王女なだけの私じゃないの
教会前の広場には、一段高いところに王のための桟敷席が急遽しつらえられて、そこではアズマイラ男爵夫人があくびをかみ殺していた。
教会の時計は九時少し前をさしている。
普段彼女はこんな時間に起きて活動することはないため、眠くてたまらないのだ。
据えられた火刑台の上には既にガーヤが拘束されて、足元には柴が積み上げられている。
ガーヤはというとその丸顔をまっすぐ前へ向けて、憔悴した様子もない。
自分がしていることが正しいと知り、心から納得しているものの顔だった。
「なんだってまあ、急な処刑だねえ」
「あの人はなにをしたんだい?」
見物人が幾重にも集まってささやきあっている。
一体今日の処刑がどういう理由で行われるのかわかっていない者も大勢いた。
「王女殿下がさらわれたんだそうだ」
「その責任を取らされるってことかねえ」
「むごいねえ」
だが大きな声ではそんなことは言えない。警備兵の耳にでも入ったら今度はこちらに災厄が降りかかる。
教会の時計の針はゆっくり動き、もうじき長い針が真上をさそうとしていた。
処刑人が所定の位置に立ち、いつでも火をつけられるように構えた、その時。
「その処刑、異議あり!」
颯爽とした騎馬姿で現れて、よく通る声を出したのはヘイゼルだった。
「姫さま……」
火刑台の上のガーヤがうわごとのようにつぶやく。
よく見ようと前のめりになった拍子に、縛られている台が小さくきしんだ。
──冗談じゃないわガーヤをそんなところに上げるなんて。
──ガーヤ心配いらないわすぐ助けるから!
ヘイゼルは言いたい言葉をぐっとおさえた。
予想していた光景とはいえ、いざそれを目にしてしまうと、頭にかっと血がのぼる。
だが、今日これから言うべきことは他にある。
「ちょっと待ってよなによあれ……」
かたや、アズマイラ男爵夫人は思わず桟敷席から立ち上がり、手すりから上体を乗り出した。
今日のヘイゼルは冬晴れの澄んだ朝によく映える淡い青のドレスを着て、その上から厚手の毛皮のマントを翻している。
赤みがかったブロンドは凝った形に結い上げられ、高貴な身分の女性だと一目でわかるいでたちだ。
だがアズマイラ男爵夫人が目を見張ったのはそこではなかった。
目が釘付けになったのは、ドレスよりもその装身具だ。
厚みのある毛皮のマントには、毛皮の豊かさに負けない大粒の宝石ボタンがついているのがわかる。その輝きが本物であるのも、目の肥えた彼女だからこそわかることだった。耳飾りの石もそうだ。この距離でこの輝きということは、相当上質の石のはずだ。
しかしなにより人目を惹くのは、彼女の髪に固定された宝冠だった。
「なんてこと……そんな、嘘でしょう」
先ほどまで感じていた眠気など一瞬で吹き飛んでしまった。
普通、宝石というものは、細かい粒をいくつも集めてひとつの装身具を作るものだ。
だがヘイゼルがかぶっているあの宝冠は、これまで見たどんなものとも違っていた。
あろうことか、大きな宝石のひと塊を冠の形に彫り上げて、それをさらに引き立たせるように銀の縁飾りで覆っているのだ。
発想がまったく逆のそれを見て、アズマイラ男爵夫人は腹の底からぐつぐつと煮えるような感情がこみあげてきた。
(──あれが欲しい)
彼女は知らず手すりをきつく握りしめた。
あれが、欲しい。
あの独特な輝きはモルフォであり、もちろん自分もその宝石は持っている。己の紫色の瞳に似合うで中で最も高価な石だからだ。
だが、あそこまでの大きさ、そしてあれほどの加工を施したものは持っていない。
あれを身につけるのはこの国で最も権力を持つ女の自分であるべきだ。
自分ですら見たことがないほど見事な宝石を他の女が身につけるなど、見るのもいやなら認めることすらいやだった。
嫉妬と羨望と敗北感で頭に血がのぼり、アズマイラ男爵夫人はまばたきもせずにヘイゼルをにらみつけた。
◇◇◇
時は少し遡り、ヘイゼルたちが砦を出発する間際のことだ。
アスランはというと、砦の女たちに囲まれて口うるさくあれやこれやと言われていた。
「ねえ王都に入るときはこの子をきれいにしてあげてよね」
「砂漠の衣装じゃなくて、オーランガワードの衣装でよ」
「防寒もきっちりとね! 女っていうのは寒いと顔色がくすむものなの!」
わかった、わかりました。
アスランは気圧されて敬語になったけれど女たちは止まらない。
「最先端じゃなくてもいいけど、この子に似合う品のいいやつをよ! ああもうあたしが条件書くから、これこのまんま服屋に見せて!」
「化粧よりも髪に時間をかけさせてね。女っぷりは髪で変わるの」
「そうよ、この子が砂漠で不便な思いをしてるって、あの国の連中に思われてたまるもんですか」
女たちは同行が決まったアデラにも細かく指示を出していた。
「いい、この子の髪は最低三十分はかけないとダメよ。髪質が柔らかいんだから」
「それと、この子はモルフォの価値がまだわかってないからね。これはあんたが管理するのよ」
そう言って女たちは、冠だの飾りボタンだの耳飾りだの、その他必要と思われる装身具を無造作に麻袋に突っ込んでゆく。
「あの、重いから、そんなにはいい……」
飾り物の総量におそれをなしたヘイゼルは小さな声でそう言ったが、「だめ!!」と女たちに唱和されて大人しくなった。
◇◇◇
さて、教会前の広場では、砂漠の女たちの意地と威信をかけて飾り立てられたヘイゼルが、桟敷席のアズマイラ男爵夫人と無言で火花を散らしていた。
ヘイゼルとしては彼女に別段恨みはないが、ガーヤの命がかかっているため今日は負けられない。
ヘイゼルはひとつ深呼吸をすると一息に言った。
「わたくしはヘイゼル・ファナティック・アクラム。この国の第五王女であり、現在は砂漠の砦で暮らすものである。ここにいる兵士の中にはわたくしの顔を見知っているものもいるでしょう」
ヘイゼルはずっとファゴットの森に隔離されるようにして育ってきたが、先日王宮に呼び戻された時、二度の夜会に出席した。
その時にヘイゼルを直接見た兵士も今日この場にいたらしく、あたりにはどよめきが生まれる。
「本物だ……」
「王女殿下だ」
「この場ではっきり宣言します。わたくしはハムザの狼にさらわれたのでもなく、奪われたのでもなく、自らの意志で彼を選び、愛する人と共にいるのだと」
んまあ、ドラマチック。やだこれ駆け落ちってこと?
滅多にない出来事に居合わせた人々は興奮気味だ。
そんな彼らの反応に、ヘイゼルは内心で強くうなずいた。
これが欲しかったのだ。
確かに王はある程度の強引なやり方をすることができる。たとえば今日の処刑のように。だが、王族が人気商売という側面がある以上、市井の人々の目や耳をまったく無視した行動をとり続けることもまた、難しいのだ。
人々の噂や評判というのは、これでなかなか侮れない。庶民に人気の高い盗賊の罪が減じられた例などはこれまでにいくらもある。
だが今、市井の人々は、『ハムザの狼が第五王女を連れ去った』という偽りを信じている。
だからこそ、今日ヘイゼルが姿を現し、その生の声で語ることが必要なのだった。
ヘイゼルはさらに続ける。
そこにいる女性が自分の乳母であること。自分は長い間王宮から隔離されて育ったこと。ある日突然連れられて来てみれば、既に北の塔に軟禁状態であったこと。その間乳母とは引き離されており、自分が王宮を去ったことは彼女の責任とは言えないことなどを。
人々は身じろぎもせずにヘイゼルが語るのに注目している。
「ですから、今日の処刑はそもそもが理不尽なものであり、そこの女性はいわば見せしめとしてそこにいるということを踏まえ、わたくしはこの処刑に異議を唱えます!」
「なにを馬鹿な!」
これに桟敷席の王が怒鳴り返した。
「お前は我が国の王女である、そのような勝手な真似が許されると思うか!」
これにはヘイゼルも一瞬唇を噛んだ。
確かに王族や貴族の子女の婚姻は、個人の意思とは関係なく、国の利益をもとに決定される。
だがヘイゼルに関してはどうだろう。
国を破滅に導くという予言を信じ、生まれたばかりのヘイゼルを父は森に棄てた。ファナティックという侮蔑的な名を与え、己の立場を終生忘れぬよう、乳母と従者という体裁の監視をつけて。
(一度も、会いにも来なかったくせに……)
愛情も関心も与えずにおいて、離れていった後になって権利を主張するなどバカげているとヘイゼルは思う。
父に言い返したいことは山ほどあったが、そこはぐっとこらえて静かにこう言った。
「もうあなたの手駒ではありません。わたくしはこの人のものです」
いやぁーん、身分違いの恋ってことね!
王女さま、どうかお幸せになって下さい!
女たちが歓声をあげるのをよそに、父王は顔を真っ赤にした。
「ヘイゼル、貴様……っ!」
「やっとわたくしの名を呼んでくださった。おそらくは生まれて初めて」
初めて対面した時も、ヘイゼル・ファナティックと呼ばれたのを覚えている。その呼ばれ方には悪意を感じた。
ごく当たり前に、父が娘に言うように、ヘイゼルとは呼んでくれなかった。
父娘が睨み合うのに割って入ったのはアスランだった。
「我が妻ヘイゼルを長年愛おしみ、育ててくれたガーヤ殿が処刑されるのを黙って見殺す我らではない。その身柄、貴国が必要ないというのなら、我が砦で貰い受ける」
「そんな理屈が通るとでも思うのか!」
「そう言われると思い、対価を用意した」
アスランが合図すると、アデラが麻袋の口をひらき、盛大にそこらにばらまいた。
中に入っていたのは大小とりどりのモルフォだった。
濃い紫色の固まりが光を受けてきらめく。
「もし必要ないというのなら、このまま市井の人々に喜捨させてもらうが、いかがか?」
ぎゃあああああああ、と男爵夫人が容貌に似合わない本気の濁音悲鳴を上げた。
「なにをしてるの、拾いなさい! さっさと拾うの! ひとつも渡してはダメよ!」
アスランがもう一度合図をする。今度は砂の袋だった。
サディークが砂の袋に剣を軽く差すと、その穴からは赤みがかった重冠砂がざらざらとこぼれ落ちる。
今度怒声をあげたのは王だった。
「貴様なにをするかあああああ!!」
民衆を遠ざけろ、一粒も渡してはならん、と早口に兵に指示を飛ばすのを見て、ヘイゼルとアスランは顔を見合わせて笑い合った。
「交渉成立かしら」
「だろうね」
「なにをぼやっとしておる、そいつらを逃がすな!」
王がひび割れた声で命令を畳みかけるのに、石と砂を集めてまわっていた兵たちは一瞬混乱した。
そしてその隙を見逃すわけもなく、サディークは鮮やかな身のこなしで処刑台に近付くと、縛られていたガーヤの縄を切った。
「ご無沙汰しています、間に合ってよかった」
ラプラ特有の端正な美貌がにこっとする。
兵のひとりはヘイゼルを確保しようと手を伸ばしたが、その手が彼女に触れる寸前、指先をかすめるようにして飛んだ矢があった。
アデラだった。
アデラは早くも次の矢をかまえて、兵たちを威嚇するように狙いを定めている。
「ヘイゼル、危ないから下がんな!」
「アデラさんも、やっと名前で呼んでくれたわね。嬉しいわ」
「……っ、今そんなこと言ってる場合かっての!」
自由の身になったガーヤはというと、とっさにどうしていいかわからないというように視線を彷徨わせている。
幼い頃から王宮勤めで、一介の女官から女官長へとのぼりつめた人生だった。命令に従うことが骨の髄まで染み込んでしまっている。だからたとえ自分の命がかかっていたとしても、そこから自分が去ることに言い知れぬ不安を感じるのだ。
王のいる桟敷席とヘイゼルたちを見比べて迷っているところに、ヘイゼルの声が響いた。
「来て!」
ガーヤの肩が大きく震える。
「来て、ガーヤ、私と一緒に来て!」
ゆっくり顔をあげたガーヤの視界には、馬にまたがったまま大きく前のめりになって、ガーヤに手を伸ばしている最愛の姫の姿があった。
なんとかしてヘイゼルを捕獲しようとする兵たちを、もうひとりの女が弓矢で牽制している。
その日焼けした顔の女が、危ない、下がれってば、と何度も言うがヘイゼルは聞かない。
「お願い!」
ガーヤの視界が涙でにじむ。
あんなふうに馬を扱える方ではなかったはずなのに。聡明だけど頭でっかちで、自分がお守りしなければと思って長年育ててきたというのに。
(それが、今ではどうでしょう……)
ガーヤは声をかすれさせた。
「姫さまが、私を助けようと、手を差し伸べていらっしゃる……」
「ガーヤ、早く!」
「姫さま」
兵士たちが寄らないよう、サディークがガーヤのまわりを守っている。
火刑台の上から降りて、ガーヤはヘイゼルに手を伸ばした。
ふたりの手と手がふれあい、固くつなぎ合わされる。
ヘイゼルが強く引き、ガーヤも抵抗せずそれに従う。
「なんてなんておきれいなんでしょう。少し日焼けなさいました? こんな荒っぽいところに出てきて怪我でもしたらどうなさいますか!」
言いたいことをまとめて一気に全部言うガーヤをなんとか馬に引っ張り上げて、ヘイゼルは馬首を返した。
これで目的は達成した。あとは帰るだけだ。
「取り返したわ!」
「おう!」
剣を抜いた兵たちを軽々とさばいているアスランが応える。
ヘイゼルの後ろにまたがったガーヤに向けて、サディークがアンダースローでなにか黒いものを投げた。
それは真新しいムチだった。
「お手になじむかどうかわからないんですけど」
控えめな調子でサディークが言う。
「おそらく、普段お使いのものは持ち出せなかったかと思いまして」
「──助かるね」
ガーヤは早速、コンパクトにまとめ上げられているそれをほぐすと握り込んだ。上等の革で作られた持ち手は新品だというのにしっくりと手の表面になじんでくる。
「道をおあけ! うちの姫さまに指一本でもさわってごらん、鼻でも耳でも吹っ飛ばしてやるからね!」
肘から先のスナップでそれを振るうと、ムチは気持ちよく伸びて兵士たちをひるませる。
甲冑を身につけた胴や腕には効果がないが、何度か振るうちにガーヤは手の感覚をすぐに取り戻し、顔を的確に狙えるようになった。
剣とも弓矢とも違う間合いに兵士たちはヘイゼルの馬に近寄れないでいる。
「なんなんですか、いったい、ありゃ」
「乳母やさんだって話じゃなかったんかよ……」
「乳母やだよ。だからって、戦って悪いこともないだろう?」
砦の男たちが目を丸くしてそれを見るのを、アスランはおかしそうに返す。
「おっそろしい……」
「ありゃ、助けてよかったんですかい」
男たちは兵士と切り結びながらつぶやく。
アスランをはじめとする男たちは、ヘイゼルとアデラの乗った馬を先に逃がそうとして現場にとどまり戦い続けている。
ヘイゼルがちらりと後ろを振り返ると、彼らの持つ剣は兵士のものたちと比べて明らかに輝きが強く、切り結んだ相手の剣は、わずか数回ぶつかり合っただけで半ばから折れてしまっている。
剣が真っ二つになるのを目の当たりにした兵士の呆然とした表情が微かに見える。
これは、戦闘技術以前の問題だとヘイゼルは思った。
(剣の質がまるで違うんだわ……)
彼らの様子を見てヘイゼルは、重冠砂が宝石以上の値段で取引される理由がわかった気がした。
重冠砂を混ぜて鍛えた剣を持っていたら、普通の剣などおもちゃのようなものだ。
確かにこれは、どこの国でも欲しがるだろう。
「何をしておる、ばか者ども! 捕らえろ、追うのだ、決して逃がすな!」
「宝石と砂を回収するのよ、そっちが先よ! ああっ、そこ、盗られてるうっ!」
桟敷席の王と愛妾が金切り声をあげるなか、ヘイゼルたちは余裕をもってそこから離れた。
「王女さま、お元気でー」
「どうかお幸せにー」
道の端では市民たちが手を振って言うのが聞こえる。
ヘイゼルはちょっとはにかんで手を振り返した。
「かわいい」
「きれい」
「そういや第五王女さまの話はこれまで聞いたことがなかったよなあ」
そんな声も聞こえてくる。
「やっと納得がいったよ、忌み子扱いだったってわけかい」
「おかわいそうに、あんなにきれいなのに」
「ずっと放っておいて、いきなり父親づらしようったってそいつは無理が……おっといかん、兵士に聞かれちまう」
風に乗ってそれらの声も聞こえてきて、ヘイゼルは思った。
今日この時の彼らの声を決して忘れないようにしようと。
私はこの国から棄てられたと思っていたが、私を棄てたのは父であり、国民ではなかったのだと。
「皆さまもお元気でー!」
馬から振り返ってそう叫ぶと、既に遠くなりつつある市民たちは手を大きく振って応えてくれた。
そこから王都を出るまで、ほとんど邪魔らしい邪魔は入らなかった。
アスランの選りすぐりの兵たちと王宮の兵士たちとでは機動力にも差があったし、なによりも、アスランの兵たちはいざという時誰の指示も待たずに、それぞれが自分の頭で判断し行動できるという点において遥かにまさっていたからだ。
全員が無傷で砂漠へ出た時、アスランはようやく馬の足を少しゆるめた。
「途中、休みながら帰ろうぜ」
「そうだな、馬に水をやりたい」
男たちが言い交わすのをよそに、ヘイゼルは満たされた思いでいっぱいだった。
背中にはガーヤのぬくもりがある。ほんの数カ月離れていただけだというのに、何年も別れていた気がした。
「ねえ、ガーヤ」
「なんですか、姫さま」
「ずっと、ガーヤのことを考えてたの」
「おや、そうですか」
からかうようなガーヤの声が後ろから聞こえてきてヘイゼルはちょっと口を尖らせる。
嘘ではなかった。
かつてひとりで夜会に出席した時も、砦での慣れない暮らしでも、ガーヤの教えがヘイゼルを支えてくれていた。
あの日、ファゴットの森にいきなり真紅のマントを羽織った近衛兵がやってきて、ヘイゼルを王宮に連れ去った時から、もう二度とガーヤには会えないものだと思っていた。
だからアスランがガーヤの指輪を持ってきてくれた時、これをガーヤだと思って一生大事にしようと思ったのだ。
ヘイゼルは胸元から金の鎖を取り出して、そこにぶら下がっているガーヤの指輪を目の前にかざす。
「でも、これからずっと一緒だというなら、これは返した方がいいのかしら」
背後のガーヤはなにも言わない。
どちらでもお好きなように、というようにリラックスして馬に揺られている。
「砦に戻ったら返すわね。これ大事なものなんでしょう」
「……どっちでもいいですよ。どのみち、もう過ぎた話です」
この時ヘイゼルがごく自然に、砦に『戻る』という言い方をしたのにガーヤは気がついた。
そこがどんな場所かは知らないが、どうやら姫さまは望まれて幸せに暮らしているようだということも。
「いっぱい、いっぱい話すことがあるの。でもまずはこれだけ言わせてね。ガーヤ、大好きよ」
心を込めてそう言うと、なんと背後の乳母は大きなため息をついたではないか。
「そういうことはそこの彼に言って差し上げなさいまし」
くいっと顎を動かした先にいるのは、「え、俺?」とでも言いたげな顔をしたアスランだった。
ガーヤの声は砂漠の乾いた空気にやけに響いて、男たちも、そしてアデラまでもが遠くで吹き出した。
「いいよ、久しぶりの再会だろ、いちゃいちゃしなよ。積もる話もあるだろうし」
アスランはそう言ってから、ふとヘイゼルのほうに馬を近づけてきた。
鐙と鐙がふれるかと思うくらい近くまで寄ってくると、じっとヘイゼルを見つめる。
右と左で色の違う瞳に見つめられて、ヘイゼルがどきっとした瞬間、やさしく射止める声で言われた。
「でもヘイゼル、わかってるよね」
「な、なにを?」
「今はガーヤといちゃついてていいけど、砦に帰ったら、ヘイゼルは一番に俺のものだってこと」
「────っっ!!」
皆がいる前で堂々とそんなことを言われて、ヘイゼルはなにも言えずに真っ赤になった。
恥ずかしいし、いたたまれなくて、視線をそこらに彷徨わせる。
なにか言ってくれるかと期待したガーヤは沈黙を貫いているし、アデラはと見るとそっぽを向いている。
男たちに至っては、口笛を吹いたり頭の上で手を振り回したりしている始末だ。
「ヘイゼル」
「な、なあに」
「返事」
ヘイゼルは頭に血が上ってくらくらしているところに追い打ちをかけられて本格的に口ごもった。
返事って……しなければいけないのだろうか。
みんながいるのに? 聞いてるのに? そもそもこういう時はなんて返せば?
頭の中は行き場なくぐるぐるしているというのに、アスランは黙って返事を待っている。
なにか言わなければ終わらないのをひしひしと感じて、そしてアスランがそういうところで逃がしてくれる人ではないのはもう知っている。
「す……好き」
「俺もだよ」
精一杯でそう言えば、当然のように返される。
これではない、求めている答えはこれではないと言外に催促されている。
「さっき、教会前では言ってくれたよね?」
やっぱりあれだ。あの言葉を求められているのだとヘイゼルは思い出して発熱しそうになる。
だってあの時は、恥ずかしいと思う暇もなかったんだもの。でも今改めて言うのはとっても恥ずかしいんだもの。
そんなことを考えていると、さっきまでまっすぐ歩いていた馬の歩調が左右にぶれる。乗っているヘイゼルの気持ちが露骨に伝わっているのだった。
ヘイゼルは手綱を短く持って態勢を立て直そうとしながら思う。
どうしよう、恥ずかしい。
でもアスランはその恥ずかしい気持ちごと受け止めてくれる人なのも知っている。
ヘイゼルは、砦のあの細い足場を初めて渡った時のように勇気を奮い起こして言った。
「──わ、私はあなたのものだわ」
「うん、よく言えたね。愛してるよ」
ヘイゼルが言った以上の言葉をアスランはさらりと返してくる。
ファゴットの森でこんなことを言おうものなら、ガーヤはじろっと睨んでどすの効いた声を出したはずなのに、今は当たり前のように何も言わない。
(これが、認められるってことなんだ)
なんだか落ち着かないくらい胸の鼓動は早くなるし、頭はふわふわするし、馬はどうやってもいうことを聞いてくれないしで、ヘイゼルはもうどうにかなりそうだった。
ヘイゼルがあまりにも動揺しているのを見かねて、後ろのガーヤが手綱を受け取る。
ガーヤが手綱を持った瞬間、馬はふらついていたのが嘘のように安定した。
「愛してる、ヘイゼル」
ヘイゼルが落ち着くのを待たずにアスランは言った。
「あなたは俺のものだ。──それでいい?」
「い、いいわ」
ヘイゼルがやっとのことでそう答えると、アスランは傍目にも満足そうに目を細めて笑った。
そして次の瞬間、朗々とした声であたりに向けて宣言する。
「そして、俺もヘイゼルのものだ」
それを聞くなり、うおお、と男たちの歓声があがった。
何事だろうとヘイゼルが驚いて彼らを眺めると、男たちは両手を頭上にあげて手拍子を取りながら歌い始める。
女王だ、砦の王に女王ができた、この目で見届けた、といった内容のことを単純な節回しで繰り返し歌っているのだった。
それを言うなら王にできるのは妃ではないのかしらとヘイゼルは思ったが、アスランいわく、牙の不在中、砦の内外を束ねる必要がある性質上、牙の妻は女王扱いされる決まりなのだという。
できた、できた、女王ができた。
見届けた、見届けた、全員で見届けた。
どこか誇らしげに男たちが声を揃えて歌うなか、こっち見て、と言われた気がしてヘイゼルがアスランのほうを向くと、アスランは自分の人差し指を自分の唇にゆっくりと押し当て、それからその指先をヘイゼルのほうへ伸ばしてきた。
これまで一度もしたことがなくても、なにをすればいいのか自然にわかった。
ヘイゼルは馬の上で体を斜めに傾けると、アスランの指先にゆっくりと自分の唇を押しあてたのだった。
これからは、私があなたの片割れ。
決して離れない。そう思いながら。




