ヘイゼルがはつらつとすると、なぜか周囲はげっそりする
それからの数日は何事もなく過ぎた。
アデラはあの日、砦に帰ってきて一連の話を聞くや、地黒の顔を真っ青にしてヘイゼルの部屋に来た。
泣きそうな声で、ごめん本当にごめんと繰り返す彼女は、ヘイゼルがなにを言っても頭を上げようとしなかったので、そうだ、とヘイゼルは両手を打った。
「じゃあ、アデラさんにお願いがあるの」
「……なに」
「夜寝る前、私の話し相手になって下さらない?」
アデラはきょとんとした。
果たしてそれが埋め合わせになるのかと疑問に思っている顔だった。
「今日学んだことをあれこれ聞いてもらいたいの。もちろん気がついたことがあればアデラさんの意見を聞きたいのよ」
「あたしの意見、って」
「私は砂漠に来てまだ日が浅いし、知っていて当然のことも知らないわ。でもアデラさんなら詳しいでしょう。夜のお話し相手にはぴったりなのよ」
「それは別にいいけど……」
「嬉しいっ!」
両手を叩いて喜ぶヘイゼルだったが、アデラは気安く返事をしたことをすぐに後悔することになる。
「ねえ、アデラさん。砦にはいろんな人種の人がいるけど、それはなぜ?」
知らないよそんなの。
そう答えるとヘイゼルはなおも突っ込んでくる。
ではこの部族は? この土地は? この風習はどういうこと?
幾度も質問を重ねられて答えていくうちに、アデラは自分が普段いかに大雑把に物事をとらえていたか思い知らされることになった。
生まれた時から住んでいる砂漠のことなのに、毎日のように顔を合わせている他部族の人間のことなのに、自分はなにも知らなかったのだと。
だがヘイゼルはアデラに落ち込む隙を与えなかった。
わからないでは終わらせず、アデラ自身も意識していなかった無意識の分野から必要な知識を引っ張り出してみせ、点と点とをつないでみせて、ほら、わからないことなかったでしょ、やっぱりアデラさんはなんでも知っているのねえと終わらせるのだった。
疑問が解けて満足げなヘイゼルとは裏腹に、アデラは普段使っていない脳の部位を使ったためか猛烈な眠気が襲ってきて、途中でヘイゼルに待ったをかけた。
「お姫、待って、寝かせて……」
「さまがとれたわね、嬉しいわ。ええと言いたいところだけどだめよ。もう皆に逃げられてしまって、あとの頼りはアデラさんだけなんだもの」
「ぐあー!」
だからかとアデラは納得した。
だからみんな、今日に限ってやけに疲れた顔をして、アデラへの説教にも力が入っていなかったのか。
「はいっ、質問は次で終わりよ、頑張って」
「ううー……」
地獄の番犬のようなうなり声をあげるアデラに、ヘイゼルは形の良い眉を寄せた。
「ねえ、もしかして私の話って退屈?」
「とってもね」
もしここにいたのがジャジャであれば、間違ってもこんなことは言わず、昼の仕事の疲れのせいにしただろう。
だがまだアデラはヘイゼルに十分慣れていなかった。
ごめんなさい! とヘイゼルが身を乗り出してきたのでアデラは、助かったこれで解放される、とほっとしたが、予想は外れた。
「それは私の説明の仕方が悪いんだわ。わかりにくくて本当にごめんなさい。質問、最初っからやり直すわね」
「え、なんてぇっ!?」
「だってアデラさんには、質問の意味をよく理解してもらったうえで答えてもらう必要があるんだもの。そうでないと、違う答えにたどり着いちゃうかもでしょ。それだと困るの」
「困るって……」
「今回のファラハニ部族とのやりとりで私思ったの。今回は、彼らが私たちを舐めきっていたからなんとかなったんだわ。次はそうはいかないはず。でも私だって今のままの私ではいない。もっと勉強して、次は彼らの予想のさらに上をいってみせる」
ヘイゼルはきれいな緑色の瞳に闘志を宿して熱く語ったが、アデラはほとんど半目になって意識を手放しかけていた。
「だからお願いアデラさん。あなたのことが必要なの」
「勘弁してよ……」
「寝ちゃだめです、起きてー」
そんなふうにして、夜は嫌がるアデラと書物について語り合い、昼はウースラに刺繍を習って過ごした一週間ほど後のこと。
その日は朝からどんよりと暗くて、寒さはそれほどでもないのにやけに空がごうごうと鳴っていた。
ずっと留守をしていたアスランが血相を変えて砦に戻ってくると、馬装を解くのもそこそこに、ヘイゼルの元へ来て言ったのだった。
お帰りなさいとヘイゼルが言う暇もなかった。
「ヘイゼル、ファラハニとなんかあった?」
いつにない深刻な口調に、ヘイゼルはどきりとした。
そばにいたウースラが片膝を立てて割って入る。
「そんな言い方ないんじゃないの」
「ウースラさん」
「この子はね、ちゃんと守りきってくれたのよ。砦のことも、アデラのことも。なにがあったか知らないけど、あんたがこの子を責めるつもりなら、まずあたしが話聞くから」
まなじりを釣り上げてそんなことを言われて、ようやくアスランは、自分が冷静さを欠いていたこと、それがどんなふうに見えていたかに気づいたらしい。
目に見えて肩から力を抜くと、そうじゃない、というように首を横に振った。
「ごめん、悪かった。責めてるんじゃないんだ」
「ええ」
「怒ってるんでもないよ」
「わかってるわ」
ヘイゼルとアスランはどちらからともなく手を伸ばして、互いにハグし合った。
以前されたむさぼるような抱擁とはまるで違う、力強く、だがやさしいハグだった。
深い愛情と、強い信頼とが腕の力を通して伝わってくる。
自分の腕からも同じものが伝わっていますようにと思いながら、ヘイゼルはアスランを見上げる。
「私ね、多分失敗したの」
「失敗?」
「名乗ってしまったのよ、王女としての名前を」
◇◇◇
ところ変わってオーランガワードの王宮では、ファラハニ部族の副部族長が王であるイアン・ウィービング・アクラムと対面していた。
副部族長の日焼けしたなめし皮のような肌はきらびやかな王宮では場違いなものだったが、彼は臆することなく王と対峙している。
「いえね、もしやお探しではないかと思いまして。第五王女殿下の行方を」
「知っているのか、あれの居場所を」
「──誤解なされては困ります。もしお探しであればお力になれるかも、と申したまで」
イアン・ウィービング王は重厚な肘掛椅子の上で身を乗り出した。
「聞こう。……むろん、対価を望むのだろうな?」
「お察しの早いことで大変助かりますな」
ファラハニの副部族長は狡猾そうに目を細めた。
◇◇◇
「あちらが気づいたかどうかわからない。顔色も変えなかったし、言及もされなかった。でも……」
「わかった」
安心させるようにヘイゼルの頭を二、三度ぽんぽんとしてから、アスランは部屋を後にした。
ヘイゼルがそれを追いかけて見ていると、サディークをつかまえてなにか話している。
「ガーヤの体重どのくらいだ? ……くらいか?」
「縦がこれくらいで横がもうちょっとありますからね……」
砦の内部は音が反響してよく聞こえる。
彼らは小声で話していたが、ヘイゼルの耳はそれをとらえた。
「ガーヤ? ガーヤって言った、今?」
アスランとサディークが揃って振り向いた。
聞かれたくなかったと思っている顔だったが、ヘイゼルは小走りに近寄っていってさらに尋ねる。
「なにがあったの」
「……ごめん、説明している時間がないんだ。帰ってきたら全部説明する。約束する。それじゃダメ?」
「じゃあ一緒に行く。足手まといにならないように頑張るから」
「ヘイゼル」
アスランは困ったような顔をしたが、ヘイゼルは夢中で言いつのった。
「だってきっと私のことなんでしょう。ガーヤの名前が出るというのは、私と関わりがあることなのよね。なら私を連れて行った方がいいと思うの」
「でもね、ヘイゼル……」
「あなたが自分から来いって言わないのは、多分私の身の安全が保証できないからなんでしょう」
「どうしてそう思うの」
「だって、あなたはそういう人だから」
ヘイゼルが言い切ると、アスランはじっと見つめてきた。
左右で色の違う瞳には複雑な色が浮かんでいる。
なにかとても言いたいことがあり、だが今はどうしても時間がない、それが口惜しいけれどそんなことを考えている時間すら今は惜しい。そんな様々な感情が混ざっているのがわかる。
「──ヘイゼル」
「はい」
見つめられていたのはほんの数秒だった。
アスランは自分の感情を強引に脇へ置いて、すぐに砦の頭領としての顔になった。
「わかった、じゃあ連れて行く。馬には乗れたね?」
「の、乗れるわ。頑張る」
ヘイゼルが肩に力を入れて返すと、アスランはちょっと笑った。
「大丈夫。そんなにかっ飛ばさないから。荷物もあるし」
「荷物?」
この質問には直接返さず、アスランは、なんだ何事だと集まってきた砦の面々に向けて声を張った。
「モルフォと砂を用意してくれ。急ぐ。分量は半々になれば一番いい」
(──モルフォと、砂?)
この号令を受けて、砦の面々、特に男連中が素早く動いた。
彼らにしてもわけがわかっていないのはヘイゼルと同じだったろうに、異を唱えるものはひとりもいない。聞き返すものすらいない。
いかにアスランが信頼されているか、ヘイゼルは目の前で見せられた気分だった。
アスランはてきぱきと指示を出す。
「すぐ出せるか?」
「まあ、量にもよる」
「両方合わせて七十キロ相当だ」
「……これまた、でかくきたな」
「牙としての持ち出し権限があるはずだ。それを使ってくれ。去年までの俺個人の割り当ても、あまり使ってないから全部足す」
「まあそれは構わんが、足しても足りるかね」
「やってみてくれ」
屈強な男たちが、俺はあっち、お前は向こうからと手分けして動き出すなか、アスランはその場の全員に向けて言った。
「──人をひとり、どうしても助けたい。どこからも文句が出ない形で、しかも素早く」