてもそれを告げることはできない。


この婚約が見せかけであることを知らないのなら、彼女にとってのセルマはベルナルトの婚約者だ。

愛人の存在を脅かす敵である以上、余計な接触をしないほうがいいという判断を下したセルマは、書斎での静かな生活を選んだのだ。


それにここに籠っていられることはセルマにとって、もうひとつの仕事をする上での大きなメリットでもあった。



セルマは急いで私室へと向かった。

昨夜、遅くまで奮闘したあとが残っており、走り書きをしたメモや外国の言葉で書かれた原作が机の上に出しっぱなしになっている。



彼女のもうひとつの仕事は、外国の言葉で書かれた本を翻訳することだ。



ハウスキーパーとしての仕事は今でこそ途切れなく依頼が入っているものの、始めたばかりの頃は期間が空いてしまうことも度々あった。


そんなときでもなにか稼ぐことはできないかと始めたのが翻訳の仕事である。


といっても純粋な翻訳ではなく、直訳のたどたどしい表現をより文学的にすることがセルマの仕事であり、外国語が理解できることは必須条件だが、それ以外にも物書きの要素が必要とされる仕事であった。


表立って働くことのできないセルマが、別人に成りすまして周囲に気づかれないように収入を得るのにぴったりな職であった。


セルマの翻訳は評判がよく、出版社は高く評価してくれている。

経験のないセルマに当時、仕事を回してくれた出版社に恩を感じているセルマは、今でもできる範囲で仕事を引き受けていたのだが、ベルナルトとの婚約を機に再開することにした。


幸い、この家でのセルマの仕事はなにもなく、ときどきベルナルトと共に彼の婚約者を装って夜会に出席すればいいくらいだ。

そこで、持て余した時間を翻訳の仕事に割り当てることにしたのだった。


ハウスキーピングよりはるかに少ない報酬であるが、セルマが欲しいのは給金ではなく、出版社への恩返しである。


セルマは机の上のものを鍵のかかる引き出しにしまった。それから私室の部屋を開け放して、食事の支度が済んでいるであろうダイニングへと向う。


部屋のドアを開けておけば、セルマが食事をしている間にハンナが室内を掃除してくれる。彼女に見られてはならない諸々は引き出しにしまったし、そのカギはセルマ自身が持っているから問題はない。


セルマがダイニングに姿を現すとハンナがすぐにお茶の用意を始めた。セルマは食事を進めながらハンナに言う。


「食事はひとりでできますから、掃除をお願いします」

「かしこまりました、では失礼いたします」


セルマにお茶の入ったポットを給仕したハンナはダイニングを出ていき、セルマはゆっくりと食事をしたのだった。



食事を終えたセルマが応接スペースでくつろいでいると、ハンナが分厚い封筒をもって彼女の前にやってきた。


「掃除は終わりました。こちらがデスクに置いてありましたが、いつものようにご自宅へお届けすればよろしいでしょうか」


彼女が抱えているのは昨夜、セルマが仕上げた翻訳原稿だ。


セルマは用心のため、ここから直接、出版社に送るのではなくテラスハウスを経由するようにしていた。


出版社など貴婦人に最も縁遠い存在だ。そこに度々荷物を届けていては、ウェルタス家の人たちに下手な勘繰りをされかねない。

テラスハウスの通いの使用人には、セルマからエミリオに届いた荷物は中身を改めず、そのまま出版社へ届けるように指示をしてある。


「忘れていたわ、お願いします」

「かしこまりました、お預かりしますね」


ハンナはそう言って封筒と食べ終わった食器をバスケットに詰めると本館へと戻っていった。


セルマはその後姿を見送ってから私室へと入り、翻訳の仕事に取り掛かったのであった。

お読みいただきありがとうございます

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