思い付きの行動は後が怖い
数ある姉の行動調書から、件の日時のものを取り出す。そのまま王子殿下に手渡した。
「その日は、姉は学園に来ておりません」
「なんだと?」
「以前から王立孤児院の慰問の話が出ていたのは覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
「姉が殿下の婚約者として、慰問に伺いました。それがこの日です。朝に両陛下と打ち合わせをして、ほどなくして孤児院に向かい、王宮に戻った後は報告書を作成し、夕方には再び両陛下にお目見えし報告をしております」
彼女を見た者のリストも一緒に載せている。眉が下がるのが見えた。出鱈目だと騒ぎ出す取り巻きにやれやれと内心溜息を吐く。引き際を弁えていないのは唯の愚か者だ。
「もし、この資料の証人が気に入らないようであれば、警備はたくさん付いておりましたし、新たに証人をお探しください」
「ローズ嬢がアザリア嬢を突き落とすことが出来ないのは理解した。犯人は別で探すとしよう。しかし、些か証拠が出来過ぎではないか?」
さすが。王子は屑だけど、馬鹿ではないのよね。婚約者から3つのファイルを受け取る。
「アザリア様が怪我をされた日は、その近辺で唯一出席義務のある実習がない日でした。そのため姉は慰問に向かうことになり、アザリア様は生徒会の活動に精を出し、犯人は実行したのだと考えられます」
そう、その日に計画を立てている情報をあらかじめ仕入れていた。彼らの企みを聞いてしまってからは学園内に侯爵家の手の者を潜ませておいたからだ。勿論父には許可を得ている。不穏な噂を聞き入れたため学園内を調査したいという名目で目ぼしい人材を借りたのだ。
それゆえ姉がその日に向かうように提案した。姉だけでは仕方ないので家族の食卓で話題提起した。父が同意したため陛下に奏上し、無事に慰問の話が成立した。王子殿下は姉の動向など注視していないと侮っていたが、もし日程を改めるのであればそれはそれでよかった。だって。
「姉は殿下の婚約者になってから、“誠実”な行いを求められています。そして同時に、危険から身を守るためにも護衛と監視を兼ねた者が付いています。そして、彼女の行動はこうして調書として纏められている。何かあった時に身を守れるように、何かやらかしてしまった時に証明ができるように」
と言うわけである。姉が学園にいない時にでっち上げてくれればラッキー! たとえそうでなくても姉の居場所は筒抜けということ。
「学園に入学する1年前から昨日までの3年間の素行調査のファイルはすべて別室に用意してあります。私が持っているものは侯爵家所有のものですが、王家の影も付いているので王家にも同様なものがあるかと思われます。照らし合わせてみればよろしいかと」
さすがに殿下もここで姉の仕業だと声を荒げるようなことはしないはず。そろそろ潮時だろうか。
「アザリア嬢に危害が加えられたことは事実だと思います。姉が一部に関与していることもまた真実でしょう。しかし、彼女に起こったことが全て姉によるものか否かは一考の余地があるかと存じます。公平な判断を期待しております」
姉を排除しようと盛り上がっていた空気は冷めたように思える。ここでお開きにして、この証拠をもとに調査を行い、結果は後日に改めた方が賢明だろう。
それなら彼らがアザリア嬢を守ることに必死で短期間に調べたために根拠不十分だったということにできる。所詮学園内の出来事なのだからそこまで傷を負うことはないだろう。
学園外で調査となれば正式な者が派遣されるし、姉が一方的に排除される結末にはならない筈だ。
ただ、ひとつだけ懸念がある。
元鞘に戻る可能性が残されていることだ。
姉に温情もかけずに排除しようとした王子がまた同じことを繰り返さないとは思えない。
姉が王子を慕っているのは恋愛感情なのか、刷り込みなのかは分からないけれど一旦冷静に戻ってもらいたいのだ。恋に盲目なまま、流されてほしくなかった。幸せを願っているから。だから私は王子殿下と距離を詰めた。
(ごめんね、お姉さま。こんな手段しか取れない情けない妹を許して欲しい)
彼にしか聞こえない声で囁く。
「 」
それまでほとんど感情の動かなかった彼が激昂する。そして、振りかぶられた左腕をモロに食らって私は倒れ込んだ。
一瞬、視界がスパークする。痛みよりも衝撃の方が強かった。鬼畜か。平手なだけマシかもしれない。
歯が折れないように、衝撃を吸収できるように軽く受け身も取ったけどそれだけで耐えられるようなものじゃなかった。遅れてズキズキと痛みを訴えてくる。頭が少しクラクラするから脳震盪を起こしているのかもしれない。
誰もが唖然とする。王子殿下は冷徹な面を持ち合わせるものの、暴君ではない。
女性に手をあげるなんて信じられなかった。
流石に不味いと取り巻きも王子を押さえる。息荒く呼吸をする彼は口汚く罵ることはなかったものの、未だ興奮は抑えられていないようだ。奥歯を噛み締めて激情を堪える彼を見上げる。
申し訳ないことをしたとは思う。しかし、姉が王子を色眼鏡で見ないように仕向けるにはこれが1番手っ取り早かった。
姉が王子を慕うのは一種のマインドコントロールに掛かっているようなものだ。淡い恋心は王妃教育や世間に揉まれて執着に変わってしまっている。愛する者のためでなければやってこられなかった、と言うべきかしら。
これに関しては教育係が悪いわね。
浮気をされても姉のような性格では自分が悪かったのだと思いこむ。自分に引き留める魅力がないからだと。そんな者にあの男が悪いと言っても更に反発を生むだけ。
それなら王子を幻滅させるしかない。姉は義務や誇りを大事にしているが、家族のことも大切に思ってくれている。私が何を言ったのか聞き取れなかっただろうから、彼は私の正論に憤って力任せに殴ったと思うだろう。
姉は王子に目もくれず後ろに倒れ込んだ私を抱き起こす。目元は潤み、手はわなわなと震えながらハンカチを口元に当ててくる。ハンカチ? 少し離すと血が付いていた。
平手打ちを甘く見ていた。誘拐はされたことあれど、真正面から殴られたことはないから、ここまでとは。
先程から微動だにしない婚約者を疑問に思い、上を向くと殺気立った彼が視界に入る。王子を今にも殴りそうな血走った目をしていた。いや、殴るだけで終わるかしら。まずい。
スラックスを引っ張る。こちらを見てくれたので抑えてと話そうとして、血が口から溢れた。彼は顔色を変えて私のそばにしゃがみ込む。
そうだ、口の中も切っていたんだった。
堪えようと思った瞬間、変な所に入ってしまい咳き込む。咳き込むほどに血がハンカチに収まらず、ドレスを汚す。
どこかで悲鳴が聞こえた。辺りは騒然としている。中々咳は治らない。姉は私のそばで泣いているし、婚約者はしゃがみ込んだ体勢で背中をさすってくれている。姉が泣いたのを見たのはいつぶりだろう。もしかしたら、婚約者が決まる前かもしれない。
何か随分と大袈裟になってしまっている。周囲はバタバタと慌ただしく走り回っているようだが、上手く呼吸ができず酸欠になりかけている私にはよく分からない。目がだんだんぼやけてきて、視界が暗転した。
目が覚めた時には、侯爵家の自室のベッドで眠っていた。片手は姉に包まれ、もう片方は弟に握られていた。ベッドに突っ伏する2人を穏やかな気持ちで眺める。姉弟3人揃うのはいつぶりだろう。
ドアの近くに控えていた侍女が私の目覚めに安堵の息をつくと、そのまま部屋を出る。医師を呼びに行ったのだろう。
室内は外からの明るさで満ちている。一発食らうか激怒されるかを覚悟して王子を煽ったが、まさかここまでとは思わなかった。彼らの考えなしの行動を私が非難することは出来ないな。緊張と、睡眠不足が祟ってろくな判断ができなかったのだろう。と、思いたい。
拍動するようにズキズキと痛む頬、鈍い痛みの走る頭、ヒリヒリする口内。きっと、頬はすごいことになってしまっているのだろう。顔を見るのも怖い。
廊下をバタバタと走る音がする。侯爵家では珍しい騒々しいそれに、驚きながら待つ。蹴破るように入って来たのは両親と婚約者だった。
その後のことは思い出したくもない。説教の嵐だったし、姉弟には泣かれた。婚約者の圧のこもった視線と、それでも安堵したような表情に申し訳なさが募った。
「スイレン」
両親は今後の打ち合わせで王宮に赴き、姉と弟は散々泣いたことを恥じたのか部屋に戻った。残ったのは婚約者のみ。いや、2人はきっと気を利かせてくれたのね。
「ごめんなさい」
「…何を言った」
ずっと強い視線を感じていた。彼は分かっているのだ。私がわざと殴られたことに。とてつもなく怒っている。
「なぜ、避けなかった」
当たる必要はなかった。殴るところを見せるだけでよかった。今気付いた。避けられたかは別だけれど、私は逃げるつもりはなかった。評判が落ちるだろう王子に嵌めた罪悪感を抱いていた。だから殴られたが、逆効果に思えてならなかった。
頭を抱える。私はなんてことをしたんだ。
手が伸びてくる。俯く私の顎を優しく持ち上げる。彼と目が合った。壊れ物を包み込むように頬を撫でられる。
「痛むか」
「いえ」
ペチンと湿布の上からの軽く叩かれて私は跳ね上がった。悲鳴のような言葉にならない声が漏れる。
「な、何をするんですかっ!!」
「痛いんじゃないか」
「そりゃそうですよ」
怪我人になんて仕打ちを! 鬼か! そんな思いで見上げると、交わった視線に息を呑む。何で自分が怪我をしたような、痛々しい顔をしているの。
「自分を犠牲にするような方法は取らないで欲しい」
懇願されて、言葉が出ない。
婚約者の両親の状況を変更しています。亡くなった→事故に遭った