ナマズ男を黙らせる
ほどなくして。
ヘイゼルはファラハニの副部族長たちと向き合って砦の一室に座っていた。筋肉自慢の男たちには盛装姿で両脇に控えていてもらう。
彼らに挟まれて座りながら、ヘイゼルは頭の中で必要なことを整理した。
あちらは砂漠でも最大の大部族。喧嘩してはいけない。でも譲歩もしてはいけない。アデラのことは渡さない、──以上。
難しい交渉だとヘイゼルは思った。
(でも、それって一番やりがいがあることだわ)
ヘイゼルの正面に座るのが副部族長、ヘイゼルから見て右側にいる白髪交じりのひげの男性のがその補佐で、向かって左側に座る若者がバルグドと名乗った。
この人がアデラに求愛してナマズをたびたび贈ってきた人ね、とヘイゼルはバルグドをそれとなく観察する。
彼は全体にがっしりとした体つきで、安定感のある体躯をしているくせに妙に猫背で、視線がきょろきょろと落ち着きない。
狭い額に濃い口ひげで、砂漠の男を見慣れていないヘイゼルにはどう評価していいかわからないものの、それでもあのアデラが心を惹かれるタイプかと言われると疑問だった。
「──我々の要求は以上です。バルグド、お前からもなにか言いなさい」
正面の副部族長に促されて、ナマズ男はヘイゼルに向かって人差し指をつきつけた。
「あ、あ、あんたでもいい」
(あんたでもいい?)
ヘイゼルは内心で冷ややかにそう思ったが、賢明にも表情に出しはしなかった。
「ちょっと体は細っこいけど、び、美人だし」
ヘイゼルの後ろにいるウースラから、なにやら不穏な気配を感じる。
「こら、なにを言う」
これにはさすがにファラハニの副部族長も小声でバルグドをたしなめた。
──この交渉、絶対に勝ってみせる。
ヘイゼルは内心で闘志を燃やしつつ、冷静に答えた。
「私の容姿をお褒めいただき光栄に思います。ですがあいにく」
黙って首元から金の鎖を出して掲げる。そこにある金のコインと牙が相手によく見えるように。
「私には、既に心に決めた人がおりますので」
「あんたが三代目の片割れか」
「嫁をもらったとは聞いていない。いったいどこの、どういう素性の」
副部族長たちが言うのには正面から答えず、ヘイゼルは鎖を胸元にしまうと先手を切った。
「さて、ファラハニ部族さま。うちのアデラが欲しいとのことですが、欲しいとはどういう?」
「なにをいまさら」
「嫁に貰い受けたいという話だ。さっきの話を聞いていなかったのか」
「あら、そうだったのですか?」
ヘイゼルはわざとらしく小首をかしげた。そうすると額から耳にかけて覆うようにつけている銀細工の飾り物が涼しい音を立てる。
「それは初耳です」
「結納品を送っているはず」
「そうだ。それを無視しているのはそちらである」
ヘイゼルは落ち着いて姿勢を正すと、ゆっくり口を開いた。
「なるほど。結納品を送る関係であるということは……ふたりは婚約しているという認識でよろしいのですね?」
年かさのふたりを交互に見やると、彼らはけげんな表情でうなずいた。
「では改めて伺います。婚約とはなんでしょうか?」
ファラハニ部族の男たちはかすかに眉を寄せた。この話がどこへ向かっているのか見えないものの、いやな予感だけはあるらしい。
ヘイゼルは続けた。
「それは、将来必ず結婚しようという男女の約束のことであり、そこには結婚についてふたりの硬い意思の合致があるはずのものです。もちろん、当人がはっきりと申し込み、それに対する明確な承諾がなくてはいけません。いくら愛していたとしても、口に出してはっきり約束を交わしていなければ、婚約は成立しないのです」
バルグドはというと、きょとんとして話を聞いている。
自分のことを言われているとわかっているかどうかすら、その表情からするとあやしかった。
「ここで伺います。明確な求愛の言葉に対し、アデラが承諾した証はありますか?」
年配のふたりが忌々しそうに顔を見合わせる。
あるはずがないのだった。
◇◇◇
わずかに時はさかのぼり、セイグラムのいる書斎ではヘイゼルを中心に緊急作戦会議が行われていた。
「弁の立つ人が必要なら、この人がいるのでは?」
セイグラムを見てヘイゼルははじめそう言ったのだが、彼はあくまで客人であり砦の仲間ではないため、正式な交渉の場に出すわけにはいかないのだという。
「なるほど……では知恵を借りるのならばいい?」
「それはもちろん構いませんが」
「では今からセイグラムに、三つの質問をします。みなさんもなにか意見があれば言ってね」
ファラハニ部族は既にもっとも豪華な客間に通しており、茶と菓子のもてなしで時を稼いでいる。
あまり待たせては交渉が不利になる。のんびりしてはいられなかった。
早速ヘイゼルは指を一本立ててたずねる。
「質問その一。ファラハニ部族がもっとも大切にしているものはなに?」
「それは、伝統と武勇でしょう」
セイグラムは即答で答える。
「あの部族はなによりもそれを重んじます。そして実際、大陸の成り上がり貴族などと比べればはるかに長い歴史と伝統を持っていますし」
これに周囲の面々も無言でうなずいた。
「なるほどね、わかったわ」
◇◇◇
交渉の場でヘイゼルは落ち着いて言葉を繰り出してゆく。
「武勇に秀でていることで、砂漠周辺のみならず大陸全土にその名を知られるファラハニ部族の男性なればこそ、本人に直接気持ちを伝えることで求愛とされるはず。わたくしはそう考えます」
「だ、だが何度も贈り物をしておる! それを受け取ったのは確かだろう」
「そうだ、当然求愛だとわかりそうなものだ。それについてはいかがお考えか」
男たちが声を大きくして反論したが、ヘイゼルは動じなかった。
わずかに体の向きをバルグドのほうへ向けると、静かに言う。
「では、バルグド様に伺います。贈り物をアデラに送ったのは何回でしょうか?」
沈黙があった。
真ん中の副部族長がバルグドの体を肘でつつく。
「あっ? ああ……」
「答えなさい」
低い声で促されてようやく自分に言われたのだと気づいたらしい。バルグドは体の前で指を折りながら首をひねった。
「ご、ご、五回。……いや六回かも」
「なるほど、そうですか」
ヘイゼルはにっこり笑った。
◇◇◇
「じゃあ、質問その二。ナマズを結納品として受け取った前例はありますか? 砂漠の部族間ではそれって一般的なことなのかしら?」
「まさか!!」
これには女たち全員が唱和した。
「あるわけないわよ」
「だって食べたら消えるのよ? それって結納っていう、普通?」
女たちがやいやい言うなか、男たちの誰かがはっと気がついた。
「もしかして、求愛自体を無効にしようってのか」
「そうよ。それができれば一番いいことだから」
それからヘイゼルは砦の周りに人を配置するよう、男たちに指示した。
筋骨隆々の男たちはけげんな顔をする。
「それまた、なんで」
「もしアデラさんが戻ってきたら、絶対にこの人たちとかち合わないようによ。ここで本人同士が顔を合わせたらかえって面倒なことになるわ」
「わかった、向かわせよう」
一体どのタイミングでだったかはわからない。
だが彼らはもはやヘイゼルに敬語を使おうとしなかったし、お姫さまと呼ぶものもいなかった。
そしてヘイゼルもまた、ファゴットの森でガーヤやジャジャにしていたように、素のままで話していた。
◇◇◇
「ではわたくしからも伺います。砂漠でもっとも長い伝統を持つファラハニ部族におかれては、ナマズを結納品として贈った前例はおありなのでしょうか?」
これに、年かさの男ふたりはぐっと詰まった。
「ないのですね」
「いや、しかし」
「それであれば、うちのアデラが求愛と気づかなかったとしてもわたくしは責められません。しかもバルグドさまご本人ですら、何度贈ったかはっきりとは覚えてらっしゃらない」
ヘイゼルはバルグドのほうを見てにっこり笑ってみせた。
バルグドは、なにを勘違いしたかにっこり笑い返してくる。
ヘイゼルは続けた。
「もはやこれは結納と見るよりは、単なる好意の贈与と考えるのが妥当でしょう」
「いったいなにを根拠に!」
「中央司法判例記録の中に、類似の事例が乗っています」
ぴしゃりとヘイゼルは返してから、隣に座るいかつい男のひとりに目配せした。
男はすぐに片膝をついて立ち上がる。
彼とはあらかじめ、こういう場面になったらセイグラムに頼んで必要な本の必要なページをひらいてもらうよう打ち合わせをしてあったのだ。
筋肉自慢でございます、人生それ一本で生きてきました、みたいな男が分厚い専門書を手に戻ってきて、こちらですねとヘイゼルの前に差し出した時、ファラハニ部族の男たちの顔にあからさまな驚愕が走った。
「どうぞご覧ください」
ヘイゼルはほっそりした手で書籍を彼らの前へ差し出した。
「これは貴族の例ですが、並の貴族よりはるかに長い歴史と伝統を持つファラハニ部族にも十分当てはまる事例かと思います」
ここで相手に対しやんわりプレッシャーをかけてやると、右端の長いあごひげの男が言った。
「だが一緒に他のものがあっただろう!」
「一緒に? 他のものとはなんですか?」
「だから……その」
それがなんなのか、相手は具体的に口にすることができずに語尾を濁した。
別にヘイゼルはここではっきり言ってもらっても一向に構わなかったのだが、彼らにはそれを言えない事情があった。
バルグドはファラハニ部族の共有財産をなんと勝手に持ち出してアデラに贈っており、しかもバルグド本人にも、なにをどれだけ持ち出したかはっきりしないという有様だったからだ。
◇◇◇
「ねえ、あの人たちって、なんのために来たのかしら」
ヘイゼルが言うのに砦の面々は目をぱちくりさせた。
「なんのって、アデラを手に入れるために……」
「あいつは気持ちのいい女だし、狩りの名手でもあるし」
「ううん、違うの」
ヘイゼルが首を振るのに全員が注目する。
「仮にも最大部族なら、人手が足りないわけではないはずよ。彼らはアデラさんが欲しいのか、それにかこつけて別のものが欲しいのか、どっちなのかしら?」
これに、砦の男女ははっとした顔になった。
「もしも本当にアデラさんを好きで妻にしたいなら、こんな時期にわざわざやってくるかしら? 仮にも自分の部族長がなくなった直後よ。今は葬儀の最中だわ。アスランが葬儀に駆けつけて不在なのは向こうもわかって来ているはずよ」
「わざと……この機を狙ってやってきたって、そういうのか」
「私の目にはそう見えるわ。つまり、こちら側に交渉ができる人材が不在なのを承知で、難癖をつけにやってきたかのようにね」
交渉の場での対応に無礼があればそれを口実にできるし、もしなんらかの言質が取れればそれはそれでよし、そう彼らは思っているのではないかとヘイゼルは予想した。
「最後の質問よ。──砦で最も価値のあるものはなに?」
「それは、『石と砂』ですね」
セイグラムは断言した。
「ここでだけとれる、特別なものです」
「ありがとう、セイグラム」
ヘイゼルは緑色の瞳をきらめかせた。
これで彼らの狙いがわかった。そう思った。
「交渉に勝って石と砂を手に入れる、それが目的なのよ」
◇◇◇
「副部族長さまに申し上げます」
既に交渉の力点はヘイゼルの手中に移動していたが、ヘイゼルは静かな口調を決して崩さなかった。
彼らはおそらく、最悪でもアデラ本人が手に入る、くらいに思っているのだろう。なによりもその考えが気に入らない。
冗談じゃない。アデラさんは完璧に守ってみせる。
そう思えば思うほどヘイゼルの頭は冴えていき、話しぶりは明晰になった。
「うちの砦の未婚女性に求愛をいただくのは光栄ですが、どうか、筋を通していただけませんか」
「筋、とは?」
このやりとりに、聞いていた砦の男たちはハラハラしたらしい。
だがヘイゼルはびくともしない気品と威厳でこう答えた。
「代理の方から申し込みをされるのではなく、求愛したいご本人から当の女性にお伝えくださいと申し上げております。その上で、これは部族間の政略婚ではなく個人の恋愛問題であるため、本人がお断りした場合は潔く諦めてもらいたいのです」
「なんだとっ」
これにはファラハニ部族の男たちも顔色を変えた。潔くない、通すべき筋を通していないと言われたも同然だからだ。
それに呼応するようにして、ヘイゼルの左右に座っている男たちの気配も剣呑なものに変わる。
だがヘイゼルはもう勝ちを確信していたので、ことさら柔らかく微笑んでこう言った。
「もしもこの点をご考慮頂けるのでしたら、わたくし共も、バルグドさまがついうっかりナマズの口の中に入れっぱなしでお忘れだった品について、思い出してみることができるかもしれません」
うわあ、とこの時、後ろで聞いていたウースラは思ったそうだ。
──あたしはねえ、この子、敵に回すと厄介だなあってこの時思ったわ。
ウースラはのちにしみじみそう語ってヘイゼルをむくれさせた。
どうしてですかウースラさん、ひどい。
口を尖らせるヘイゼルに、ウースラはこう返した。
──いや、だってね? あれって平たく言えばこういうことでしょ。
『言いがかりも大概にしないと、返すものも返しませんよ』
「口の中っ!?」
ヘイゼルの言葉を聞いて、副部族長は思わずといったように声を裏返した。
「お前、渡したと言っただろう!」
「わ、渡したよ!」
「口の中に入れたのかっ、まさか、ナマズの」
「渡したことには違いないよ、だ、だってアデラはそのままだと受け取ってくれないから」
「黙れ!」
バルグドはこの場で言うべきこととそうでないことの区別があまりついていないようで、男たちは顔を真っ赤にした。
そこにヘイゼルは追い打ちをかける。
「確かナマズの口の中に入っていたような気がするのですが、こちらの記憶違いであるかもしれません。砂漠は広いし、他の誰かの落とし物である可能性もありますし。……なにしろ、アデラは、一日に何匹もの獲物をとってくる狩りの名手ですので」
年配の男ふたりはこっそり目配せを交わし合った。
ここは分が悪いとでも思ったか、苦々しい顔でこう認める。
「よいでしょう、バルグドには改めて言い聞かせます」
「恐れ入ります」
えっ、えっ、と当のバルグドは身内とヘイゼルを見比べている。事態がいまひとつ飲み込めていないらしい。
持ってきて、とヘイゼルは傍らの男に指示を出すと、ほどなくその腕にいくつもの麻袋を持って帰ってきた。
「お忘れ物に相違ございませんか?」
勿論、否やがあるはずはない。
彼らがその袋を受け取るのを待ってヘイゼルは花のように笑った。
「よかったわ、無事にお返しできて」
後ろに座るウースラが小さく安堵のため息をつくのがわかる。
こっちの方こそよかった、彼らにナマズの口の中のものを返すだけで事が済んだ。そう思っているのだ。
「あら、もうお帰りですか? よければお茶を淹れ直させますわ」
「いや、けっこう」
そう言って立ち上がりながら、副族長は目をすがめてヘイゼルを見つめた。
「なるほど、覚えておこう。牙の片割れは美しいだけではなく弁も立たれるのだと」
「──それは、どうも」
ヘイゼルが頭を下げると銀の飾り物が揺れて音を立てる。
実は、さっき、そのままのいでたちで交渉に臨もうとしたヘイゼルはウースラに腕をつかんで引き留められたのだ。
──お待ち。そのままの格好で行くんじゃない。
そして女たちが腕によりをかけて、着替えさせ、髪を結い、化粧を施し、最後にアクセサリーで飾り立てた。ヘイゼルはされるがままでいるしかない。
アーモンド形の瞳を引き立たせるように丁寧にアイラインを描かれながら、あのう、これってどうしても必要なのですか。とやんわり異を唱えるヘイゼルに、ウースラは頑として主張した。
──美しいことも武器のひとつなのよ。
そう言って。
「あなたのことは覚えておこう。改めて、お名前を伺ってもよろしいかな」
「ヘイゼル・ファナティック・アクラムと申します」
言ってしまってから、あっと思った。
ヘイゼルもほっとして気が緩んでいたのかもしれない。
内心で冷や汗をかきながら彼らを見上げたが、副族長たちは表情を変えないままつつがなくその場を立ち去った。
(失敗したかもしれない……どうしよう)
だが砦の女たちは、彼らの姿が消えると同時に、わっとヘイゼルに抱きついた。
「もうっ、この子ったらー!」
「裏で聞いててひやひやしたわ!」
「ねえ、バルグドが持ってきたブツ、さっき持ってこさせたでしょう」
はい、とヘイゼルはうなずく。
「さっきどうしてああ言ったの? 私たちが使いこんでるとは思わなかったの?」
「あのう、使うわけがないと思って」
ヘイゼルが答えると、女たちは指を鉤型に曲げて絶叫した。
「ぎゃああ、なにその決めつけ!」
「使ってたらどうするのよーっ」
「アデラさんが教えて下さいました。大掛かりな買い出しは満月と新月だって。どちらもまだ先だし、だとしたら使う理由もないと思ったんです」
女たちは額を押さえたり天を仰いだりしている。
「お姫さまかと思ってたら、けっこうな博打を打つ子だったんだね……」
「まあなんにせよ、よかったわ。多分もっとも理想的な形で終わったんだろうし」
「嘘みたい、あの頑固でプライドの高いファラハニの男たち相手に」
「あ、あたし足が震えてきた。だって下手したら戦になるところだったよね? あっちはその気で来てたよね絶対?」
みんなほっとしたのか、口々に言う。
騒々しいのは女たちだが、男たちも集まってきて無言で背中を叩き合っている。
そんな彼らの真ん中でヘイゼルは小さく挙手をした。
「あのう……できたらひとつお願いが」
「なによ!」
「なんでも言ってごらん!」
それなら、とヘイゼルは恥ずかしそうに口にした。
「セイグラムのところにある本をね、借りてもいいかしら。ベッドで読みたいの」
砦の面々はこれを聞いて一瞬静かになった。
「──いいけど」
「あれを?」
「寝る前に?」
気が知れない、どうかしてる、と全員の顔に書いてあった。