求愛ナマズとアデラの失恋
砂漠の砦に戻ってきたアデラは、今日の獲物をどさどさ下ろした。
それを受け取った女たちが中を確認して眉をひそめる。
「この砂漠のどこをどう探したらナマズなんている?」
「あんたはどうしているはずのない獲物を平気でとってくるの?」
アデラはというと、今日一日走ってくれた馬から馬装を下ろしながらえっへっへと笑っている。
女たちはその笑いだけでぴんときたようだ。
「あんた、また求愛されたの?」
「貢ぎ物だけもらって、相手のことは振り切って帰ってきた、で合ってる?」
女たちの追及は的確で容赦がない。
アデラは日々の狩りで鍛えられたシャープな頬を膨らませた。
「なによー。文句あるなら食べなくてもいいよー」
「文句じゃないけど」
「食べるけどさ……」
砂漠では新鮮な魚介類はめったにない御馳走で、その上この種のナマズは味もいいため全員の好物なのだった。
「あたし悪くないもん。だってくれるっていうんだから」
アデラは長めの髪を軽くゆすると砂と埃を払い落とした。
「あたしに追いつけない男の方が悪いんだよ。だいたい、砂漠の男のくせに馬に乗るのが下手だなんて論外」
手早く馬の世話をし終えると、アデラは砦の中へ入っていってしまう。
残された女たちはひとかかえもありそうなナマズを前に顔を寄せ合った。
「これ、いつものように相手は結納品のつもりだったんじゃないのかしら。かなりのでかさだし」
「うわっ、口の中見て」
「どれどれ」
持った手応えがやけに重いと感じたひとりが口の中を覗いてみると、中には麻袋に入った銀貨と装飾品が突っ込まれていたので、女たちは揃ってげんなりした。
「うわぁ……」
「これはあれだね、近々、結納品をもらうだけもらって音沙汰がない、どういうことだって苦情来るパターンだね」
「そうねえ」
だが、アデラが一方的に悪いのではないことも彼女たちはわかっている。
女のひとりは人差し指でナマズの口を大きく開かせた。
麻袋はナマズのねばついた体液で光っている。女たちがそれを見ていやーな顔をした。
「大体、ナマズの口の中にこういうもの普通入れる?」
「砂漠の男ってこういうとこあるよね、おおざっぱっていうか」
「で、アデラはそういう男嫌いだよね」
はあー。示し合わせたように女たちの口からため息が漏れた。
ナマズは確かに美味しいが、それとこれとは別の話だ。
「あたしだって嫌よ、こんな求愛の仕方する男」
「あーあ、アスランは今留守だし、苦情が来たら誰が対応するんだろう」
そこへ、特大の包丁を手にしてアデラが顔をのぞかせる。
「さあっ、鮮度が落ちないうちにさばいちゃうよー。誰か、揚げ油の用意してくれる?」
それもそうね、口の中のものはさておき、ナマズは手早くやらないと、と女たちが腰を上げる。
調理場で手分けしてナマズをさばきわけながら、手が早い女たちはおしゃべりも止まらない。
「そもそも、この子に追いつける乗り手がこのへんにどれだけいるかって話よ」
「なによ、うちにはいっぱいいるじゃない」
アデラが返せば、女たちは肩をすくめる。
「そりゃうちにはね」
「砦だもの」
「だったらあんた、うちの誰かと夫婦になるつもりあるの?」
やばい、風向きが妙な方向に行っちゃった、とアデラは口をつぐんだが遅かった。調理場の賑わいを察知して、砦の最高齢おばばさまが音もなく背後に近づいていたのだった。
「誰かいい男がいると思うんだったら言ってごらんな」
しゃがれた声にアデラがびくっと肩を震わせる。
静かに振り向くと、おばばさまの瞳の奥がぎらっと光っていた。
「だ、誰も」
「いつまでそうやって選り好みしてる気なんだい。あんたもう二十五なんだよ! いつ嫁に行ってもいいんだよ!」
まあまあ、まあまあおばばさま。
女たちはナマズの血と脂で汚れた手を動かして腰の曲がった老女をなだめにかかるが、しわだらけの顔は険しいままだ。
「砂漠の内外から求愛者はいっぱい来てるってのに! あんたっ、結婚する気あるのかい!」
「まあまあまあ」
女たちはおばばさまを止めにかかる。
アデラは秘密にしているが、女たちは全員わかっているのだ。アスランが先代の牙であるバルカザールに連れられてこの砦にやって来た時から、アデラは彼にずっと片想いしているということを。
◇◇◇
アスランが初めてこの砦にやってきたとき、確か六歳だった。
年よりも大人びて、どこか崩れた雰囲気を持つ男の子だった。左右で目の色が違う新顔の少年に、アデラたちは興味津々だったものだ。
(思えば当時からきれいな顔をしてたんだよねえ……)
最初はあまりしゃべらなかったが、そのうち段々彼の素性がわかってきた。
鱗病が蔓延したなんとかいう村の生き残りだということ。瞳の色が違うのはその病気の後遺症らしいということ。彼はそこから遠縁の親戚に引き取られるはずだったが、どこでも鱗病の生き残りを引き受けるのを嫌がり、最終的には孤児院行きになったこと。
孤児院ではかなり悪いこともやったらしく、なるほどそれで妙に崩れた雰囲気なのかと思ったものだ。
アスランの運動神経はいい方で、すぐに砦の暮らしにも慣れた。
そうなってからは、健やかに育った。
(同年代の男の子たちの中でも際立って頭がよくて、交渉上手で、人望もあって)
彼が三代目の牙になったのは当然の流れだと言えた。
そしてアデラの恋心が日に日に大きくなっていくのも。
◇◇◇
アデラがアスランのことを考えてぼんやりしていると、砦の出入り口に人の気配がした。仲間の誰かが戻ってきたらしい。
調理場から顔を出すと、遠目にもわかりやすいプラチナブロンドの青年が馬をつないでいるところだった。
サディークだ。
彼は先日仲間である印の金の鎖と、それに下げるコインをもらったばかりだった。
サディークがやけに慌てているのを見て、女たちの中からウースラが声をかける。
「お帰り。どうしたの」
「アスランがもうすぐ帰ってくるので……」
彼が言うのを聞いて、アデラの顔がぱっと輝く。
こういうところが、どんなに隠しても隠しきれていない理由なのだが、サディークは続けた。
「というか、私が先に来て事情説明をしておかないといけないなと……」
「まどろっこしいわね、なにがあったの?」
ウースラが腰に手を当てて問いただす。
サディークはちらりとアデラのことを見て、一瞬言いにくそうに口ごもったが、秘密にできるものでもないと判断したのか幾分小声で話し始めた。
アスランはもうすぐ砦に到着するが、ひとりではないこと。相手は女性で名をヘイゼルと言い、アスランがもうひとつの牙を渡した相手であること。そしてその相手はオーランガワード国の第五王女であること、などを。
「ええっなにそれ」
「嫁さん見つけてきたってこと!?」
女たちが蜂の巣をつついたようにざわめく。
アデラはというと、右手に包丁を持ったまま無言で目をぱちくりさせていた。
(だいごおうじょ? ……それ、なに?)
放心状態の彼女を案じた女のひとりがそっとアデラの手から包丁を手放させる。
アデラはされるがままになっていた。状況に理解が追い付かないらしい。
うわあ、これは確実に厄介なことになるやつだ。と、その場にいたおばばさまを除く女たち全員の顔に書いてあった。
「ちょっと、サディーク」
ウースラが指一本でサディークを呼ぶ。
そして互いにしか聞こえないような押さえた声で言った。
「まだなにか話してないことがあるわね、話しなさい」
「えっと……」
「隠してもだめ、わかる」
眼圧に負けてサディークは話し出した。どちらにせよアスランがもうじき戻ってきたらなし崩しにわかってしまうことだと腹をくくったらしい。
実は砦の皆には知らせていなかったが、アスランはオーランガワードの地下に監禁されていたこと。それを救ったのが第五王女のヘイゼルであり、ヘイゼル自身も生まれた時に王宮から棄てられ、森の端で細々と暮らしていたこと、アスランとはそこで出会い、当時背中にケガをしていたサディークの手当てを頼むなかで親しくなったことなどを。
「そういうことだったの……」
かいつまんで話を聞き終えたウースラは深いため息をついた。
「おかしいと思ったのよ、アスランはあっちの王と話し合いに行ってるはずなのに、本題そっちのけで嫁を連れてくるなんて」
「はい……」
「しかも向こうの国の王女をね……」
「すみません、監禁の件は決して言うなと口止めされていました」
「でしょうね、そんなこと知れたらうちの皆を誰にも制御できないもの」
もともと砦には、先代の頭領であるバルカザールをオーランガワード王国に毒殺されたという経緯がある。ただでさえ険悪な状況なのに、この上アスランが囚われたとなっては、武力衝突は必至である。
それをさせまいとアスランはここしばらく心を砕いていたはずなのだった。
「嫁ねえ……」
「すみません」
「あんたが謝らなくていいけど、でも、嫁に王女……。いや嫁が王女……」
さしものウースラもどうしていいのかわからず、思わず額を手で押さえてしまった。
多種多様な人間が集まることで有名なこの砦でも、王族を受け入れたことなどこれまでない。
そしてどうしたらいいか相談する暇もなく、アスランとその連れの馬が砦に近づいてきた。
手を貸してもらいながら馬から降りたヘイゼルを見て、アデラは思わず息を飲んだ。
このあたりでは見たことがないような透明感のある肌をしている。男物の外套を着ていても華奢な体つきがわかるし、赤みがかったブロンドの髪はやや崩れぎみで、余裕なくここまで駆けてきた証拠に額は汗ばんでいる。
とりすました感じはせず、砦の面々に紹介されて緊張気味に受け答えしている様子も愛らしくて、それらのすべてがアデラの胸をちくちく刺した。
アスランはというと、細やかに彼女に気を配っている。
「疲れただろヘイゼル。誰か、水もらえるかなあ……」
「あ、冷たくておいしい」
「よかった。うちの水はちょっと自慢できるよ」
あっ、とアデラは彼の顔を見て思った。
大切でいとおしくて仕方がないと、隠そうとしてもにじみ出ているのがわかる。
(これまで見たことがない顔してる……)
王女さまだというその子は、両手で器を包むように持って一気に水を飲みほした。
小さな手と白い喉が可憐だった。
それに対して自分はというと、大ナマズの血まみれで髪もぼさぼさだ。
アデラは唇を内側に巻き込むように口を引き結んだ。
さっきまではなんとも思っていなかった自分の格好が急にいたたまれないものに変わる。
「なんかいい匂いしてるね?」
「ああ、今ナマズを揚げてるの」
そんなアデラの内心には気がつかないアスランがたずねるのに、少しだけ冷静さを取り戻したウースラが答える。
ヘイゼルはそれを聞いて目を丸くした。
「ナ、ナマズ?」
「食べたことない? 身が淡白でうまいけど、皮の部分を揚げたのもうまいよ」
食べてみる? とアスランは皿の上からひときれとってヘイゼルの口先まで持っていってやる。
そのしぐさは、もちろん恋人としての愛情に満ちたものでもあり、またどこか保護者のようでもあった。
ヘイゼルはわずかに躊躇ったが、やがて口をあーんとひらいて、アスランにナマズを手うつしで食べさせてもらっている。
上品な頬と顎がもぐもぐと動き、ぱっとその表情が明るくなる。
「おいし……」
「あたしちょっと遠駆けしてくるからっ!」
かぶせ気味にアデラは大声を出すと、誰もなにも言わないうちにその場を駆け出した。
着の身着のまま、手には血がついたままだったがそれくらいの汚れは砂で洗えばとれる。
一気に砂漠を駆け抜けて大きなオアシスまで行くと、アデラはオアシスの脇にぺたんと座り込んでうわああああああんと泣き出した。
横では馬が水を飲み終えて心配そうに主を見ている。
もうやだ、あんなのむり、もうやだよおおおおおお。
だって全然違うじゃない、全然違う顔だった!
アデラが思い切り泣いていると、さっきまではあたりに誰もいなかったというのに、どこからともなく周辺部族の男たちが寄ってきて、口々にたずねてくる。
「どうしたなにがあった、話聞くぞ」
「男にフラれたのか? 仲間とケンカしたのか?」
「今夜一緒に寝るか?」
「うるさあいっ」
アデラは泣きすぎてひび割れた声で怒鳴り返す。
「あんたたちなんか呼んでないんだよっ、この、揃いも揃ってデリカシーのない野郎どもがっ」
言いながら素早く馬にまたがり足で合図すると、馬は即座に走り出す。
「砂漠はこんなに広いのに、なんでひとりで泣ける場所もないのよばかやろうーっ」
アデラは泣きながら走り、風で涙が渇く暇もないほどぐずぐずになりながら、オアシスからは少し離れた岩場に向かった。
馬をつなぐと、身軽に岩の間をつたって上までのぼり始める。
その身のこなしは軽やかで、まるでロッククライミングのようだったが、アデラは一度も休むことなくあっという間に上までのぼってしまった。
大きな岩のてっぺんはちょっとした丘のようになっており、ちょうど日が落ちていくのが見渡せた。
膝を抱えて座り込むと、冷たい岩から砂漠の乾燥した冬の気配が伝わってきて体が冷える。
体を冷やすのはよくない。もうじき夜になるし、冷えた体と指先だとさすがにこの岩場を無事に降りられないかもしれないし。
それはわかっていたけれど、今はどうしてもひとりになりたかった。
ずっとアスランのことが好きだった。
彼のどこが好きって、見た目や知性を感じる話し方もそうだけれど、一番はなんといっても細やかな性格だ。
砂漠の男たちにありがちな直截すぎな気遣いはしないし、気づいてもいちいち口に出したりはしないんだけど、大事なことはいつの間にかさらりとわかってくれている、そんなところ。
(ちゃんとあたしを見ていてくれてるんだなって感じるから……)
そのくせ変なところで鈍いんだけどね、とアデラは膝に顔をうずめた。
──でも、本当はわかってた。
その優しさは自分だけに向けられているのではないことを。
アスランは仲間全員に等しくやさしい。
(あたしは仲間としてとても大切に思われてるけど……でもそれは、恋とは違うものなんだ)
優しいと恋心は別のものだ。
改めてそう考えるとまた涙がじわりと浮かんでくる。
でももういい。思い切り泣いてもここでは誰も見ていない。
アデラは泣いて泣いて、泣き疲れたかと思ったらまた思い出したように泣いて、そんなことをしていた時、ふと人の気配を感じた。
この大岩をのぼってこられるのは砦の人間くらいのものだ。
下をのぞき込む勇気はなかった。
アスランだといい。
あたしがいなくなったことを心配して探しに来てくれたんだといい。
「──アデラ」
でも違うことくらいわかってる。
ひょいと顔をのぞかせたのはウースラだった。
彼女はアデラと同じくらい身軽に岩のてっぺんにやってくると、隣に腰掛けた。
「帰ろう」
叱りもせず、お説教もせず、ただそれだけを言われた。
「……うん」
「いい子」
そっと頭を抱き寄せられて、その手のひらが温かくて、それでアデラはまたちょっとだけ泣いた。
結局その日、アデラが砦に戻ったのは深夜遅くのことだった。