榊麗也5
家に着くとなんとなく嫌な予感がした。意を決してドアを開ける。
「おー」
『おかえり』を『おー』に略す人を生憎僕は一人しか知らなかった。
「お母さん、帰ってきたの?」
「なによ、帰ってこない方がよかったの?お土産も買ってきたのに。」
けたけた笑いながらそう言うと金色と黒の四角い箱を差し出してきた。。チョコレートのようだった。
「それねカカオが普通のよりいっぱい入っていて、ポリ……ノールだっけ,それが健康にいいらしいよ。」
中途半端な知識が母らしいといえば母らしいのだが、どうせ聞いていても無駄なので自分の部屋に向かおうとした。しかし後ろ髪を引かれる思いが拭いきれなかった僕は一度振り返って尋ねた。
「栞見てない?」
「栞?そういえば見てないねぇ、まぁ、大学が忙しいんじゃないの?」
こんな時間まで?母親のくせに娘の心配しないのかよ。
心の中で毒づいた。刹那、それに返答するかのように母が言った。
「——それにしてもあんた栞のこと好きよね。栞の結婚にお父さんより反対しそう。」
僕は勢いよく駆け出して自室に向う。彼女の声が聞こえた気がしたがそんなことに構ってられないほど僕の心臓は波打っていた。
気付いたらベッドに座っていた。目を開けると、いつからここにいたのか分からなくなる
——世界が今,初まったのか?——感覚に見舞われた。
栞のことが好き?なに言っているんだ。姉弟に好きも嫌いも無いだろう。
そんなことを思っていても、栞のことが嫌いだと言うことを肯定することができない自分に憤りを感じた。同時にすべてがどうでもよく思えた。
その時だった。スマホが乾いた電子音でメッセージの受信を知らせてくれた。
『今日はごめん
拓也』
今はそんなことどうでもいいんだよ。
やり場のなかった怒りが全て拓也に向かった。
そうだ、お前のせいなんだ。みんなが神経を逆撫でするようなことを言うのも、母親が娘を心配しないのも、麗華に出会ったのも栞が誰かと一緒に歩いてるのも、そして今がこんなにも虚しいのも全部。お前の——
そのままベッドにに倒れた。
それから朝になるまで僕は起きることができなかった。
「麗也、起きないの?」
「う……ん」
懐かしい声が聞こえた。ゆっくりと目を開けると栞がいた。
「あれ、帰ってたの?」
「そうだよ。でもびっくりしたよ。帰ったらお母さんはリビングで寝ているし、麗也くんを探したら制服のまま寝てるし、いろいろ大変だったんだからね。」
栞の横顔をよく見ると目にはくまができて、髪も寝癖がしっかりとついていた。
「ごめん、今何時?」
「六時半だよ。お風呂入るよね?」
そう言われれば僕は夜ご飯もお風呂にも入っていない。ベッドから体を起こすと栞と一緒に階段を降りた。リビングでは母親がソファーに寝転んで静かに寝息をたてていた。
「お母さん、待っていてくれたんだね。私の帰りが遅いから。」
独り言のように栞は呟いた。
「ちゃんと夜ご飯まで作ってくれてたし、悪いことしたなぁ。」
暗に母親の優しさ。僕に伝えようとしている魂胆が見え見えで焦ったかった。
言うなら言えばいいのに。
脱衣所に入って制服を脱ぐ。風呂場入ってシャワーを浴びるとまとわりついていたものが落ちて体が軽くなった。
その時気がついた。
空のカップに水がたっぷり入るように僕の中に一気にそれは入ってきた。
栞がさっきから僕の目を見ていないことに。
シャワーの一定のリズムがなんとか僕を落ち着かせていた。
なんで?僕が何かしたのか?何かしたのは栞の方だろう!
シャワーを止めるとずぶ濡れの雑巾のように重かった。
ボディーソープを手に取るとガチャガチャとポンプを乱暴に押す。洗っても洗っても新たに染み付いた汚れは取れなかった。とうとう、洗うことがめんどくさくなった僕は、もう一度シャワーを浴びて風呂場を出た。
服を着てリビングに出ると栞が朝ご飯をテーブルに並べているところだった。
「あれ、もう出たの?」
笑顔だった。その純白無垢な笑顔は僕には眩しすぎる。
「うん。早くしないと学校に遅れるからね。」
テーブルにはトースト、スクランブルエッグそしてコーヒーがあった。
「おはよう。」
優雅にコーヒーを飲んでいた声の主は母親だった。
「おはよう。」
僕は母の隣の席に着いた。朝から母の顔は見たくなかったからだった。
「なによ、私の隣なんかに来て。」
僕は無視してトーストにかじりついた。まだいただきます言ってないでしょと栞にたしなめられたが、そんな状態じゃなかった。それでもコーヒーを飲んだらだいぶ落ち着いた。




