3.持ち込まれた縁談
侯爵夫人の仕事は家政だけではない。その夜は、他家での集まりへの出席が予定されており、午後はその準備にあてられている。
「奥様、もう夜会の準備をされませんと間に合いませんわ。残りはわたくしのほうで処理をしておきます」
セルマの言葉に侯爵夫人はがっかりしている。
「もうそんな時間なのね、あまり片付かなかったわ」
がっかりそうな顔を見せながらも彼女は立ち上がり、仕事部屋から出て行った。
セルマはそれを見送ってから、やりかけの書類に取り掛かかるのであった。
すっかり日が暮れてしまっても、一日の処理は終わらなかった。
元の使用人が優秀だったことに加え、セルマ自身がまだドラード家のやり方に慣れていないことも手伝っているだろう。
基本的に夜会というのは日付を超えるころにようやくお開きとなる。
明日、侯爵夫人が起きだすのは昼頃と予測し、残りの処理は明日の午前中に片づけることにして仕事部屋を出た。
ちょうど侯爵夫妻が出かけるところだったようで、セルマの姿に気づいた夫人は彼女に声をかけた。
「セルマ、遅くまでご苦労様でした」
夜会のために着飾った夫人はとても美しく、片や、仕事着のセルマはひどく野暮ったくみえることだろう。
しかしこの道を選んだのは自分、彼女をうらやむなどお門違いもいいところだ。
「とてもお綺麗ですわ」
セルマの賛辞に彼女は微笑んだ。
「ありがとう。あなたも一緒なら良かったのに」
そう、侯爵夫人はセルマを集まりに誘ってくれたのだ。
セルマの実情が夫人の話し相手でないことを知っている人たちは多い、そして貴族の大半は婦人の労働を嫌っている。さらにドラード家は代替わりをしたばかりで今は大事な時だ。
そんな中でセルマという貴族令嬢とも職業婦人とも言えない半端者を供として連れ歩くなど、リスクにしかならない。
「機会がございましたら」
セルマの微笑みに侯爵夫人は残念そうな顔を見せ、そこにドラード侯爵と彼の弟であるルシオがやってきた。
「おやおや、我が妻はすっかりセルマ嬢に骨抜きにされたな」
「これは思わぬ伏兵だ、どうなさるのですか?兄上」
ふたりはそれが冗談であると示すように笑いながら話をしている。
当主の登場に、セルマは数歩離れて立っているメイドたちと同じ位置へと移動し、彼女らと同様、頭を下げた。
セルマは一応、伯爵令嬢ではあるが、今はドラード家の使用人の立場だ。彼らと肩を並べての会話など、分不相応である。
「さて、君の心を取り戻すにはどうしようか」
侯爵は夫人の手を取りその指先に口づけをしているが、当の夫人はころころと笑っている。
「どうぞご自分でお考えなさいませ」
すると侯爵はついっとセルマに視線を移し、
「彼女を懐柔するしかないかな」
と言い、またその視線を夫人へと戻した。
「もう出発の時間だよ」
甘く見つめあう夫婦にルシオは呆れ顔でそう言い、ふたりを馬車へと追いやった。
セルマは他のメイドたちと共に、走り去る二台の馬車を頭を下げて見送っていた為、車内のルシオがこちらを見ていることには気が付かなかった。
セルマの予想通り、侯爵夫人は昨日、深夜を回ったころにようやく帰宅したと仕事部屋にやってきた執事長が言った。
「ゆっくり休ませるようにと旦那様からのご命令がありました。今日の家政はセルマ様にお願いしたいのですがよろしいでしょうか」
「もちろんです、お任せください」
セルマは快く仕事を引き受けて今日の郵便物を確認し終えると、昨日、終わらせられなかった作業に取り掛かった。
サラサラと書類に必要事項を書き記していると、ドアがノックされた。
仕事部屋の扉は常に開け放たれていて、誰でも自由に出入りができるようにしてある。
それはセルマがきちんと仕事をしていることを示すと同時に、彼女の立場が一介の使用人であることを示す為でもあった。
扉が開いているのだからそのまま話しかけるのが自然な流れなのだが、わざわざ入室の許可を求めるノックをしたということは、使用人のセルマにではなく伯爵令嬢のそれに用があるのだろう。
セルマがさっと顔を上げると入口に立っていたのはルシオだった。
ドラード侯爵の弟であるルシオは普段、王宮近くのタウンハウスに住んでいる。数年前、近衛に任命されたのを機により王宮に近い屋敷へと移ったのだった。
しかし、騎士ではなく令息として夜会に出席するときはその身支度をこのドラード本邸でしており、彼は昨日からこの屋敷に滞在している。
セルマがドラード邸に来てからも何回かそういうことはあり、顔を合わせれば普通に会話をするくらいの仲ではある。
しかし、わざわざ彼がセルマの仕事部屋に来たことはなく、そのうえ、なんだか不機嫌そうにしている。
いつも笑顔を絶やさない彼だけに、これではかえって心配になるというものだ。
「ルシオ様、なにか御用ですか?」
セルマの声かけにルシオは片手をあげて、やぁ、と返事をし、そのまま部屋にあるソファに腰をかける。
彼がそこに座ったということはやはりなにか話があるのだろう。
セルマは廊下を通りかかったメイドに急いでお茶を持ってくるように伝え、仕事部屋の扉を半分ほど閉めた。
貴族令嬢としての面会ならばこれが正解だ。
使用人に聞かれたくない内容の場合もある、かといって婚約をしていない男女が密室に二人きりはマナー違反。だから扉を半分、開けてある。
「なにか御用でしょうか?」
セルマの再度の問いかけにルシオは渋い顔をしながら切り出した。
「実は貴女を紹介してほしいという男性がいるんだけど、どうかな」
普通、紹介といったら男女のそれであるが、セルマの場合は仕事のことが多い。
しかし、今はこのドラード邸の仕事を始めたばかりで他を請け負うことはできない。
それともセルマのもうひとつの職のことだろうか。しかしそのことを知る人物はほとんどおらず、彼が知っているとは思えない。
「それはお仕事でしょうか」
言葉を選びつつ尋ねると彼は、
「仕事と言えなくもないが、そうでないとも言える」
と言う。
奥歯に物が挟まったような表現にセルマは遠慮なく訝しげな顔をした。
「要するに?」
「平たく言えば婚約の申し出だ」
「婚約、ですか?」
職業婦人をしている訳ありの自分に婚約を申し込むなど、まともな縁談ではないと簡単に予測ができる。
その予測を裏付けるかのようにルシオは面白くなさそうな顔で詳細を話し始めた。
「同じ侯爵位のウェルタス家の話なのだが、もうそろそろ侯爵が引退をされたいそうだ。
それで令息が正式に侯爵になる前に、彼の婚約者を決めておいたほうがいいだろうという話になったんだ」
ルシオの話はごく普通の内容のようだ、しかし。
「失礼ですが、わたくしでなければならない理由をお聞かせ頂けないでしょうか」
セルマの発言にルシオは目を泳がせて、それは、だの、つまり、などと言っている。
今日のセルマは忙しい。昨日やり残した分と今日入ってきた仕事の両方をひとりで片づけなければならないのだ。
要領を得ない話に付き合っている暇はなく、セルマはけん制の意味も込めて遠慮なく怪訝な顔をしてみせた。
それが功を奏したのかルシオは渋々、重い口を開いた。
「ウェルタス侯爵令息は平民の女性に入れ込んでいてね、その女性と結婚すると言い出してるんだ」
それを聞いてセルマはため息をつかずにはいられなかった。
侯爵位というのは貴族の中でも高位に位置しており、その夫人に平民の女性を据えるなど、絶対にできないことだ。
どうしてもそれを望むのであれば、その娘にマナーや教養をきっちりと身につけさせてから、然るべき貴族の養子とし、その家の娘として嫁いできてもらう。
当然ではあるが、教育にも養子にするにも相当な金がかかる。
それらを支払っても尚、侯爵夫人に相応しい人物であれば、現侯爵は息子のために喜んで資金を提供するだろう。
しかしルシオの話から察するに、そこまでの価値がある娘でないことは明白だ。
それならば世迷言をいう嫡男などさっさと切り捨てて、別の人物に挿げ替えてしまえばいいのだが、確かウェルタスには直系男児がひとりしかいなかったはずだ。
そうなると彼の我がままを許すしか方法はないのだが、ルシオの話ではウェルタス侯爵令息は婚約者を探しているという。
「このお話は侯爵様も承知しておられるのでしょうか」
「まさか、言えるわけがない。本当に結婚するわけじゃないんだから」
つまり愛人のいる男の婚約者のふりをしろというわけか。なるほどこれはまともな縁談ではなく、訳ありのセルマに紹介するにはぴったりの案件のようだ。
現侯爵を騙すなど大罪を問われても仕方がない。しかしうまくやり通したら、次期ウェルタス侯爵に大きな貸しを作れるだろう。
もちろん望む対価はエミリオの後見人だ。
黙って考え込むセルマにルシオは明るく言った。
「やっぱり無理だよね、この話は僕から断っておくよ。時間を取らせてすまなかった」
「いえ、わたくしは別に」
彼はセルマの返事を待つこともなく部屋から出て行ってしまい、別に引き受けても構わない、という台詞は言えずに終わった。
しかしこれでよかったのかもしれない。
セルマはそう思うことにし、中断していた仕事を再開させた。
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