2.職業婦人のセルマ
それから程なくして、セルマは叔母と共にとある貴族の屋敷を訪問した。
産後の肥立ちが悪く、長く寝込んでいる夫人に代わって、セルマが家政を担うことになったのだ。
「セルマ・イグレシアでございます。精一杯務めさせていただきます」
結論から言うと、セルマの初仕事は大成功だった。
普通なら引継ぎが必要なところも、家政経験のあるセルマは誰の助けもなく、的確に処理をすることができた。
だからといって、ひとりで勝手に仕事を捌いてしまうのではない。
その家の執事長や家政婦長と分担し、自分も使用人の一員であることをアピールしたこともよかった。
セルマのことを夫の愛人ではないかと警戒していた夫人もその態度を認めて信頼するようになり、家政という大きな負担から解放された彼女は療養に専念することができた。
そのおかげでみるみるうちに回復し、夫である当主は妻が元気になっていく姿に涙をこぼしたのであった。
「セルマ嬢には本当に感謝している」
夫の言葉に続いて妻も言う。
「セルマさんにはいつまでもいてもらいたいけど、困っている親友を放ってはおけないものね」
次の滞在先は夫人の友人の屋敷だ。
友人の母は腰を悪くして動けなくなってしまったのだが、それは、彼女の息子が当主となるお披露目のパーティ前という最悪のタイミングであった。
当日の招待客のもてなしや使用人への指示は座っていてできるものではない。各所を見て回り、その場で素早く判断をしなければならない。
もちろん準備においても、女主人がみずから屋敷や庭園を見回り、手入れの行き届いていないところがないか確認をする。
こうした監視の目があるからこそ、使用人たちも手を抜かずに働いてくれるのだ。
それになによりも、新当主のお披露目パーティは今後を占う重要な行事であり失敗は許されない。
贅を尽くしたパーティを卒なくこなすことで、その家の繁栄と安泰とを内外に示すのだ。
ここまで大事なパーティを取り仕切ったことはないが、夜会のホストならイグレシア邸で住んでいた頃は何度も務めている。
そのことを先方に伝えた上で、それでもいいから来てほしいと頼まれてのことだった。
いずれエミリオにイグレシア伯爵を名乗らせる日が来る。その予行練習をさせてもらえる場だと思えば、こちらがお金を払ってでも受けたい仕事でもあり、セルマとしてもはりきっていた。
「お願いします、きっと成功させてね」
「お任せください、ご満足頂ける結果にしてみせますわ」
セルマは笑顔でそう言い、次の屋敷へと向かったのであった。
そんな風に口コミで縁はつながり、セルマは今、ドラード侯爵家に滞在しているのであった。
仕事を通して広がった人脈で、先ほどの夫人のようにセルマ個人を集まりに招待してくれる貴族も増えてきた。
そういう人たちは皆、イグレシア家の騒動は知っていて、いつかエミリオがイグレシア伯爵を名乗る際の後見人に立候補してくれている。
実際に誰に依頼するかはともかく、味方は多いほうがいい。
セルマは見知った顔に挨拶をしつつ、会場を見て回った。そして時折、その様子をドラード侯爵夫人に報告し、ホストとしての立ち回りを彼女に教えていく。
やがて最後の客が帰っていき、茶会はお開きとなった。
「セルマ、お疲れさまでした。茶会は大成功よ」
笑顔を見せる侯爵夫人にセルマは首を左右に振った。
「いいえ、奥様。まだ収支会計を済ませていませんわ、そこまでが茶会です」
セルマの冗談めいた言い回しに夫人は声を上げて笑い、つられてセルマも笑ったのであった。
セルマがこの生活を始めて四年という月日が流れ、エミリオが成人年齢である十五歳を迎えるのは半年後となった。
エミリオは今、学園に通っているが、飛び級をした為、今年度で卒業となる。
彼の成人と卒業が視野に見えてきたことで、セルマは胸をなでおろしつつあった。
というのも、彼は事あるごとに自分も働きたいと言ってセルマを困らせてきたのだ。
「姉上を働かせて、僕はのうのうと学生をやってるなんて。自分で自分が許せません」
そう言って苦悩するエミリオをセルマは優しく抱きしめた。
「お父様が信頼していた人たちは皆、叔父様が解雇してしまった。領地を取り戻しても懇切丁寧に教えてくれる先生はエミリオにはいないのよ?
あなたが勉強して対処できるようになることはいずれわたしの、そしてイグレシア領の為になるのよ」
だから頑張って、とセルマは彼を励ましてきたのだった。
週末、タウンハウスに帰宅したセルマをエミリオが出迎えた。
「お帰りなさい、姉上」
「ただいま、エミリオ」
ふたりは再会のハグをしてからサロンへと移動した。
「今週は確か茶会がありましたね、どうでしたか?」
「問題なく開催できたわ、次はもう侯爵夫人おひとりでも大丈夫そうね」
「ではもうすぐお役御免でしょうか」
「そうね、次の滞在先を探さなくては」
セルマの言葉にエミリオは苦い顔をした。
「僕の卒業は半年後です、姉上はそろそろお仕事を辞められてもいい頃だと思います」
「そうかもしれないわね」
エミリオの言葉にセルマはあいまいな笑みで返事をした。
近頃のエミリオは、自分も働きたいと言わなくなった代わりに、セルマに仕事を辞めるよう勧めてくる。
彼が卒業と同時に伯爵を名乗るのであれば、その準備に取り掛かっても良い頃ではあるのだが、セルマとしてはもうすこし粘りたかった。
エミリオには、叔父が伯爵代理の座を諦めなければならないほどの決定的な後ろ盾が必要だ。
セルマがこの仕事を始めた最大の理由はそこにあった。
貴族社会ほどコネクションが大きくかかわってくる世界はないと思う。
いまだに政略結婚が横行しているのはそれ故だ。血縁を結び、新たなコネクションを得ることで互いに発展していく。
叔母はなにも言わなかったがセルマの考えを見透かしていたからこそ、彼女の滞在先を自分で見つけてきたのだろう。
セルマだけなら大きな商家に入り込むことがせいぜいだったと思う。
大商家ならば貴族とつながりがあるが、それでも最初から貴族の屋敷で使ってもらうほうがより早い成果が得られる。
叔母は侯爵夫人という立場を最大限に利用して、セルマの最初の滞在先を見つけてくれたのだ。
それ以降の滞在先は口コミでつながって現在に至るものの、いまだ、強力なコネクションには至っていない。
今、滞在しているドラード侯爵家はセルマにとっての有力候補のひとつだが侯爵家はどうだろうか。
イグレシア伯爵家、もっと言うならセルマあるいはエミリオを支援したいと思わせるほどのつながりは、少なくともドラード当主とはない。
今のセルマはドラード侯爵夫人の使用人のひとりでしかなく、仮に夫人が夫におねだりをしたとしても、後見を務めるまでには至らないだろう。
だからと言ってセルマが積極的にドラード侯爵自身にアピールする気はない。
あからさまなすり寄りを嫌う貴族は多いし、セルマはあくまでも夫人の話し相手としてドラード家に滞在しているだけだ。
その立場を超えて当主に接触などすれば、セルマが侯爵の愛人になりたいのだと勘違いされる可能性もある。
そんな噂が立ったらセルマはドラード邸を追い出されてしまい、エミリオの後見を願い出るどころではなくなってしまう。
今は目の前の仕事を完璧にこなし、新たな滞在先を紹介してもらうしかないのだ。
セルマは逸る気持ちを抑えてエミリオに言った。
「お話を頂いたら引き受けるつもりよ」
セルマの宣言にエミリオは納得がいかないという顔をしてみせたが、反論したところで彼女が考えを変えることはないだろうし、なにより、次の滞在先が侯爵夫人からの依頼だとしたら断ることは無礼になる。
そういう諸々を飲み込んでエミリオはため息交じりに了承を伝えた。
「姉上がそうされたいとおっしゃるのでしたら僕は反対しません」
「エミリオならきっとそう言ってくれると思っていたわ」
セルマの笑みにエミリオは眉をひそめた。
「でも本当は反対したいんですからね、どうかそれを忘れないで」
どこか甘えるような口調で懇願を口にしたエミリオの手にセルマは自身の両手を添えて優しく握った。
「わかってるわ、エミリオ」
「いいえ、貴女はなにもわかっていらっしゃらない」
エミリオは早口でそう言うと、つながれたセルマの手をぐっと引き寄せて抱きしめ、
「僕は本当に心配です」
と言った。
いつになく甘えたがりなエミリオに戸惑いつつも、学園でなにかつらいことがあったのだろうと考えたセルマは彼の背中をさすってやる。
「大丈夫よ。わたしたち、きっとあの屋敷に帰れるわ」
大きな子犬のようにおとなしくセルマに抱きついていたエミリオはしばらくしてその身を離し、彼女をまっすぐに見つめて言った。
「ほら、やっぱり。貴女はなにもわかっていないんだ」
「そんなことないわ、ちゃんとわかってるわよ」
今度はセルマから彼に抱きついた。
頭の上でエミリオのため息が聞こえたが、結局、彼はセルマを受け入れ、彼女がそうしていたように彼女の背中をそっと撫でてくれた。
「わたしたち、きっとあの屋敷に帰るのよ」
セルマは再度そう言って、そっと目を閉じ、思い出の中の屋敷を思い描いたのであった。
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