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石と砂とはなんなのか

「助けたいのはガーヤという人で、ヘイゼルの乳母をしてくれていた女性なんだが」


 続々と集まってくる麻袋を、手慣れた様子で秤に乗せて計算しながらアスランは言う。

 その表情は今ひとつ晴れない。麻袋の重量が七十キロに達しないのだ。


「今は急ぐんだ。詳しい事情を話している暇がない」

「……あのう」


 そこに、遠慮がちにサディークが口を挟む。


「私は今コインをいただいていますよね。仲間ということで、割り当てがあるはずです。その分を足していただけませんか」

「お前……」

「私もあの人にはけがを治してもらった御恩がありますし」

「その分は俺が支払ったろう」

「いいえ、そういうものではありません」


 そして今押し問答をしている時間はないはずです、ときっぱり言い切って、サディークは自分のぶんの麻袋をその上に積み上げた。


「そんなら、俺も出してやるよ」


 言ったのはなんと、ヘイゼルがファラハニの副部族長と対峙した時、左脇に座っていてくれていた男だった。


「俺この前、ファラハニの奴らの前で分厚い本を持ってきたとき、あいつらが驚いた顔したのをまだ覚えてる。あれはなかなか気分のいい経験だったからな」


 ほらよ、とずっしり重たげな麻袋をこともなげに積み足してくれるのを、ヘイゼルは信じられない思いで見つめていた。


 じゃあ俺も、私もと麻袋は積み重なって、とうとうアスランが、もういいからもう十分だから! と止めるまでになった。


「馬は何頭出しますか? 男たちは?」

「戦えるやつが五人欲しい。それに俺とヘイゼル、荷物を積むぶんも含めて、馬は八頭」


 アスランは迷わず即答した。

 どうやってガーヤを助けるか、砦に帰って来るまでにさんざん考え抜いてきているのだ。


「わかりました、すぐに」

「あ……あたしも行く!」


 そこに手を挙げたのはアデラだった。


「アデラ……」

「だって荒事になるかもしれないんでしょう。そうしたら、男たちだけじゃお姫を守れないかもしれないじゃない! 逃げるのだって、女同士のほうが目立たないってこともあるわ!」


 これを聞いてアスランは考える顔になった。

 アデラは畳みかける。


「それにあたしの弓の腕は知ってるよね。あたしなら、いざとなったら男並みにこの子を守れる。だからあたしも行く!」

「連れて行ってやってよ」


 口添えしたのはウースラだった。

 男同士でするように、アデラの首に腕をかけて彼女は言う。


「きっと、この子役に立つわよ」


 そういうわけで、アデラも同行することになった。


◇◇◇


 砦にいたのはわずか一時間たらずだった。


 支度を整えたアスランたちは砂漠を駆けに駆け、オーランガワードの国境近くのオアシスで今は休憩している。


「各自馬を休ませて。ここで少し休憩にする」


 アスランが号令をかける声に、男たちは疲れも見せず淡々と馬の世話をする。

 ヘイゼルはというと馬から降りるのがやっという様子で、馬にもたれかかって肩で息をしている。


「ヘイゼル、よく頑張ったね」


 アスランがやってきてそっと背中をさすってくれるのにも答える余裕がない。


 彼らがヘイゼルを気遣ってゆっくり走ってくれたことは知っている。だが、砂漠の冬の乾燥した空気は馬の上だと余計に強く感じられて、肌はピリピリするし、喉はからからに乾いて呼吸をすると血の味がした。

 なにより、こんなに長く駆け足で走ったことなどこれまでない。


「発作は? 苦しい?」


 大丈夫、と返事を返すまでにはまだ回復しておらず、ヘイゼルはただ首を横に振った。


 馬に乗るということは、ただ乗っていればいいというものではないのだった。


 駆け足で跳ねる馬の体に上手に寄り添い続けるためには腹筋と背筋が必要だし、動き続ける馬の上でバランスを保ち続ける体幹の強さと持久力がいる。大きな馬の体を足で挟み続けていると、足も次第に疲れて力が入らなくなってくる。


 いとも軽々馬を操るアスランたちを見ていると簡単そうなことに見えるが、実際のところ、そんなはずはない。自分の体重の何倍もある馬体を体ひとつでコントロールするのだから。


「手を離してもいいよ」


 アスランは自分の馬を水辺につなぐと、ヘイゼルの手から手綱をやさしく取り上げてその子の世話もしてくれた。

 そうしておいてから、ヘイゼルの背中に手を当ててゆっくり歩かせる。


「ずっと走り続けてごめんね、一番近いオアシスがここだから、休むのならここでと思って」

「……ううん、平気」


 自分の考えが足りなかったと、ヘイゼルはここでもまた思い知らされた。


 砦での生活に少しは慣れて、やればできるのだと少しだけ自分に満足していた矢先だった。

 ここで暮らすのなら、もっともっとヘイゼルは成長する必要があるのだった。


 ヘイゼルはアスランが汲んでくれた水をゆっくり口にする。

 オアシスの水はほどよく冷えていたが、砦の水のほうがおいしいと思った。

 それを口にするとアスランは笑って、風の当たらない場所を選んでヘイゼルを座らせてくれた。


「……あたし、ちょっと散歩してくる」


 アデラはそう言い残すと、止める間もなく大股で歩いていった。

 わざとらしいにもほどがあるが、彼女なりに気を遣ったらしかった。


 冷気が伝わらないよう厚手の敷物を敷いた上にヘイゼルを座らせると、さて、と言ってアスランはおもむろにふたつの袋を取り出した。


「いろいろ説明もなしにつれてきちゃったよね。ちょうどいいからそのことを話そうか」


 ヘイゼルは両手で水の器を包むように持って、こくんとうなずく。


「まずは、石と砂のことから話すね」


 アスランは小さめの麻袋のうち片方をヘイゼルに手渡した。


「見てごらん」


 ヘイゼルがそっと袋の口をひらくと、中には赤みがかった砂が入っている。

 触ってみると、砂漠の砂よりもいくぶん粒子が大きい。


 それに気のせいだろうか、見た目よりもずっしりと重かった。砂というより、金属を持っているような重さである。


「じゃあ、今度はこっち」


 二つ目の袋から出てきたのは、光り輝く紫色の石だった。

 大きさは大小さまざまで、掘り上げたままの結晶だというのに、宝石と遜色ないほどに透明度が高い。


「きれい……」


 ヘイゼルは思わず声に出した。


「ほんとに、きれい」


 そのひと欠片をつまみあげて目の前にかざす。


 紫水晶とは違う、もっと深みのある色だ。

 こっくりとした葡萄色は透明度が高いせいで光を透過し、目を射るほどの輝きを放っている。角度を変えてみると、厚みのある部分は海の底のように深みがあって、でもどこまでも澄んでいて、見ていると吸い込まれそうだった。


「きれいだろう」


 アスランの声でヘイゼルは我に返った。

 いつしかその石から目が離せなくなっていたのだった。


 見せてくれた礼を言って彼に返すと、アスランはこともなげに笑って言う。


「気に入った? ならいっぱいあるから帰ったら好きなの選んでいいよ」

「えっ」

「これはモルフォって言って、貴婦人やコレクターにとても人気のある石でね、すごく高く売れる。──ところでヘイゼル、この石とこの砂、どっちが値段が高いと思う?」


 ヘイゼルは少し考えてから、砂のほうを指さした。


「……こっち?」

「当たり」


 アスランはなぜか満足そうだ。


「だって、この美しい石のほうが価値があるんだとしたら、そんな質問しないと思って」

「そう、実はこの砂には、石の二十倍の値が付くんだよ」


 それを聞いてさすがのヘイゼルも目を丸くしたが、そばで馬の世話をしていたサディークが口を挟む。


「最低でも二十倍、ですよ」

「えっ……」

「市場では二十倍から五十倍の金額で取引されているものです。しかも流出量が少ないので、値段は上がることはあっても下がることはない」


 その話を聞いて、ヘイゼルは思い出していた。

 そんなに価値のあるものを、砦の彼らはあっという間に揃えてきたことを。


 そしてアスランが号令をかけて石と砂を集めさせた時、その場にいたセイグラムに男たちのひとりがこう声をかけたことを。


 ──悪いが外してくれねえか。


 客人であるセイグラムには見せられないもの。

 だが、既に仲間であるヘイゼルは見ても構わないもの。


 そこでヘイゼルはひとつの可能性に思い当たり、注意深く言葉を選んで口にした。


「もしかして……砦ではそれが大量に採れることがばれないように、出荷量を調整している?」

「そう」

「そして、砦の仲間になるのに金のコインが必要なのは……サディークが最初に会った頃、それがまだ貰えていなかったのは、秘密を全員で守る必要があるから……」

「その通り」


 やっぱりとヘイゼルは思った。


 アウトカーストであるラプラは砂漠に限らずどこの国でも信用されにくい傾向にある。金と条件でいくらでも雇い主を乗り換える、美貌かつ凄腕の傭兵としての側面が知られているからだ。


 それに加えてサディークは、かつて先代の頭領を殺すようにオーランガワード国王から差し向けられた刺客だった。なかなか信用されにくのも道理だった。


「この砂はね、『重冠砂』って呼ばれてる。鉄に混ぜると硬度を増すことから、どこの国でも高値で取り扱われるんだ」


 アスランは袋の口をきつく縛り直してから言った。


「このままでは利用価値がないけど、鉄に混ぜ込んで鍛えることでより強度が高く、折れにくく、切れ味がよくなる。──出来上がった刃物がこれだよ」


 アスランは腰に差した剣を抜いて見せてくれた。


 刃物に造詣が深くないヘイゼルの目にも、明らかに輝きが普通とは違うのが見てとれる。

 光を反射して真珠のように刀身が光るのだ。

 よく見ると地金はマーブル模様になっていて、それが美しい波紋の形になっている。


「熱を加える前は、見たとおり赤みを帯びた砂なんだけど、鉄に混ぜ込んで打つことで真珠様の輝きを帯びるんだ。そして同じ模様の刀はふたつとない」

「きれいね……」


 思わずつぶやいたヘイゼルに、アスランは深くうなずいた。


「そう、強いものは美しいんだよ」


 アスランの言葉が自分のほうを向いている気がしてヘイゼルが顔を向けると、彼はヘイゼルをじっと見つめていた。


 私? 私のことを言ってるの?


 ヘイゼルが理解するよりも、サディークが呆れた声を出す方が先だった。


「そういうことを言ってる場合じゃないと思うんですけどね……」

「惚れた女を褒め称えてどこが悪いんだよ。しかも、これを見ただけで砦の秘密に気づく女なんて、他にどこにいる?」

「そこは同意しますけど」


 サディークは鼻面を擦り付けて甘えてくる馬を手のひらで撫でてやりながら言う。


「今はもっと他にも説明しなきゃいけないことが山積みなんじゃないんですかと言ってるんです。ここを出たらもうのんびりしている時間はないですよ」

「お前って、時々小姑みたいに口うるさいよなあ……」

「正論で言い負かされたからといって憎まれ口をたたいていいのは幼い子供だけです」

「そういうところがさ……」


 アスランはげんなりした顔をしたが、やがてヘイゼルに向き直ると真顔になって背筋を伸ばした。

 その様子がどこか改まったものだったので、ヘイゼルもつられて背筋を伸ばす。


「ヘイゼル」

「はい?」

「俺に代わってファラハニとの交渉をさせて、本当に悪かった。ごめん」


 アスランはそう言って深々と頭を下げたので、ヘイゼルは慌てた。


 だってあの時は仕方なかったのだ。他に相応しい人間がいなかったからしたまでのことだ。頭を下げられるようなことではないとヘイゼルは思う。


「どうして謝るの」

「俺は……ヘイゼルに言ってなかったことがあって」


 ゆっくり頭を上げると、アスランは左右で色の違う瞳をまっすぐヘイゼルに向けて言った。


 牙の妻は、牙の留守中は砦を統率する権利と義務があること。それをヘイゼルに伝えることなく連れてきたこと。そして、説明する間もなくファラハニ部族との交渉させてしまったこと。


「そういうこと全部言ってなくて、ちゃんと言わないまま連れてきて、ごめん」

「だからどうして謝るのってば……」

「こんな面倒なこと、言ったら絶対怖がられるだろうし、言ったら一緒に来てくれないんじゃないかと思ったから、忙しさを言い訳にして言わずにいた。その結果、ヘイゼルに大変な思いをさせた」


 本当にすまなかった、とアスランは改めて頭を下げた。


「そんな……」


 ヘイゼルは砦に来るまでのことを思い返してみた。


 着の身着のままで北の塔から抜け出して、地下牢に投獄されていたアスランを助け出したこと。ジャジャが馬と外套を用意してくれていて、そこから砦までは無我夢中で旅したこと。


 季節は冬の始まりのことで、しかも夜で、馬の手綱を取る手も冷え切っていたのでアスランとそんな話をする気持ちの余裕もなかったこと。アスランはというと、そんな自分をずっと気遣い、励まし続けてくれていたこと。


 砦についたらみんなに紹介されるのもそこそこに、倒れるようにして昏々と眠ったこと。

 ときどき目をあけると、必ずそこにはアスランがついていてくれたこと。大丈夫、寝てていいよと髪を撫でる手が温かかったので、それでまた安心して眠ったこと。


 そしてヘイゼルの体調が回復するのを待っていたように、ゆっくりと時間をかけて隅々まで愛おしまれたこと。


 あの時のことを思い出すと自然とそこにたどり着いてしまって、ヘイゼルは顔が赤くなりそうなのをごまかすように敢えて堅い声を出す。


「──だって、言う機会もなかったでしょう」

「まあそうだけどね」


 ヘイゼルの内心を知ってか知らずか、アスランは肩をすくめる。


 おや、とヘイゼルは思った。

 彼女の照れ隠しにアスランが気づかないのは珍しい。


 どうやらヘイゼルが思っている以上に、彼はこのことについて重く捉えているようだと思った時、ヘイゼルは思い出した。先代の牙は生涯独身を貫いたとアスランが話していたことを。


(もしかして……先代が生涯独身だったのも、その辺に理由があるのかしら)


 多分そうだとヘイゼルは思った。

 おそらくは、自分と同じ重責を好きな女に背負わせるのを躊躇したのだ。


(だけど、私は違う)


 ヘイゼルは隣に座るアスランを見上げた。


「ねえ、アスラン」

「なに?」

「私を育ててくれたのはガーヤよ。あの人は私のことを、大変だからと言って逃げるようには育ててないの」


 ああ……とアスランは思い出すような顔つきになった。


「確かにそうだね」

「今はまだ、わからないことだらけだし、できないことだらけだわ。でもきっとこれからできるようになると思うのよ」


 アスランのまなざしは静かだが、その奥に驚きを含んでいる。

 ヘイゼルは続けて言った。


「楽観視とかではないのよ。あなたが私を好きになってくれたということは、きっと、自分と対等に生きていける人間だって思ってくれたからで、だから砦に連れて来てくれたわけで──つまり、私ならできるって思ってくれたんでしょう?」

「……ヘイゼル」

「なあに」


 ついと彼の頭がこちらに寄ってきて、耳元で低くささやかれる。


「惚れ直した」


 低くかすれた声にヘイゼルがどきっとした瞬間、腕を伸ばして肩を抱かれた。

 唇が耳につくほど近くで、アスランは続ける。


「俺と結婚してくれる?」

「──もうしてるわ」

「そうだった」


 どちらからともなく吹き出して、間近で見つめ合う。


「あ、でもさ。結婚式まだだよね」

「そういえばそうね」

「帰ったらしよう」


 そこにサディークが馬鞭をぴしぴし手に打ち付けて鳴らしたので、ふたりは慌てて顔を離した。時間がないんですよ時間が。という無言の圧力なのだった。


「最後に、ガーヤのことなんだけど」

「うん」

「二日前かな。王都の教会前に立て札が立てられた」


 ヘイゼルはごくりと息を飲む。いやな話だと、聞く前からわかる。


「どんな」

「オーランガワードの第五王女がさらわれた。相手はハムザの狼だって」


 ヘイゼルは眉をひそめた。


「ファラハニ部族かしら。この前私が名乗ったから」

「そうだと思う。まあ交渉が思い通りに行かなかった腹いせだね。──立て札にはこう書かれていた。ただちに王女を返すように、返さなければ元責任者として乳母のガーヤを処刑すると」

「なんて理不尽なことを!」


 冗談ではない。あの時、ヘイゼルが王宮から去った時、既にガーヤは任を解かれていたではないか。王宮に入ってからというもの、会うことすらできなかったというのに。


「言いがかりだわ、そんなの」

「そうですね、私もそう思いますよ」


 答えたのはサディークだ。


「ですがあなたの王女としての籍は、確かにまだ残っていますからね。王国としては権利を主張するのも不思議ではありません」


 サディークの怜悧な声音で言われると、ヘイゼルの昂った感情が静かになってゆく。


 この青年も、不思議といえば不思議だった。

 これまでどんな局面でも慌てたところや激高したところを見せたことがない。


 一体どんな経験をすればこんな若者が出来上がるのか知りたい気がしたが、そんな冷静な彼と話しているとこちらもつられて落ち着けるのは今のヘイゼルにとって助かることだった。


 ヘイゼルは小さくため息をついた。


「私はものじゃないのよ、って言いたいところだけど、大国の王女なんてそういうものなのよね……」

「そうですね」


 サディークがにこりと笑い、アスランが先を続ける。


「あの王と話し合いの場を設けようとしてもおそらくダメだろう。書状を読んでいるかどうかすらあやしい王と交渉する時間の余裕はない」

「期限はいつなの」

「明日の朝だよ」


 ヘイゼルの表情が硬くなる。

 では、立て札が立てられてから三日の猶予しかないということではないか。それなら、アスランがあんなに慌てていたのも理解できる。


「だから今回、この石と砂とでガーヤの身柄を貰い受けるつもりだった。それにしても、すんなりとはいかないだろう。腕の立つ人間を選んで連れてきたのは、乱戦必至になるからだ」

「わ、私」

「大丈夫」


 アスランは安心させるようにヘイゼルの顔を覗き込んだ。


「心配いらないよ。絶対に取り返してみせる」

「ううん、違うの」


 え? というようにアスランが首をかしげる。


「私、やっぱりついてきてよかったんだわ」


 確信をもって言うヘイゼルに、アスランは横でけげんな顔をしている。

 あのね……とヘイゼルは話し出した。


◇◇◇


 時は少しだけ遡り、教会前に立て札が立てられる数日前のことだ。


 王宮の離れの一角ではガーヤが先王に向き合って跪いていた。

 先代の王であるオーファン・アンヘル・アクラムは険しい顔を崩そうとしない。


「ならぬ」

「先王陛下、お願いでございます……」

「ならぬと言ったら、ならぬ」


 彼のところには書状が一通届いていた。


 ヘイゼルがハムザの狼にさらわれた責任を取らせるため、元乳母であるガーヤを差し出せとそこには書いてある。


 差出人は元老院となっているが、なんのことはない、現国王が己に厄介ごとの矛先が向かないよう、元老院の名を盾にとっているだけのことだ。


 そしてこれを見るなりオーファン先王は激怒した。


 ガーヤに責任などないのは自明であり、それを強いて責任を問うということは、それを公にすることで孫娘ヘイゼルの感情に訴え、彼女が自ら王宮に戻ってくるよう仕向けるたちの悪い手段だと即刻見抜いたからだ。


 毅然とした態度で使者を戻らせ、書状を破り捨てようとするのを止めたのは当のガーヤだ。

 そして今、自分を罪人として差し出してくれと彼の目の前に膝をついている。


「どうかお願いでございます。私を手放して下さいませ」

「何度言えばわかる。いかにお前の頼みであろうとそれはならぬ」


 ガーヤは深々と頭を下げたままで言う。


「あなたさまに私を守る力がないとは思っておりません。むしろ私を手放すことで、自分付きの女官をも守りきれなかった、先王の権威も耄碌したものだと陰口を叩く者もおりましょう。ですが、そこを伏してお願い申し上げます」


 頭を垂れたまま微動だにしないガーヤの姿に、オーファン先王は少しだけ表情から険しさを消してたずねる。


「──理由を聞こう」


 ガーヤはわずかに顔をあげて、先王の目をまっすぐに見る。


「姫さまとは別にもうひとり、息子とも思って育ててきた大切な子がおります」


 彼がファゴットの森にやってきたのは、十歳になるかならないかの頃だった。


 初めのうちは、自分でも近衛の出世コースから外れたことを自覚していて、ひねくれた態度だったが、次第にヘイゼルを慕いはじめて一途になった。


 あの子がいつか王宮に戻っても誰にも後ろ指をさされないよう、悪いことは叱り、近衛としての品格を失わぬように育ててきたつもりだった。


「あの子の身分を考えても、あの子の庇護者の立場からしても、私があなたさまに守られてしまうと、今度はあの子が処刑台にのぼらされると思いますので」


 ガーヤはにこっと破顔した。

 決して美人ではない、丸顔の、古いクルミの実を思わせる笑顔だった。


「年老いたものが下の子たちを守らないなら、先に生まれた意味なぞどこにありましょうや?」


 それを言われてしまうとオーファン先王はなにも言えなくなる。


 なにより自らもガーヤと同じ思いを持っており、その強い信念においてこれまでも行動してきた彼だからだ。

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