第7話「兄」
記憶の方は相変わらず戻らない。そもそも何かのきっかけで失ったというよりも時間が経ちすぎて忘れているので、何かのきっかけでふと戻ってくるというのは難しい気がする。
そんなことを知らない他の人たちは何かのきっかけで思い出してくれないかと色々と策を労している。好きだった食べ物や場所を始めとして、幼い頃に手放さなかったおもちゃや書いた絵等も見せられた。なんとなく懐かしいような気はするが、記憶につながることはなかった。
そんな使用人の足掻きを横目に、昼間は毎日練武場の方へ赴いて体を動かしていた。
毎日のようにダリルに手合わせをお願いしていたが、剣では全く届きそうにない。
せめて鎌を使えればと何度も思ったが、そもそも鎌があっても今の筋力では振るえないだろうという事に気づいてからは真面目に剣を習っている。
ダリルの方は記憶を掘り起こそうなどとはしてこないのも、心地の良い原因だろう。
そんな日々を過ごして4日程たったある日の事。いつも通り練武場で体を動かして、そろそろ夕食なので部屋でゆっくりしていて下さいと言われて寛いでいた所だった。
突然落ち着きの感じられないノックがされる。本来であれば部屋主から許可があってから開けるのがマナーのはずだが、そのノックの主はこちらの返事も待たずに扉を開け放った。
「フィオラ~~!! 私のお姫様! 目が覚めたと聞いて王都から急いで戻ってきたよ~~!!」
部屋に入ってきたのは目覚めてから初めて見る若い男性だった。しかし、誰なのかはすぐにわかった。
肩にかかるくらいに伸びた青みがかった黒髪に、灰色の瞳。そしてこの馴れ馴れしさ。兄のケインだろう。しかし、自分の妹を私のお姫様なんて呼ぶのはどういうことだろうか。
ケインは私を抱きしめながら今まで出会った誰よりも涙を流している。美形と言っても過言でない顔も今では涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。
「お兄様、そんなに泣かないでください。ご心配をおかけしました。もう大丈夫ですよ」
いつまでも泣き止まない兄を宥めるために声をかけた。
それを聞いて顔を上げるケインだったが、一瞬固まったかと思ったら更に涙を流し始めた。
「記憶を失っているというのは本当だったんだね。そんな他人行儀な呼び方じゃなくてお兄ちゃんと呼んでくれていたのに!」
「えぇ……」
以前はお兄ちゃんと呼んでいたらしい。どうやら記憶を失っていることは伝えられていたようだが、呼び方だけで確信を持たれた。
「あぁ、フィオラ。それでもお前は私のお姫様だ。大丈夫、今後は何があってもお兄ちゃんが守ってあげるからね!」
「それは大変頼もしいですね。頼もしいので、そろそろ離れていただけますか。服がお兄様……お兄ちゃんの分泌物で汚れるので」
「冷たいよフィオラ! 感動の再会なのに冷たくあしらわれるお兄ちゃんの気持ちになってみてくれ! 可哀そうだろう? だからもうちょっとだけ抱きしめさせてくれよ!」
「はぁ……」
もうちょっとだけと言いながらいつまでも離れる雰囲気のないケイン。ずっと目覚めて良かっただのずっと会いたかっただのと泣き続ける。
確かに感動の再会かもしれないが、こちらにしてみれば全く知らない人に抱き着かれてずっと泣かれているのだ。薄情と言われても気持ちの悪いものはしょうがない。
「感動の再会を邪魔するのは心苦しいけど、そろそろ離れなさいケイン。フィオラの顔が引きつってるわよ」
泣き続けるケインに声をかけたのは、母のダイアナだった。わかるけどね、と言いながらゆっくりとケインをはがしてくれる。
なんとかダイアナが宥めてようやく涙の引っ込んだケインは、そろそろ夕食だから続きはその時にしなさいと言われて部屋を追い出された。
「フィオラ、あなたの感覚としては多分、知らない人なのでしょうね。でも、間違いなくあなたの兄だから、そこは疑わないであげてちょうだい。あなたが事故にあってからずっと、あなたを目覚めさせる為に色々調べたり、女神様にお祈りを続けたりしていたのよ」
「そう、ですね。すこし薄情だったかもしれません。それにしても、ずっと女神様にお祈りですか……」
「最初の数日なんてろくにご飯も食べずにずっと付き添っていて、こっちも見ていられないくらいだったもの。それくらい心配してたのよ」
大鎌の男に憑依して、女神の加護を受けた勇者に殺された事で私は目が覚めたのだ。家族にとっては女神様がようやく祈りを聞いてくれたのかもと思うだろう。しかし、私としてみれば100年も経ってもはや記憶なんてなくなっているのだ。遅すぎると文句も言いたくなる。
「とりあえず、すぐ夕食にするから一度着替えてらっしゃい。あの子の涙で濡れてるわよ」
顔を埋められていた肩の辺りがシミのようになっている。どれだけ泣いたのだろうか……。
着替えて夕食の時間。今までは体調の事も考えてということで自室で取っていたのだが、体調の経過もよく、ケインも帰ってきたということでダイニングで取ることになった。
「さっきはごめんね。目覚めたという連絡を受けた時にたくさん泣いて、道中でも泣いて、絶対に会ったときに泣かないって思ってたのに、実際に顔を見たら涙が……うっ」
「大丈夫ですよ。もう何度泣かれたか覚えていられないくらい泣かれているので、慣れました」
相手にとっては感動の再会でも、私にしてみれば感動も何もない。むしろ泣かれるたびに罪悪感に包まれるのでいい加減やめてほしい。無理な話だとは思うが。
「それじゃあ、改めて自己紹介から始めよう。妹に自己紹介というのもおかしな話だけど、大切な事だろう?
名前はケイン・ルーデン。17歳の優秀な男児だ。我がルーデン家の次期当主でもある。魔法学院の3年で、成績も優秀。魔法学院と呼ばれてはいるが、時代に合わせて緩やかに変化していて、今では魔法だけでなく普通に騎士要項や、貴族社会の勉強もできるよ。まぁ、変化に名前が追いついていないだけだね。魔法も使えるが、得意なのは剣の方だ。
思い出してくれたかな、私のお姫様?」
「……はあ。いえ、自己紹介ありがとうございます。お兄ちゃん」
簡単な自己紹介だけなのに雰囲気に圧倒されてしまった。こんな軽薄そうなのに成績優秀というのは何かの幻想なのではないか?
今のところ優秀だと思えるのは顔の造形くらいだ。
「積もる話もあるでしょうけど、早く夕食を食べましょう。ケインも、いい加減座りなさい。色々あるんだから」
「そう、ですね。話したい事は山ほどあるんだ! フィオラの記憶の頼りにもなるかもしれないしね! ご飯の後もたくさんお話しよう! 今夜は寝かせないよ」
ウィンクをしてくるケインのまなざしを受けて背筋に悪寒が走る。結構な美形なので、普通の女性が見れば惚れてもおかしくないような程の笑顔だ。うざい。