笑い声は絶えず、
百物語をしよう。
携帯を開くと受信メールが一件。何かと思えば、そんな短い文章と日時、それに一つの住所が記されたメールがあった。差出人は、楠木さん。
『どういうことですか』
そのメールを読んだ直後、僕は楠木さんにやっぱり短く返信した。
返事は五分後に返ってきた。
『どういうことと言われても。百物語をする、それだけだよ。その日は駄目かな? だったら申し訳ないね』
『いや、大丈夫ですけど。ただ何で百物語なのかって』
『何でって……笑っていくためさ』
……笑っていく?
楠木さんのいうことは、たまに分からない。
『でもこの場所って、楠木さんの家とかそういうところじゃないですよね?』
メールを打つ合間に地図で調べたのだが、住所は民家ではない。
森の中だった。
『雰囲気は必要だから。そこには、もう百年くらい前から誰にも使われていない荒れ寺、があるんだ。ちょっと、拝借する』
いいのか、それ……。
『期待を無駄にさせないように準備に大忙し』
楠木さんが色々な小道具をせっせと用意しているシーンが、目に浮かんだ。
楠木さんのことを僕はよく知らない。
知っているのは、今のところ大学生だってこと、物凄く交友範囲が広いってことだけだ。
僕が知っている限り、売れっ子子役の七歳児から六十代のホームレスまで、実にバラエティ豊かな人々が彼を「何でも話せる親友」と評している。
突飛だけれど、人望はある人なのだ。
楠木さんと知り合ったきっかけは、確か間違いメールだったと思う。それがどんな内容だったかは覚えちゃいないが、そこからメル友になり、オフで会い、楠木ファミリー(という名のつるみ仲間)の一人になり、一年が経つ。
今じゃふとした時に遊びの召集がかかるくらいの仲良しだ。
楠木ファミリーのやることはいつも突飛だった。
その遊びは大掛りな時もあれば少々の隠蔽ですむこともある。
だから、百物語も――楠木ファミリーの遊びの一環なのだろう、と。
八月十二日、午後十時。
そこは、荒れ寺というよりは、お堂と読んだ方がしっくり来るような、屋根だけ派手な建物だった。
「おそいよ、君」
後ろからいきなり声をかけられ、肩に手を置かれ、思わずビビッて僕は遠ざかるように足を動かして後ろを振り向いた。
「おやおや、そこまで驚かなくても」
「……心臓に悪いんですよ、楠木さん。幽霊かあんたは」
楠木さんは「傷つくなあ」と快活に言った。
「さ、入りなさい。もう君以外は集まっているよ」
ひょいと手で強く、楠木さんは僕をお堂の中に放り込んだ。
お堂の中には、丸く輪を描いた八人の人がいた。なるほど、僕と楠木さんをいれて十人という訳か……。
人々が囲んでいるのは、十本ばかりの蝋燭だった。
……そういえば、百物語って言っていた割に、蝋燭はそれしかない。
「楠木さん、蝋燭、あれだけですか?」
「いやー、金がないんだ。横着した」
しすぎだろ、と思いつつ、輪に入らせてもらう。蝋燭で陰になっているのか、暗闇のせいか、人々の姿が見えにくい。
「さ、皆揃ったし、始めようか」
と、僕のちょうど向かい側に、楠木さんが座ったようだった。
「聞いてくれ。まず、そこにある蝋燭は、十本しかない。だから、雰囲気を出すため九一話目から消し始めてほしい。
あと、ここでは決して『笑って』はいけないよ。微笑んだり、笑い声を立てては、ならない」
「笑って? 何でですか?」
僕が聞くと、
「見てはいけないものを見たくなければ――」
と、勿体ぶった口調で楠木さんは言った。
「さあ、始めよう」
夏の夜には魔力が宿る。
魔力は語りに姿を変える。
百物語は、淡々と進んだ。
味わい深い語り口故に、時間が経つのを忘れ、ふと時計を見れば真夜中だった。
親には友達の家に泊まっていく、と言っているから、別段心配はしていないだろう。じゃあ何でこんな遅くまで自宅にいるんだと言われたら言い訳に困ったが、そこまでは追及されなかった。
「……彼は後ろを振り向いた。そこには、猫の首が転がっていたのさ」
そして今、九九話目が終わった。
「それでは最後の話に入ろう」
トリは、楠木さん。
中心には、随分と背の低くなった蝋燭が一つ。
「この、『不笑の寺』に伝わる、昔話だよ」
あるところに、一人の男がいた。
とてもとても心優しい男で、同じくらい優しい妻と共に、この森の近くに住んでいた。
あるとき、その妻は森まで薬草を採ってくると言って、行ったきり、帰らなかった。
その日が過ぎて、朝になっても帰ってこない妻を心配し、男もまた森に足を踏み入れ、妻の名を何度も呼んだ。
それでも、人の気配はまるでなく、ただ木が風にさざめく音がするばかり。
そうこうしている内に時が過ぎ、辺りは既に夜。男は、ひょっとしたら妻は迷っただけで、もう家に帰ったのかもしれないと思い、一旦家に帰ることにした。
と。
人の声がする。
男は耳を澄ました。それは、男と女の笑い声のようだ。
くすくす。ふふ。あははは。
けらけら。ひひ。きゃらきゃら。
聞いている内、男は、女の方の笑い声が妻の声に似ていることに気付いた。――否、女の声は、妻の声にそっくりだった。
男は、迷わず、笑い声のする方向――森の奥へ走った。
そして辿り着いたのは、一つの、荒れ寺だった。
窓から明かりが洩れている。
声は、先頃から女の声しかない。それでも、その声は間違いなく共に暮らす妻の声そのものだった。
妻の名を呼び、男がその中に入って見たものは、
あられもない姿で、発狂したかのように笑っている妻と、小刀で首を刺された、裸の僧だった。
男は、この寺で何が起こったのか分かった。聡明な男だった。
そして、快楽と悲しみと怒りの板挟みにあい、妻の心が壊れたことを知った。
僧が、妻に何をしたのかも。
男は、小刀を抜き取ると、なお笑い続ける妻を殺した。
妻はあっという間に事切れた。
そして、男もまた、その小刀を、自らに突きたてた。
それ以来、その寺で笑うと、――見たくないものが、見える。
蝋燭が消えた。
皆の姿が、よく見えない。
「あのー、楠木さん。それっておかしくないですか? ここで笑うと見たくないものが見えるって。小刀を持った男に殺されるとかならともかく」
因果関係がいまひとつ分からない。
「……男は、生きていたんだよ」
「え?」
「刺しどころが良かったんだろうね。死ななかった。そして助けられた。けど、彼もまた、狂った。狂って、寺に入った時の光景が頭に張り付いて――見たくなかったものが瞼の裏にあって――延々とループして。晩年、男は、ここで死んだ」
見たくないものが、見える。
「それは、男の呪いなのさ」
それで、終わりらしい。
「終わりましたね」
「終わったよ」
その声に、僕は思わず安堵の笑みを零す。
しかし。
そこから立ち上がろうとするものは、誰一人としていなかった。
「……楠木さん? 帰って、いいんですよね?」
楠木さんは、答えない。
そして、言った。
「笑っちゃったね」
「笑ったね」
「笑ったよ」
「笑わなければ」
「笑うなんて」
輪唱のように襲い掛かる、言葉。
「え……?」
だってアレ、所詮お話だろ?
迷信の、一つなんだろう?
「笑ってしまうとは」
「笑うのか」
「笑うの?」
「この――馬鹿野郎」
楠木さんの声と共に。
闇が切れて。
次の瞬間、僕は、森の中にいた。
「え?」
何だこれ。
あのお堂のような寺は?
楠木さん達は?
「ドッキリ、ですか?」
まずそう考えた。
ドッキリにしてはすごいテクニックだが、楠木ファミリーならそれくらいはやりそうだ。だって楠木ファミリーなんだから。
しかし、僕の問いかけに答えはない。
それから更に、いろいろな事を考えて、そして、僕は――――
楠木さんの顔も声も思い出せないことに、気づいた。
あの人、どんな顔だっけ?
どんな声で、どんな喋り方だっけ?
男性だっけ、女性だっけ?
そういえば、僕は楠木ファミリーと何をしたっけ?
……思い出せない。
ていうか、そもそも。
――そんな人、知り合いにいたっけ?
楠木さんの名を知ったのは、そもそも昨日の朝のメールじゃないか。
なのにどうして、その人の事を知っている気になった?
分からない。
分からない。
――一体あれは、何だったんだ?
僕は、何を見た?
「うわああああああああっ!」
僕が今までそうだと思っていたものが――見えなくなった。
見えていて欲しかったものが、見えなくなった。
「け、携帯……」
携帯の受信ボックスを開く。
新着メールが九軒。
差出人のところは、空欄。
『馬鹿者』
『馬鹿』
『死ね』
『愚か者』
『約束を破るから』
『貴様なんて』
『やってくれやがって』
『この野郎』
『住処を荒らした、報いを受けろ』
報い?
と、いきなり風が吹いた。
新着メールが更に一軒。
『そこにいる』
ぽん、と肩に手が置かれた。
数瞬後、聴こえたのは紛れもなく、僕の、高笑いのような、笑い声のような――