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第七十六話 温かい過去と冷たい未来

 始まりは、真っ白だった。

 記憶も、心も、目に映る景色さえも、全てが何もない。

 空っぽの部屋の中で、空っぽの自分がそこにいた。



 いや、空っぽだったのは自分だけかもしれない。

 壁に黒く四角い物体が設置されていたからだ。

 そこから音が発せられる。


『目覚めたかね?』


 掠れた低い音。

 それが初めて聞く誰かの『声』だった。


「誰?」


 抑揚のない高い声。

 これが自分の『声』だのだろう。



『君はこの部屋で私たちが出す問題を解いてほしい』

「問題?」


 首を傾げると、どこからか物音が聞こえた。

 見ると、部屋の隅に無機質な箱が置いてあった。


『その端末を自由に使ってくれたまえ』


 淡い光を放ちながら文字が浮かび上がっている。

 どうやらこれで問題とやらを解けということらしい。



「なぜボクが?」


 だが、引き受けるかどうかは別だ。

 正直、見ず知らずの相手の要求を受ける義理がない。


「ここはどこだ?君は誰だ?」


 疑問を投げかけ、最後に先程からずっと気になっていたことを問い掛ける。


「ボクは・・・・誰なんだ?」



 分からない。

 自分のことも何もかも思い出せない。

 何か大事なものが抜けているような感覚がする。

 それを一刻も早く埋めたかった。



『悪いが答えることはできない』


 だが返ってきたのは冷たい一言だった。

 その後、声は聞こえなくなり、沈黙が続くだけだった。


「・・・・・・」


 結局何も分からず、目の前の問題を解くことしかなかった。



 毎日、毎日、・・・・・・。

 繰り返される終わりがない日々。

 酷かどうかと聞かれても、それが分からなくなるくらい長い年月が経ったような気がする。



 気が付いた時には、それが当たり前に感じるようになっていた。

 自分の名前が何なのか分からないことも慣れてしまっていた。

 そんな毎日が終わることなど考えもしなかった。



 ある日、支給された固形食を食べた後、いつものように問題を解いていた。

 昔からそうだが、出される問題は大して難しくない。

 こんなつまらないことをさせて連中は何をさせたいのか、と時折思うことがある。



 だが、詮索する気にはなれなかった。

 言われたことを言われたとおりにやっておけば、衣食住に困ることはない。

 余計なことを考えるな。

 それが長年生きてきた中で出した答えだった。



 出題された問題の内、残すところ後一問になり、最後に取り掛かろうとした時だった。

 突然激しい轟音が鳴り響き、室内の照明が消えたのだ。

 端末の液晶モニターも真っ暗になった。

 何だ?と訝しげに思った直後、激しい衝撃と同時に意識が途絶えた。



 目を開いた時、景色は一変していた。

 四角く真っ白だった空間が、歪で暗い空間になっていたのだ。

 そして、身体中に今まで感じたことのない感覚がする。

 これは『痛み』か?



 別に痛みを患ったことがない訳ではない。

 腕や足を物にぶつけたり、指を切ったりした時だ。

 だが、これはそれとは比にならないくらい『痛い』。



 仰向けの態勢で起き上がることができない。

 何か上に乗っているのか?

 動かそうとするが、びくともしなかった。



 それからどれくらいの時間が経ったか覚えていない。

 最初の頃は数字を数えて経過日数を計ろうとしたが、意識が曖昧になり掛け失敗してしまった。

 ただ、自身が過ごしてきた時間と比べれば、大して長く感じなかった。

 痛みも、空腹も、呼吸も薄れていくようだった。



 これが『死』なのだろうか?

 それも悪くないと思った。

 でも、その前にはっきりさせておきたいことがあった。

 自分が何者なのかを。

 それが分からなくても、せめて名前くらいは知っておきたかった。


 全く、それくらい教えてくれても良かったのに・・・・・・・・・・






 その時、光が差した。

 瞼の裏からでも確認できるくらい眩しい。

 それから何か音が聞こえる。

 ゆっくり目を開けると、真っ白な光が瞳を刺激する。

 徐々に景色が見えるようになり、輪郭もはっきりになる。



「大丈夫か!」


 久しぶりに聞く人の声。

 でも、いつもスピーカーで聞いているものよりも鮮明だった。

 これが本当の『人の声』なのか?


「安心しろ!今手を伸ばすから!」


 そう言って、その人は手を伸ばしてきた。

 擦り傷ばかりでボロボロの手。

 自分でもそこまでなったことがない。


「掴まれ!」


 呼び掛けて、必死になりながら腕を伸ばそうとしてきた。



「・・・・・・」


 いったい何を思ったのだろうか?

 どうしてそうしたのかよく分からない。

 気付いていたら、自分も手を伸ばしていた。

 瓦礫に埋もれて動けない身体を必死に動かそうとした。



 そして、その手を掴んだ。

 初めて触れる人の手。

 肌の感触。

 体温。

 手の平で感じただけで、力が抜けていく。



「引き上げるぞ」


 声の主がそんなことを聞いてきたような気がしたが、全く耳に入ってこなかった。

 自然と表情が緩み、乾いていたはずの瞳が湿っていく。


 何なんだ・・・・・・これは、何なんだ・・・・・・。


 分からない。

 ただ分からない。

 勝手に目から液体が零れ落ちていく。

 なのに、悪い気分じゃなかった。



「あう・・・・ぅぅ・・・・・・ああぁあぁ・・・・・・・・っ」


 声にならない声を漏らし、光の中へと引き上げられていく。

 そして、その入り口に差し掛かった時悟った。

 これが人の優しさ、人の『温もり』だと____。


   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


「・・・・・・だいたい分かった」


 俺は一通りの話を聞き終えると、頼んだコーヒーを口にした。

 香ばしい苦みが、乾いた口を湿らせながら広がっていく。



「どうだった話を聞いて?」


 エリが重ねた手に顎を乗せて問い掛けてきた。


「まあ、想像以上だな。あいつのことだから生い立ちも特殊なものだと思っていたが、まさかここまでとはな」


 コーヒーカップを皿に置き、頬杖をつく。



「随分落ち着ているのね。滅茶苦茶動揺するのを期待してたんだけど」


 クスッと悪そうな笑みを浮かべる。

 本当性格悪いな。



「動揺してない訳じゃねぇよ。情報が情報だからな。受け入れるための頭の整理が全くできてねぇな」


 口ではそう言ったが、内心は滅茶苦茶混乱している。

 この先どうすればいいか、全く見当がつかない。

 だから、自分が今とれる行動も限られている。



「けど、今しなきゃいけないことははっきりしたな」


 これが善意なのか、それとも同情なのか。

 多分どちらでもないのだろう。

 強いて言うなら、現状維持に近い状態にしようとしている。

 俺の性格で、尚且マキナを繋ぎ止める方法は一つしかなかった。



「引き受けてくれますか?彼女のことを」


 あからさまにお嬢様モードで話し掛けてきた。

 相変わらず、エリは気味の悪い笑みを浮かべている。

 だから、何かを企んでいるように見えて仕方がない。



「まさか俺一人に全部責任を押し付ける気じゃねぇよな?」


 これからのことを考えると、俺一人でなんとかできる案件かどうか不安だった。


「まさか、あなた一人に全てを任せる訳ないじゃないですか。彼女は未来支部唯一の統制係ですよ?辞められたら一番困るのは協会ですからね」

「代わりはいないのか?」

「いたらこんな面倒なことしてないっつーの」


 飽きたのだろう、またいつも通りの口調に戻った。



「とにかく、今あの子を引き留められるのはあんただけなのよ。嫌でも引き受けてもらうからね!」

「へいへい」


 結局強制かよ。

 まあ、断るつもりはなかったから特に気にしないが。



 その後、話すこともなくなった俺たちは店を後にした。

 エリの奢りで。

 不本意だったが、本人が頑なに自分で払うと言うので仕方なく、自分が折れることにした。

 今度は俺が払おう。

 今度があるかどうか分からないが。



 俺はスマホを取り出し、チャットアプリを開いた。

 『急用ができたから帰りが遅くなる』と打ち込む。

 送信すると、スマホを締まってとある目的地へと足を運んだ。

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