1.職業婦人になるまで
宜しくお願いします
その日、ドラード侯爵邸では月に一度の茶会が開かれていた。
大勢の招待客の中、伯爵令嬢のセルマは優雅な物腰でありながら的確に使用人への指示を出す。
「あちらのテーブルに新しい茶菓子をお出ししてください。それに席が足りなくなりそうです、必要になったらすぐにでも対応できるように準備を」
「かしこまりました」
数人のメイドと男性の使用人はそう言って小さくうなずき、やはりこちらも優雅な足取りを崩さずに会場から出ていった。
それを見届けたセルマに招待客のひとりが声をかけてくる。
「セルマ様、今はこちらにご滞在でしたのね。お会いできて嬉しいわ」
「まぁ、お久しぶりでございます。夫人のお手伝いのために滞在をお許しいただいております」
「そうでしたの。近いうちに我が家でも集まりを予定していますから、是非、来て頂きたいわ」
彼女もドラード家と同じく侯爵位を持つ家の夫人だ。
目上の夫人からのお誘いならば、一も二もなく承諾すべき場面であるが、厳密に言えば今のセルマの立場は貴族令嬢ではなく、勝手に外出することは許されていない。
「ありがとうございます」
セルマは是とも否とも言わず、柔らかい微笑みで礼を述べるに留めた。察した夫人はセルマの手を取るとぎゅっと握りしめ、
「ドラード侯爵にはわたくしからもお願いしておくから安心してね」
と言い、片目をつぶってみせると手を振って離れていった。
セルマの雇い主である侯爵に話をしに行ったのだろう。
今日の集まりはドラード侯爵夫人と特に親しい間柄の人物しか招待していない。
つまり彼女はドラード夫人の親友であり、愛しい妻の友人のちょっとした願い事ならば、侯爵が拒否をすることなどあり得ないのだ。
セルマとしてもあの夫人とは気が合う為、招待は素直に嬉しい。
抱えている仕事を頭の中に思い描き、招待に応じるだけの時間が捻出できるか、素早く計算を始めたのであった。
セルマはひと月ほど前から、ドラード侯爵邸に『滞在』している。表向きの理由としては夫人の話し相手として、実際には家政にまつわる仕事の手伝いをしている。
ドラード侯爵は半年ほど前に爵位を継承した。その後すぐに、婚約者だった令嬢と結婚しこの本邸に住まいを移した。
主人が入れ替わった場合、古くからの使用人がサポートをしながら徐々に仕事を移行していくのが普通なのだが、夫人をサポートするはずの家政婦長が暇を取ることになってしまった。
というのも、彼女の娘の出産と時期が重なってしまったのだ。
娘は難病を抱えており、無事に産むことができたとしてもそのあとの育児に不安があった。そこで娘の母である家政婦長が一緒に住むことになったのだ。
新しい命の誕生は大変に喜ばしいことではあるのだが、侯爵家の家政は誰が見るのかという問題になり、セルマに話が回ってきたのだった。
セルマはイグレシア伯爵家の長女だ。そのイグレシア伯爵の座は、今、空白である。
セルマが十五歳のとき、伯爵が流行り病で亡くなり、元々病弱だった母もそのあとを追うように亡くなってしまった。
この国の法律では成人している直系男子のみがその爵位を継承することができる。
適切な人物がいないときは爵位を返上するしかないのだが、幸いにもイグレシア家にはセルマの弟であるエミリオが残された。
しかし彼はまだ十歳で伯爵を継ぐことなど到底できない。
この場合、彼が成人するまでの間、名代を立て、その者が爵位に付随するすべての権利を持つことが許されている。もちろん名代も、男性の成人者に限る。
現在、名代を名乗っているのは故イグレシア伯爵の弟、エミリオにとっての叔父である。
残念ながら彼はあまり出来がよくなかった。
先代伯爵はいくつかの爵位を持っていたが、そのいずれも叔父に継承されることはなく、爵位を持たない以上、彼の公的な身分は平民であった。
そのことを根に持っていた叔父はイグレシア伯爵夫妻が亡くなるとすぐ、イグレシア邸に押しかけてきたのだ。
葬儀が終わって間もないというのに、彼は声高に自らが伯爵名代に最も相応しいと言い出した。
「叔父様、そのお話はせめて喪が明けてからにしましょう」
そう提案するセルマに彼は底意地の悪い目を向けていった。
「ぼやぼやしている暇はないだろう、領主不在の今、領民は誰が守るのだ」
「お父様はすぐに傾くような体制になどしておりませんわ」
「小娘のお前になにがわかる!」
確かにセルマは執務にかかわってはいなかった、だとしてもイグレシア家の家令や管財人はこのままイグレシアに仕えることを約束してくれている。
彼らがいるのなら喪中というわずかな間に傾くようなイグレシア領ではないはずだ。
「今日のところはお引き取りください、話し合いの場は後日改めて設けます」
「そうはいかない。もう住まいは引き払ってきた、俺たちは今日からここに住む」
言うが早いか彼は自らの荷物を、連れてきたポーターに命じて運び込ませてしまった。
それをきっかけに彼の後ろに隠れていた夫人と子供たちも屋敷の中に入ってきて勝手に部屋を物色し始める。
「お母さま、あたし、このお部屋がいいわ!」
「あら、かわいらしいわね。あなたにぴったりよ」
その声に慌てて駆け付けたセルマが見たのは、セルマの私室のベッドに飛び乗って喜んでいる娘と、宝石入れの中身を漁っている夫人であった。
「やめてください、ここはわたしの部屋です」
セルマの抗議を受けた夫人はわざとらしくゆっくりとした動作で顔を上げるとニンマリといやらしい笑みを浮かべた。
「爵位を継げるのは直系男子、つまりわたしの夫でもいいはずよね?彼は間違いなく伯爵の弟ですもの」
これは後から調べて分かったことなのだが、叔父の継承権はとっくに剥奪されていた。
しかしそのときのセルマがそれを知るはずもなく、彼女がひるんだその隙に叔父家族はイグレシア邸を乗っ取ってしまったのだ。
「イグレシア伯爵名代の俺に土下座して頼むなら、この屋敷に使用人としておいてやらんこともないぞ」
そう宣言した叔父が見せた下卑た笑いに見送られ、セルマとエミリオは屋敷を後にしたのであった。
屋敷を追い出されたセルマはひとまず、亡くなった母の妹を頼って彼女の住まいへと向かった。
突然、現れた姪と甥から事情を聞かされた彼女は仰天し、すぐさま叔父に抗議をすると言ってくれた。
しかしセルマはその申し出を断ったのだ。
叔母は侯爵の後妻であった。
彼女と夫、そして血のつながらない息子は本当の家族のように仲が良かったが、叔母が後妻の座に収まったことをよく思わない一定数のひとたちは彼女の醜聞を探していた。
今回の騒動はイグレシア家の問題であり他家が口を出していいものではない。
それを押して抗議しようものなら、侯爵家を思い通りにできなかった後妻が亡くなった実姉の婚家を支配しようとしている、などとあらぬ噂を立てられかねない。
「叔母様。次の住まいが見つかるまでの間、この屋敷に住まわせてくださるだけで充分ですわ」
セルマはそう言って微笑みを見せ、彼女の叔母は姪にそんな顔をさせることしかできない自分を悔しく思ったのであった。
その後、生前のイグレシア伯爵が持っていた伝手をたどって、セルマはタウンハウスとして貸し出されていたとある集合住宅の一部屋を借りることができ、エミリオとふたり、そこでの生活をスタートさせたのであった。
両親がたくさんの遺産を残してくれたとは言え、いつまでもそれを取り崩して生活するわけにはいかない。
それにエミリオにはしっかりとした教育を受けさせたい、彼はいずれイグレシア伯爵を名乗るのだ、その時に困らないだけの知識と教養は必要だろう。
かといってセルマが完全な職業婦人になることはできない。将来のイグレシア伯爵であるエミリオの姉が職業婦人では醜聞になってしまう。
「いろいろ考えたのですけれど、家政のお手伝いをするハウスキーパーのようなお役目なら、わたくしにもできると思うのです」
セルマはふたりの様子を見にテラスハウスにやってきた叔母に、自らお茶を出しながらそう言った。
「ハウスキーパーですって?冗談じゃありません。お姉様もお義兄様も絶対にお許しになりませんよ」
叔母が目を三角にして怒ることはセルマの想定済みだった。
しかし職業婦人にもなれず、かといって他に収入の当てもないセルマにはそれくらいしか道がなかったのだ。
母が病弱だったおかげと言ってはなんだが、イグレシア邸の家政はそのほとんどをセルマが見ていた。
今日日、家政まで任せられる女性の使用人は少ない。現にイグレシア家でも適切な使用人が見つからず、結局、セルマが見ることになったのだから。
とはいえ、その経験がこんなところで役に立つとは人生はなにが起こるかわからない。
かつてのイグレシア邸と同じように困っている家はたくさんあるだろうし、貴族の身元を持つセルマになら依頼してくれる家もあるかもしれない。
「表向きは夫人の話し相手として滞在を許可して頂くの。それなら職業婦人ではなく貴族令嬢としての扱いになりますし、夫人が話し相手を欲しがるのは珍しいことではありませんもの」
セルマの言葉に叔母は渋い顔をしている。
しかし侯爵の後妻に選ばれたほどの女性だ。賢くないわけがなく、セルマの考えている諸々も彼女には手に取るようにわかるのだろう。
「わかりました、いいでしょう。
ただし滞在先はわたくしが探してきます、お前を不確かな家に放り込むなどできませんからね」
叔母はそう言って侯爵夫人らしからぬ勢いで、目の前に出された紅茶をぐいっと一気に飲み干した。
それは彼女の怒りや口惜しさ、やるせなさ、そのすべてを表しているかのようで、セルマはこの心優しい叔母に感謝を述べたのであった。
「ありがとうございます、叔母様。良い知らせをお待ちしておりますわ」
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