第ニ話 苗
私の名前は苗。
両親がこの世界を担う新しい苗だと、娘の将来が豊かな木のように根強く伸びやかに育つようにと付けた名だと聞いたことがある。
私は自分の名前が嫌いだった。
小学生の頃この名前でからかわれた事があったから。
「苗って何だよ?田んぼの苗か?ドロくせぇ!」
からかって来た男の子は初めて好きになった子だった。
私は初恋が敗れたことをこの名前のせいにした。
しかしそれから十数年後、この名前が好きだと言う男性と結婚をした。
彼に出会い嫌いだった名前は一気に光り輝き、自分に自信がついた気さえした。
私は当時田舎から東京に出て来て新宿にあるカフェで働いていた。
短大を卒業後、小さな海辺の田舎町では就職先も期待できず、しばらく小さな花屋を営む親戚の仕事を手伝いながら過ごしていたけど、
何か起こるかもしれない!何か変わるかもしれない!そんな気持ちから上京したのが22歳。
彼は私が働くカフェに来ていた客で、全く好みではなくて気にも止めていなかったけど、特別背が高い人だったので、何度も来るうちに顔を覚えた。
その日も彼はカフェに来ていた。
「こ...こんにちは」
「いらっしゃいませ、こんにちは〜!」
「あの、僕美容師なんですけど」
「はい?」
「あの、カットモデルさんを探していて、今度コンテストがあるんですけど...」
「あ、の...ご注文は?」
彼の後ろにも客は並んでいた。
「あ、すみません!コーヒー下さい」
「サイズはいかがされますか?」
「Mで」
「360円です。」
「はい。」
会計をすると彼はコーヒーが出てくるのを待った。
私は次の客の注文を聞いた。
彼のコーヒーが出来上がり、別のスタッフから手渡され、そのまま去っていった。
(何だったんだろ?)
そっと彼が去った方へ目をやると、彼が小走りで戻って来た。
「えっ?」
戸惑っていると、
「あの、カットモデル、興味あったら連絡下さい!」
そう言ってレシートを渡し今度こそ店を後にした。
渡されたレシートは先程の会計のもので、裏には、
「麻木苗さんへ」と名前と電話番号とアドレスが丁寧な字で書かれていた。
(カットモデル?て、こんな頼み方するの??)
取り敢えず制服のエプロンのポケットにレシートを突っ込んだ。
その日の帰り道、歩いていると眼の前の店の扉が開き、
「ありがとうございましたー!気をつけて帰って下さいね!」
と美容院から人が出て来て美容師が見送っていた。
あの人だった。
(よく来るから近くで働いてるのだろうとは思っていたけど、ここだったんだ。
あ、こっち向いてる。気づくかな?
あれ?目が合ってる?よね?)
なんとなく会釈すると彼はポカンとした表情で、どうやら気づいてなかったらしい。
しかしすぐに気がついてニッコリと笑った。
その顔は目尻にシワが入ってくしゃっとした笑顔で、心が急に泣きたくなるように疼き出したのを覚えてる。
それから私は彼に連絡を取ってカットモデルになった。
カットは彼にいつもやってもらい、二人で食事や遊びにも行き、自然と付き合うようになって行った。
付き合い始めの頃彼は、
「苗って名前。ネームプレートで見て、すごくいい名前だなと思って、それからなんとなく気になるようになって、気づいたら声かけてた。」
と言った。
私は小学生の頃からかわれて以来この名前は嫌いだったと伝えると、
彼はくしゃっと笑いながら言った。
「その男の子もきっと君のことが好きだったんだよ、気にして欲しくて意地悪言ったんだよ。」
「苗って名前は強くて優しい感じがするよ。俺はすごく好きだなぁ。」
程なくして子供が出来て私達は結婚した。
彼は変わらないけれど、付き合っていた頃とは違う。
それが普通、みんなそうなんでしょ?彼が悪い訳じゃない。
じゃあ私が変わってしまったのかな?
知らない土地での子育てがこんなに孤独だなんて知らなかったから。
頼れる人が彼しかいないのに頼れない辛さ。
彼にも分かってもらいたかった、ただ、話を聞いて
『大変だね、頑張ってるね。えらいね。』
ってあのくしゃくしゃの笑顔で言ってくれたらそれで良かったの。
秋も私の名前を好きだって言ってくれた。
「繊細で頼りなげな所もあるけど、それでも頑張って前を向いてる優しい苗にぴったりだね。」
ねぇ秋、その言葉で私は私を全部受け入れてもらえた気持ちになって涙が止まらなかった。
私達は欠けてるところが同じ。
だからパズルみたいにピッタリと合ってしまう。