4.愛人付きの婚約
ドラード家での茶会でセルマを自身の集まりに誘った侯爵夫人は、セルマには正式な招待状を、セルマの雇い主であるドラード侯爵にはセルマを借り受ける断りの便りを送ってきた。
もちろんそれに反対するようなドラード侯爵ではなく、それどころかセルマのエスコート役としてルシオに同伴を命じてくれた。
「セルマ嬢は我が妻の大切な友人だ、頼んだぞ」
「お任せください、兄上」
ふたりの芝居めいたやり取りにを聞いていたセルマとドラード夫人は、思わず顔を見合わせ笑ってしまった。
「では申し訳ございませんが、少し出かけてきます」
セルマは夫人にそう言って、ルシオと共に夜会会場へと向かったのであった。
久しぶりの参加となった夜会にセルマは最初こそ緊張していたものの、だんだん調子を取り戻していった。
仕事のおかげで人脈は確実に広がっており、見知った顔も多い。それぞれに挨拶をしながら会場を回っていると、ひとりの男性がルシオに声をかけてきた。
「やぁルシオ、君が連れているご令嬢を紹介してくれないか?」
その申し出にいつも朗らかなルシオが珍しく嫌な顔をしながらもセルマを紹介した。
「こちらはイグレシア伯爵令嬢のセルマ。今、我が家に滞在してるんだ」
ルシオの紹介を受けたセルマはお辞儀で挨拶をする。
「セルマ・イグレシアです。ドラード侯爵夫人の話し相手として滞在のお許しを頂戴しております」
「初めまして、ベルナルト・ウェルタスです。お会いできて光栄です」
その名前を聞いてセルマにはルシオがみせた表情の意味がわかった。
先日、彼が言っていた平民に入れあげている侯爵令息がこの男性なのだ。
噂のベルナルトはセルマの手を取り、その指先に挨拶の意味を込めて軽く唇を触れさせたが、ルシオはそれをひったくるようにして彼から奪い返すと幾分声を低くして言った。
「悪いが例の話は無しだ、他を当たってくれ」
「それは無理だ。こんな話、他の誰が承諾するというんだ?」
「セルマ嬢も引き受けない」
「そうかな、彼女には大きなメリットがある。そうですよね?」
ベルナルトは最後の言葉をセルマに向かって言い、それを受けたセルマは貴族令嬢らしい微笑みを浮かべて言った。
「場所を変えませんか?落ち着いて話ができるところに」
「もちろん用意してあります、こちらへ」
ベルナルトの手招きにルシオはセルマに視線を向け、彼女が小さくうなずいたのを見てため息をついた。
「セルマ嬢もこんなヤツに付き合わなくていいのに」
ぼやくルシオにセルマは笑顔を向けた。
「でもビジネスとしては魅力的ですわ」
「まさか引き受けるつもり?」
「条件が悪くなければ」
セルマの言葉にルシオは目を丸くしているが、ベルナルトは笑った。
「さすが、セルマ嬢。よくわかっていらっしゃる」
ベルナルトもセルマの考えを見通しているのだろう。
女におぼれていても蛙の子は蛙、次期侯爵は伊達ではないということか。
セルマが婚約者役の仕事を引き受けるにあたって、最大の懸念はベルナルトだった。
要するに、エミリオの強力な後見人として次期ウェルタス侯爵が機能するのかどうかが知りたかったのだ。
高位貴族ならば愛人を囲うことはそれほど珍しい話ではない。と言っても、後継ぎが生まれるまでは控えるのが暗黙のマナーとされている。
貴族として最大の義務である次代を儲けたところで、お役御免とばかりに互いに想う相手との逢瀬を楽しむことが許されるのだ。
それが婚約時点で愛人がおり、さらにはその相手と結婚したいなどと、ウェルタス侯爵家はこの先大丈夫なのかとセルマは本気で心配していた。
たとえ侯爵だとしても能力がないのであれば、エミリオの後見人を依頼したところでさしたるメリットがない。
この婚約はいずれ白紙になることが決まっていて、如何なる理由があろうとも婚約を破棄された令嬢には瑕疵が付く。
エミリオのためにも有力な貴族に嫁ぐことを考えているセルマとしては、余計な傷がついて自らの商品価値を下げたくはない。
それを上回るメリットがなければこの話を受けないつもりでいたのだが、セルマの目の前で契約について冷静に話をしているベルナルトの様子から承知してもいいように思えた。
「契約は一年未満、そうだな、十か月ほどにしておこう。一年過ぎたら本当に結婚しなければならなくなるし、それはセルマ嬢も望まないのでしょう?」
「婚姻関係がなければエミリオの後見が見込めない方へ嫁ぎますわ」
セルマは暗に、婚姻せずともウェルタス侯爵家がエミリオの後見人になってくれるのかを確認し、ベルナルトはそれに大きく頷いた。
「わたしがあなたに掲示できるメリットはそれくらいしかありませんからね。それにウェルタスが後見するに足るだけの青年だと判断しました」
「エミリオのことを調べたのか」
ルシオは呆れたようにため息をもらしたものの、ベルナルトの行為を非難することはなかった。
ふたりとも侯爵家の人間だ。
侯爵家がぼんくらの後見などできないし、そんなことをすれば自身の家名にも傷がつきかねないということはきちんと理解している。
「領地経営についてはわたしもいくつかのアドバイスができます、姉の婚約者という立場ならそれをしてもおかしくはないでしょう?」
エミリオの成人は半年後に迫っている。
彼は誰の助けもなく領地を経営していかねばならず、すでに実務に携わっているベルナルトの助言はエミリオにとって何にも代えがたい物となるだろう。
それにウェルタスは国内でも有数の資産家だ、そんな彼がアドバイスと称してイグレシア領を乗っ取るようなこともあり得ない。
「わかりました、このお話、お受けしますわ」
セルマはそう言って右手を差し出した。
夜会という場であればそれは手を取って挨拶としての口づけをしろという意味になるのだが、今はビジネスの場。
ベルナルトはセルマの手を握り、契約成立の握手を交わした。
「ありがとう、きっとあなた方の力になりますよ」
にこやかに宣言するベルナルトとは対照的にルシオは終始、苦々しい顔をしていたのであった。
ベルナルトとの婚約を受けて、セルマはドラード家からベルナルトの住まいへと移ることになった。
「ニセモノの婚約にそこまでする必要はないだろう?」
反対するルシオにベルナルトは言う。
「婚約者が他家に滞在しているなどおかしな話だ。
それにルシオ、君にはまだ婚約者がいないだろう。君とセルマ嬢の仲を勘繰られるのは困るんだよ」
その発言に驚いたのはセルマだった。
「まぁ、そんな噂があったのですか?」
「ドラード侯爵は弟の結婚相手としてセルマ嬢を招いたんじゃないか、と言われていますよ」
「なんてこと。わたくし、全く気が付きませんでした。
そういうことでしたら、すぐにでもお暇したほうがよさそうですね。でもこちらでの契約期間はまだ残っていますから、しばらくは自宅からこちらへ通わせていただくことにしますわ」
セルマの提案にベルナルトは言葉を選びながら言った。
「申し訳ありませんが、ウェルタス侯爵の婚約者がテラスハウス住まいでは困るのです。
両親が住む本邸とは別にわたし個人の屋敷がありますから、そちらに移っていただきたい」
それを聞いたルシオは思わずというように大声を上げた。
「そこにはすでに愛人を住まわせてるじゃないか!」
ルシオの叫びにセルマもベルナルトも怪訝な顔をする。
「何か問題がございますか?」
セルマの言葉にベルナルトも頷いた。
「ルシオ、この婚約に愛情なんてないし、そもそもニセモノだ。わたしの愛が誰に向けられていようともセルマ嬢は気にしない」
「だからといってところかまわず睦み合うのは止めてくださいね。わたくしは使用人ではございませんので、目のやり場に困ります」
貴族の屋敷で働く使用人はそういう場面に遭遇したら、目を伏せて見て見ぬふりをするよう躾けられている。
セルマは使用人ではないし、それどころかベルナルトの婚約者として彼の屋敷に滞在するのだ。
これがニセモノの婚約であることを知っているのはセルマとベルナルト、それにセルマに話を持ち掛けたルシオの三人だけだ。
すでにベルナルトの屋敷には愛人が住んでいるのだから、彼の使用人たちは愛人の存在は当然承知している。しかし、セルマがニセモノの婚約者であることまでは知らない。
彼らにとっての本物の婚約者の目の前で、主人が愛人とよろしくやるなどさすがに非常識が過ぎるだろう。
「離れに住まいを用意してあります。読書家の父が書斎と称して建てたものですが、別棟としても機能するくらい設備は整っていますよ」
「まぁ、ありがとうございます」
それなら愛人の女性と顔を合わせることもなく生活ができそうだ。
ルシオは愛人を離れに置くべきだとわめいているが、使用人すらいない静かな環境はもうひとつの仕事に専念したいセルマにとって願ったりかなったりだ。
「では三日後にお迎えにあがります」
ベルナルトはそう言ってドラード家を去っていき、きっちり三日後、迎えの馬車をよこしたのであった。
「セルマがいなくなってしまうのは寂しいけれど、おめでたいことですものね」
ドラード侯爵夫人はそう言ってセルマの婚約を祝ってくれた。これがニセモノの婚約だと知ったら彼女はどんな顔をするだろう。
申し訳なさが募るセルマではあったが、それを明かすことなどできない。
「毎日、お手伝いに参ります」
セルマはそう約束してドラード家を出発し、ベルナルトの屋敷へと向かった。
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