第七話 朔弥
ガッチャッ。
マンションのドアをそっと開けて玄関に入ると暗いはずの玄関に廊下の突き当たり、リヴィングへのドアの磨りガラスからの灯りが射していた。
靴を脱ぎリヴィングのドアを開ける。
「おかえり。」
穏やかな声がした。メガネをかけた優しそうな秋の夫、朔弥がソファに座ってテレビを観ている。
秋は驚いた。
「え。起きてたの?!」
「うん。飲み会楽しかった?」
「3時だよ?」
「うん。知ってるよ?よく飲んだねー?」
「うん。よく飲んだし楽しかったよ。」
秋は上着を脱いでキッチンで手を洗った。
「別に待ってた訳じゃないんだけど、子供達寝かしつけて一緒に寝ちゃって、遅い時間に起きちゃってさー。目が覚めちゃったから映画観てた。」
テレビには洋画が流れているが、それほど真面目に見ているようではなかった。
「あ。そうなんだ。」
「子供達はいい子だったよー。」
「ありがとうね、大変だったでしょ?」
「いや、難なく過ごしたよ。」
朔弥はテレビに流れる洋画を眺めながら言う。
「そう?!」
「うん。よく言う事聞いて早く寝たし。」
「...それは良かった、お陰で久しぶりにお酒飲んでゆっくり過ごせました。」
(パパにお願いした日に限って良い子だったりするんだよね...)
もしかしたら朔弥の気遣いかもしれないが、秋一瞬は日頃の自分の大変さが軽んじられた気がした。
「いえいえ、またいつでも苗ちゃんと行っておいで。」
「うん。ありがとう。」
秋の胸はジワッと何かが滲み出た感覚がした。
「私シャワー浴びてから寝るね、最後の店タバコの匂いがすごくて。」
「何軒行ったの?え?シャワー今から?!すごいね!」
「えっと四軒??すごいって??」
秋と苗はあれからも店を変えて大衆居酒屋で飲んだのだった。
「この時間まで飲んで帰ったら俺なら寝ちゃうから。そんな酔ってないの?」
「酔ってるけど大丈夫。ゆっくりハシゴしながらちょっとづつ飲んだからかな?それに匂いが気持ち悪くてシャワー浴びないと無理。」
「そっかー。秋出た頃には俺もう寝ちゃってるかも。」
「もちろんいいよ!今日はありがとうね。」
朔弥は大あくびをして観ていたケーブルテレビを消した。
ソファの前にあるローテブルの上には空の缶ビールが数本ととスナック菓子の袋。
朔弥は朔弥で楽しんでいたようだ。
ザァーーーーッ。
秋はコックをひねりシャワーを出した。
まずクレンジングでメイクを落とし顔を洗った。
次にタバコの匂いがたっぷりと染み付いた髪の毛を濡らし丁寧に洗う。
「......」
髪の毛の泡を流すとやっとスッキリした。
秋はそのままシャワーに打たれていた。
秋の頭の中は苗の事でいっぱいだ。
想いを告げた後に二人はお互いの事を話した。
今まで聞いてこなかった事、聞きたかった事。
その全てを飲み込んで秋は自分の体の中が全部苗の事で満たされているのを感じた。
ジワッ。
ただ胸だけは黒い何かが染み出して来る。
朔弥が笑顔で「おかえり」と言った。
平然と受け答えをしている自分。
それは罪悪感だ、きっと止まる事なくジワジワと染み出していつか体中覆われてしまう。
そうなったら?
(苗ちゃん家にちゃんと着いたかな?寝たかな?きっと苗ちゃんも同じ事を感じているはず。)
苗は『完璧な家族が欲しかったんだ。』
と言っていた。
(苗ちゃんが好き。でも家庭も大事。...朔と子供達を裏切ってるのに?苗ちゃんと私で二人になっても今のままでも苗ちゃんの欲しがった、私の望んだ完璧な家族になんてなれないのに?)
ガラッ。
突然バスルームの扉が開く。
驚いて振り返ると目の前には裸の朔弥がいた。
「俺も入るよ。」
「え、朔は子供達と入ったでしょ?」
自分の体に緊張が走るのを感じる。
「んー。でもシャワー浴びるだけ、秋と一緒に浴びたくなった。」
ほろ酔いの朔弥はニコニコしている。
「寝るんじゃなかったの?」
秋は困ったように笑う。
朔弥は大きな体を秋に押し付けてシャワーを浴びた。
「はー気持ちいい。」
秋は朔弥の体にすっぽり隠れている。
朔弥の体を流れるシャワー秋の体を伝い流れていく。
朔弥は優しい男だ、秋をとても愛している。
しかし、真希が産まれた頃は育児や家事に協力的ではなかった。
秋も朔弥は仕事をしてくれているんだから私が家事育児をするのは当たり前、みんなやってる事!と文句も言わずに頼れる者もいない土地で一人で頑張り続けた。
勇希が産まれてからは朔弥も少し慣れたのか休みの日はゲームばかりしていたのが、子供と遊ぶようになり、お皿を洗うぐらいはする。今夜のように朔弥に子供達を預けて飲みに行けるほどになった。秋はとても助かると感謝している。
それでもあの頃の事が未だに秋を苦しめている、自分でもなんてしつこい根に持つ性格なんだ!と嫌になるが。
真希がまだ新生児で夜泣きと授乳でほとんど寝れず真希を抱いたまま朔弥を起こさないようにとソファでうつらうつらしている秋の肩を朔弥が叩いた。
『俺の朝メシは?』
『あ!もう朝?!ごめん何にもしてないっ!』
『...じゃあ、どっかで食べるからいいよ。』
『ごめん、真希が泣いてて寝れなくて、気づいたらこんな時間で。』
『夜寝れなくても昼間寝てるだろ。』
朔弥は不機嫌そうに言った。
『え?』
その時真希が起きた。
あぁあ!あぁぁ!
ほんのまだ1ヶ月しか生きてない、生きるのに必死な赤ん坊の泣き声。
『朔、昼間だって真希がいたら大変なんだよ。』
『行ってきます。』
バタンッ!!
秋の言葉を大袈裟だと言うようにろくに聞かず朔弥は家を出た。
後にはドアの閉まる音と真希の声だけが響き秋は取り残されたようだった。
「秋ー。」
名前を呼ばれて顔を上げると優しく笑う朔弥の顔。
朔弥は秋を大切に思っている。優しくキスをして力強く抱きしめられた。
秋はそれに答える。
けれど腕に力が入らない。
(違う...)
そして秋は自分の背後からゾワゾワとした黒く長い手が自分の体にまとわりつき締め付けて行く感覚に陥った。
それはとても不快で寒気さえする。
嫌悪感。
朔弥の大きな手は秋の体を滑って行く。
秋はキュッと目をつぶり力一杯開いて言った。
「朔、今日は、もう寝るよ。歯を磨いてベッド行ってなよ、私もすぐ出るから。」
「んー...そっか。待ってるよ。」
朔弥は少し残念そうだが秋と長いキスをして満足したのか大人しく出て行った。
秋はシャワーを浴び続けた。
朔弥に対して感じてしまう嫌悪感。
朔弥の腕の中で余計に苗を求めてしまう自分。
全部私が悪いのだ。
さっき朔弥に抱きしめられてキスをされた時いつもよりも体が強張った。
そして自分が触れたいのは、触れられたいのは硬くて逞しい男の体を持つ朔弥ではないと体中が叫び、自分が心の底から体中から苗を好きなんだと思い知って秋は泣いた。