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どんなことにも慣れってあるのね

「これを全部、アデラさんがひとりで……?」

「そうねー」


 鹿、砂漠ギツネ、大トカゲ、あとこの間も食べた大ナマズ。

 今日一日でアデラが捕ってきた獲物のラインナップを見て、ヘイゼルは目を丸くした。


「またナマズあるの……」

「あたしもう嫌だ、これの口の中見るの」

「バルグドの求愛ナマズでしょう、どうせ」

「そうなんじゃない、だって種類もまったく一緒よ」


 女たちはかまびすしい。


「同じものを何度も何度も……」

「こういうところがおおざっぱだってのよ、あいつは」

「それより見てよ、アデラが打った矢のあと」


 すでに血抜きは済ませてある砂漠ギツネをひょいと片手で女のひとりが持ち上げる。

 生々しくだらんとした狐を前に、ヘイゼルは一瞬おののいたが、女たちはあちこちから手を伸ばして検分している。


「確実に目を狙って当ててるね……」

「一撃だわ。どんな集中力と視力してんの、あの子は」

「狩りに集中してないときついんだろうねえ」


 女たちが口々に言う内容はヘイゼルにとってはよくわからない部分も多い。それでも、アデラがすぐれた狩り手であることは一目瞭然だったので、女たちが沈黙した頃合いを見計らって言ってみた。


「アデラさんって、すごいんですね」


 すると女たちははっとしたように顔を見合わせ、それから一斉に笑顔を作った。

 あからさまに、作ったことがわかる笑顔だった。


「そ、そうね。確かにすごい」

「この子はうちでもトップクラスの狩人だから」


 女たちの返事はなにやらすっきりしない。


 すっきりしないと言えば、アデラ本人もそうだ。ふと顔を合わせた折に、ヘイゼルを認めてびくっとする。


「あの、お疲れ様でした」


 そうヘイゼルが声をかけると、ありがとっ、と彼女は返す。

 返すのだが、決して目を合わせようとはしないのだ。


 歓迎されてないのかしら? と最初ヘイゼルは疑ったが、そういうわけでもないようなのだった。


 砦の男女たちはおおむね親切で快活で、ヘイゼルの名前もすぐに覚えてくれて、どうだい慣れたかい、体調はなんともないかいと声をかけてくれる。

 彼女が生まれつき体が弱いことを、前もってアスランが話してくれていたらしかった。


「ところでヘイゼル、うちの料理は口に合う?」

「夜は眠れてる? 寒くない?」

「男たちが無礼なことしてない?」


 女たちは今も絶妙に話題を変えて、ヘイゼルを気にかけてくれる。


「砂漠って年中暑いイメージあるけど、違うからね」

「冬はものすごく冷えるし、乾燥するから」

「喉が弱いんだっけ。乾燥しないように濡らした布を垂らすといいよ」


 ひとしきり口にしてしまってから、はっと思い出したように顔を見合わせる。


「そうだ、そういえば王女さまなんだっけね……」

「あたしたち、なんて呼べばいい?」

「ヘイゼルって呼んでください、もちろん」


 そうヘイゼルが返すと、女たちは獲物の上に身を乗り出してきた。


「それほんと?」

「はい」

「ほんとにほんと?」

「はい」


 ヘイゼルがうなずくと、女たちは目に悪戯っぽい光を浮かべて彼女の手をとった。


「じゃあおいでヘイゼル。面白いもの見せてあげる!」


 獲物の処理は他の女に任せたうえで、数人の女たちがヘイゼルと手をつないだまま砦の上部へ向かう道へと歩いていく。


「あ、待って。そっちはこの子通れないわ」

「そっか。じゃあ遠回りだけどこっちから行こう」


 そんなことを言い交わし、たどり着いたのは見晴らしのいい踊り場だった。


 砦は天然の要塞のような形をしており、もともとあった堅固な岩を長年かけて風と自然がえぐりとった洞窟のような作りをしている。そこにさらに手を加えて、人が通りやすいように階段や踊り場を作っているのだ。


 ヘイゼルが連れてこられたのは、大きな窓のような場所だった。

 窓といっても上下は人ひとり通れるほど長く、逆に左右はかなり狭い。


 そしてなによりもヘイゼルが驚いたのは、地面との段差がほんの少ししかなかったことだった。これでは、ちょっと足を踏み外したら落ちてしまう。


 下を見てごらん、と女たちが身振りで言うのでおそるおそる覗いてみると、はるか下に子供たちがいるのが見えた。


 彼らが張り付いているのは斜面というのもはばかられるような断崖絶壁だ。

 見たところなめらかで、手掛かり足掛かりになるような凹凸も見当たらないのに、子どもたちは果敢にそこをアタックしていくではないか。


「ひっ」


 思わずヘイゼルは喉から声を漏らした。


 ここからだと、子どもたちの顔の区別はつかない。だが最下部から子供たちが身ひとつで登っている様子はよくわかる。

 子どもたちはおそれげもなく、大胆に斜面に手足をかけて、それぞれのルートをとっていく。


 その様子を指さしながらヘイゼルは大きな声を出した。


「壁じゃないですか!」


 彼女にしては珍しく語彙力がとぼしい。

 見たもののショックが大きすぎたらしかった。


「ヘイゼル、あの子たちに手を振ってあげてよ」


 そんな彼女をよそに女たちが言うので、ヘイゼルは身を乗り出して小さく手を振ってみた。

 すると、下からも手が振り返されるではないか。


「手、手を離してますよおお!?」


 両手をぶんぶん振り返すつわものまでいるので、ヘイゼルは窓から上体を引っ込めて再び大きな声を出した。


「あんな、ヤギじゃないんですからああ!」

「それ、あいつらには褒め言葉だよ」

「あああ滑ってるじゃないですか、あぶなあああいっ」


 ヘイゼルが悲鳴をあげたが、女たちは動じない。


「大丈夫よ、ここの子どもたちは全員ああやって育つから」

「そうそう、落ちやしないから平気」


 なんだかそれに似たセリフ、前にも聞いたことがあるとヘイゼルは思った。


 かつてヘイゼルが王宮の北の塔に軟禁されていた時、アスランもサディークも平然と塔の外壁を登ってヘイゼルに会いに来てくれたことがあった。


 あの時は驚いたものだが、そうか、これが普通の子どもたちの暮らしぶりだというのなら、あれにも納得できる。

 なにしろ子どもたちが登っているのは、ヘイゼルの目にはつるりとした垂直の壁にしか見えないのだ。


(み、見るのが怖い……見てるだけでも怖い)


 そう思って視線をそらした先に、アデラがいた。

 少し離れた別の窓だが、目が合ったのがはっきりわかる。


「──こんにちは」


 ヘイゼルは口にしたのだが、アデラは急いで視線をそらした。まるで、ヘイゼルと視線が合ったのをなかったことにするように。

 のみならず、窓辺からきびすを返してその場を離れた。


 確かにアデラだと思ったが、間違えただろうかと思ってヘイゼルは尋ねる。


「……今の、アデラさんですよね? いつもたくさん狩りして下さる」

「うん、アデラだね」

「あの子の態度、あれはよくないね」

「あたし行く」


 ひとりの女がひょいと窓辺に足をかけ、向かい側の窓まで飛んだ。ヘイゼルが止める暇もない身のこなしだった。

 彼女は危なげもなく向こう側に着地すると、アデラ待ちなさいっと言いながら走って姿を消す。


「い、い、今の……」

「うん、そのうち慣れるよ」


 穏やかな口調で言ったのはウースラだ。


 砦で暮らして数日のヘイゼルにもいくつかわかることがあって、このウースラは砦の女たちをまとめるリーダーのような役目をしているらしかった。

 身分や人種の上下はない砦の人々ではあるが、それでも自然と人望のあるものが周囲を束ねる位置に立つのはどこでも同じだ。


 見ていると、少し下の階で女はアデラを捕まえたらしい。こちらに戻ってこようとしている。細い細い足場を渡って。


 あああああ! とヘイゼルは内心で悲鳴をあげた。


 しかも女はアデラの腕をひっつかみ、後ろを見てガミガミなにかを叱りながら歩いているではないか。


 ──両側、崖なのに! 落ちたら死ぬのに!


「大丈夫、落ちないから死なない」


 ウースラがヘイゼルの内心を読んだかのように言う。

 そしてアデラが連行されてくると、彼女は静かな口調で告げた。


「はい、今からヘイゼルの世話役はアデラ、あんたにします」

「えええーっ」

「えーって言い方ないでしょ、バカ」


 アデラの腕を今もつかんでいる女が、もう片方の手でぱしっと彼女を叩く。


 そういうわけで、ヘイゼルの世話役はアデラということになった。


◇◇◇


 アデラは愛想がいいとは言えなかったが、ヘイゼルの知りたいことはどんなことでも教えてくれた。


 頭領であるアスランの仕事は主に他国との交易と社交であり、この砦で採れた鉱物をどこにどれだけ売ってなにを買うかを考えるのも仕事のうちであるということや、食料だの生活必需品だのは満月と新月の日に隊商都市サランの市場まで行ってまとめ買いをすることや、なにをどう重ね着すると砂漠の冬でも寒くないかということなど。

 砦の中に沸いている湧き水の場所にも連れて行ってくれた。


「すごい、こんな冷たくてきれいな水が沸いてるなんて」

「でしょ?」


 その時だけは誇らしそうにアデラは言った。


「この湧水があるから、ここではこれだけの人数が暮らせてるの。それだけに、昔はこの砦を奪おうとする部族が後を絶たなかったらしいけど」

「過去形で言うということは……それ、撃退なさったんですか」


 目を輝かせてヘイゼルが聞くと、アデラは胸を張って言った。


「あったり前でしょ。全員もれなく撃退したから今あたしたちはここで暮らしてるの」

「そうですよね!」


 ファゴットの森で暮らしていた時も、毎月ジャジャに王都で専門書を買ってきてもらって読むのが好きだったヘイゼルだ。アデラの話に胸の前で手を組み合わせて聞き入っている。


 これまではオーランガワード国内のことしか知らなかったため、他の地域、他の文化や歴史を知るのが楽しくて仕方ないのだ。


(アデラさんってやさしい人なんだわ)


 そうヘイゼルは思う。

 愛想がいいのとやさしいのとはまったく別のことだと思うからだ。


 かつて王宮の夜会でヘイゼルが発作をおこした時、周囲の人たちは愛想笑いを浮かべるだけでなにもしてくれようとしなかった。


 アデラはぶっきらぼうだが、必要なことはなんでも教えてくれるし、歩く速度もヘイゼルに合わせようとしてくれているのがわかる。たとえ遠回りになってもヘイゼルが通れない足場は通らない気遣いもある。


 やっぱりアデラはやさしい、とヘイゼルは思った。


「さてと、お姫さま」

「あの……ヘイゼルって呼んでください」


 だがアデラはヘイゼルの言葉が聞こえなかったように続けた。


「料理と裁縫。得意なのはどっち?」

「あの、どちらもあまり得意ではないです……」

「あっそう。じゃあこう考えてみて。す……っ、す」

「す?」

「ううう」


 アデラは急に口ごもったかと思うと、ぐっと唇を引き結び、両手も握りしめてぶんぶん首を振った。それから一気に言い直した。


「好きな男にしてあげたいと思うのはどっちよ!? 料理か、裁縫か!?」

「好きな男性、ですか……」


 そんなふうに考えたことがなかったヘイゼルは、視線を斜め上にあげておうむ返しに呟いた。

 するとアデラはさらにくわっと目を見開いて詰め寄る。


「アスランのことが好きでここに来たんじゃなかったの!?」

「す、好きです」

「だったらわかるでしょうがあ! 好きな男が自分の作った料理を喜んで食べてくれたら嬉しいのか、それとも、自分の縫った衣服を着てくれたら嬉しいのか、どっちよ!?」


 すごい剣幕で言われたヘイゼルがとっさになにも答えられずにいると、アデラははっとした顔になった。


 目をつむり、自分の額に手を当てて冷静になろうとする。

 そして、言葉を選びながら返事しようとするヘイゼルの前に片手を立てて発言を遮ると、言った。


「……ごめん」

「あの、いえそんな」

「今のはあたしが悪かった。……逆ギレだこんなの」


 ヘイゼルはかぶりを振った。


「いえとんでもない。私がなにもできないのは事実ですから」

「料理も裁縫も習ったことないの?」

「そうなんです。野菜の収穫の手伝いくらいなら、してましたが」


 これにアデラは太めの眉を寄せて奇妙な顔をした。


 由緒正しい王女さまが? 野菜の収穫? どゆこと? とその顔に書いてある。


「ですので、これからなんでも覚えますから、どうぞアデラさん、教えて下さい」

「ううん違うの。あたしも裁縫は得意じゃないの」

「得意じゃないってわかってるんなら、その子と一緒に覚えたらどうなのかしらー?」


 そこへ、音もなく現れて言ったのはウースラだった。

 アデラはびくっとして視線をそらす。


「あ、あたしはそのぶん狩猟の獲物で砦に貢献を」

「あと四十年たった時に、今と同じ言葉が言えるの?」

「うっ」


「同じように獲物が狩れるの?」

「ううっ」


「おばばさまと同じ年になった時、あたしが若い頃はそりゃすごかったんだよって、自慢ばかりする老人になりたいのかしらー?」

「うぐううう」


 アデラをきれいにやり込めておいてから、ウースラはヘイゼルに向き直って笑顔を向けた。


「ねえヘイゼル」

「はい」

「あなたはアスランが牙の片割れとして連れてきた人よ。砦の女王様でもある人よ。だから料理も裁縫も決して義務じゃないわ」


 その口調に押しつけがましいところは一切ない。


「だけど、できないからやらないってより、やろうと思ったらいつでもできるってほうがずっと上等だとあたしは思うの。だからあなたにその気があればぜひ教えたいのよ」


 どう? と微笑まれて、ヘイゼルは勢いよくうなずいた。


「もちろんです! どんなことでもやってみたいし、覚えたいです!」

「いい子ね」


 ウースラはにっこり笑うと、アデラに向かってくいと顎をしゃくった。

 話は決まった、四の五の言わずにあんたもついていらっしゃい、という意味だ。


 歩き出すウースラにアデラは慌てたような声を出す。


「あ、ねえっ。ちょっとそっちは」


 もの言いたげなアデラを無視してウースラはとある場所で立ち止まると言った。


「ねえヘイゼル」


 いくつもの断崖絶壁がまるで塔のようにいくつも分岐してそそり立つ、その分岐の場所にヘイゼルたちは立っている。


「ここを通れる?」


 ウースラに指さされたのは、思わず息を飲むような細い一本の足場しかない場所だった。


「え……っ」

「あなたも気づいているでしょ。この砦は内部構造が複雑で、すぐ目の前に見えている部分に行くだけでも、山ほど階段を下りて、細い道をうねうね通って、そしてまたのぼっていかなきゃいけないの。でもこういう場所を通れるなら話は楽になる」

「はい……」


 風が吹いて煽られれば、もしくはバランスを崩したらそれだけで下に落ちて死ぬ。

 この高さから落ちて命が助かるとも思えない。


 そこから下を見ただけで表情をこわばらせ、短い返事しかできなくなっているヘイゼルに、ウースラはなんでもないことのように言った。


「無理にとは言わないけど、ここをチャレンジしてみない?」


 あとでわかったことだったが、この足場は砦の中では初心者向けの場所だった。

 比較的難易度が低く、新しい仲間が砦にやってくるとまずここを挑戦させるのだという。


 だがそんなことは知らないヘイゼルは声をうわずらせて返事をした。


「は、はい……」

「ここが通れるようになると、砦の暮らしがだいぶ楽になるんだけどなあ」

「がんばります……」


 ヘイゼルの声は震えている。

 両手は胸の前で固く組み合わされ、足も硬直しているのが服の上からでもわかる。


 アデラはぼそっと後ろからささやいた。


「下を見ない。自分が行きたい先を見る。途中で立ち止まらない。以上」

「──はいっ」


 その声に後押しされるように、ヘイゼルが一歩踏み出した。

 一歩踏み出したらあとは楽だった。


 怖い、とも思わないうちにもう向こう側まで渡っている。

 頭で考えるよりも足が勝手に動いてくれたという感じだった。


「できた!」


 思わず大きな声を出すと、アデラとウースラがよしよしというようにうなずいてくれている。


 ヘイゼルはその細い足場をもう一度、今度は走るようにして戻っていくと、アデラの首にひしと抱き着いた。


「できた、できましたアデラさん!」

「ぐ、ぐるじい」


 興奮しているヘイゼルにウースラが聞いてくれる。


「怖かった?」

「はい! でもできました、楽しかった!」


 ヘイゼルはアデラにしがみついたままその場でぴょんぴょん飛び跳ねた。


「嬉しい、私にもできた!」

「ぐるじい、って……」


 下のほうからは、砦のぼりの練習をしている子供たちが拍手をしてくれている。

 おおーお姫さま渡ったぜえという声もあたりの岩に反響して聞こえてくる。


 ヘイゼルはなんともいえない達成感と幸福感でいっぱいになって、見かねたウースラがやんわり止めに入るまでずっと、アデラの首にきつくしがみついていた。


◇◇◇


「はい、これは練習用の布」


 裁縫レッスンはウースラの部屋で行われた。

 ハンカチよりも少し大きめの長方形の布を渡されて、ヘイゼルはうなずく。


「練習が終わったら、次はあなたの部屋着を一枚縫いましょう。それにも刺繍をいくつかして手が慣れたら、次はアスランの帯を縫うのがいいと思うの」

「帯ですか」

「そう、帯は結ぶものだからいいかと思ってね」


 練習用の布にはウースラがあらかじめ下絵を描いてくれていた。

 そこに、習った通り基本の針使いから刺していく。


 その横ではアデラがぶすっとした顔で針を持っている。


「飽きたあっ」

「頑張れ」

「もういやだあー」

「うるさい」


 始まっていくらもしないうちにわあわあ言い出すアデラを、ウースラは慣れた様子でいなしている。


 そのやりとりを聞きながら、ヘイゼルはふと思った。

 そういえば、アスランとずっと会っていない。


 彼はというと、ヘイゼルをこの砦に連れてきてから、一晩だけ、時間をかけて心を込めて愛し尽くすと、「どうしても行かないといけない場所がある」と言い残し、腹心の数人だけを連れてまたどこかへ行ってしまった。


 どこにいるのか、いつ帰るのか、危険なことはないのか。ヘイゼルにはわからないことだらけだ。


(私……もしかして、さみしいのかも)


 そんなふうに思うのは初めてだった。


 ファゴットの森で出会った時は、毎日当たり前に顔を合わせていた。アスランがそこにいるのがあまりにも普通のことだった。でもここでは違うのだ。


(そして、多分これからもずっとこの暮らしは続くんだわ)


 そう思い至った時、ヘイゼルはさみしさが心の奥からにじみ出てきた気がして、あわててそれを追い払った。

 この気持ちを見つめ続けるのはよくないという気がした。


 アスランはおそらく必要なことだからやっているのだし。遊びに行っているわけではないのだし。


(でも……危ないことはないのかしら。この前王宮の地下牢に閉じ込められた時みたいに、人知れず危険な目に合っていたらどうしよう)


 放っておくとそんな考えがどんどん沸いてきそうだったので、急いでヘイゼルは、幼い頃から育ててくれたガーヤの教えを思い出した。


『心配事があるときは、こう考えるんですよ、姫さま』


 口調まではっきり思い出せる。


『よくよく考えて、自分にできることがあるならすればいいんです。でも心配事ってのは大概、自分の力じゃどうしようもないことだったりするんですよ』


 そういう話をしてくれたのは冬が多かった。

 暖炉の前で編み物をしながら、訥々とヘイゼルに教えてくれたものだ。


『そういう時は、心配せずに、今できることをするんです』


 これはけっこうな高等テクニックですけどね、できるようになるとぐんと楽になるんですとも、姫さま。──と言って。


 ヘイゼルがねだったわけではなかった。

 心配なことがあるんだけど、こんな時どうしたらいいの──と尋ねたわけではない。だって森での暮らしは平穏で、ヘイゼルを脅かすものはほとんどなかったのだから。


 だからガーヤがそんな話をしてくれている時、ヘイゼルはこう思っていた。

 ガーヤは自分に伝授してくれているのだと。


 いつかヘイゼルがひとりになった時、少しでも役に立つように、自分の知っていることをすべて伝えようとしてくれているのだと。


(今できること……)


 ヘイゼルは呼吸を整えで、長方形の布に目線を戻した。

 背筋を伸ばし、改めてひと針、ひと針、刺していく。


 自分は世間知らずだし、なにもできないから自信なんてないけれど、ガーヤのことは信じられる。

 だから、ガーヤが教えてくれた通りにしてみよう。そう思った。


「うん、いいよヘイゼル。その調子」

「本当ですか?」

「うん。縫い目が均一で変に力も入ってない」


 まだまだ下手くそなことは自分が一番よくわかっている。だがヘイゼルは、そうやって褒めて励ましてくれようとする気持ちが嬉しかった。


「手がゆっくりなのは慣れてないせいで、これはやってるうちに自然と早くなるものだから。……って、こらああアデラ! 逃げるんじゃない!」


 ウースラが怒鳴り飛ばしたが、アデラのスタートダッシュのほうが早かった。


 ウースラが立ち上がって戸口のところに立った時には、もうアデラの姿はどこにもなかったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 砦の子供たちや女たちの様子に、ヘイゼルと一緒になって「あぶないからぁあああああっ!」って内心叫びながら拝読しました。 光景が目に浮かぶようで、すごくハラハラしました……! >好きな男にし…
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