第十話 キスして
動物園から帰る途中でやたらと柊がぐずっていた。
「やだー!かえらない!かえらない!」
「柊、ほらベビーカー乗って!」
柊は押し込まれたベビーカーの中でバタバタと手足をばたつかせ。仰け反り、すり抜けて地面で泣いてた。
「ぞうさんみるー!」
「苗ちゃん、私抱っこして車まで行くから、ベビーカー押して来なよ。こういう時はママじゃない方が諦めたりするし。」
勇気はベビーカーが大嫌いなので秋は元々持ってきていなかった。
勇気と柊は同学年の3歳だが、柊の方が生まれが半年遅いのと体が小さいせいで、まだ赤ちゃんぽさがあり体力にも違いがある。
「ごめんありがとう。荷物全部乗せてね。」
「いっぱい遊んで眠くなったんでしょ、車ですぐ寝ちゃうね。」
抱っこをすると、まだ勇気より小さく軽かった。
苗によく似た柔らかい髪の毛と瞳が涙でずぶ濡れで鼻水と混ざり顔はべちゃべちゃだ。
「可愛いねぇ。」
他人の子供を本当に可愛いと思った事がなかったのに、不思議だ。
柊はまだ泣いているが眠さもあり段々となき寝入っていった。
秋が先頭を歩き、後ろから子供達が笑いながらついてくる、その後ろには空のベビーカーに荷物を乗せた苗が。
夕方の西日の中を歩く、昔母と夕暮れを手を繋いで歩いた事をふと思い出した。
暖かい気持ちになった。
駐車場まで来ると苗の車に柊を乗せた、すっかり熟睡してしまっている。
「秋ちゃん、ありがと重かったでしょ。」
「勇気より軽いよ!大丈夫。」
「桜も車に乗りなさい。」
「はーい!真希ちゃん勇気くんバイバーイ!」
「バイバーイ!!」
「また遊ぼうねーー!」
「じゃあ、またね。」
「...うん。」
「?」
「またね。」
「うん。」
秋の車は苗の車より5台ほど先に止めてあるようだった。
苗は秋が子供達を車に乗せてベルトをする所を見届けていた。
そして秋が乗り込もうとした時
「秋ちゃん!!」
と叫んだ。
秋はびっくりして、車の子供達に一言言い、苗の方に走った。
「どうしたの??」
苗は車で柊が寝ていて桜は車のテレビでアニメを見ているのを横目で確認してから走り寄って来た秋の上着をぐいっと引っ張り柱の陰に入れた。
「何??大丈夫?どうかした?」
大きな声で呼ばれた秋は何事かと心配そうだ。
「あの...」
苗は俯いている。
「ん?」
苗は秋の服を子供みたいにギュウッと握っていて、それを見た秋はさっき苗がブランケットの下で強く手を握って来たことがを思い出した。
力の入った冷たい手を優しく撫でながら苗の顔を覗き込んだ。
小さな可愛い唇が小さく動いた。
「キスして...」
子供達に見えないように陰に隠れてキスをした。
二人してなんだか泣きそうだった。
この人が好き。
この人が好きで好きで涙が出る。
秋は真っ白な苗のピンクになった頬と潤んだ目元にもキスをして。
にっこり笑うと。
「また連絡するね」
と車に戻った。
苗も車に乗り込みそれぞれの家へと帰った。
家へと帰り午前中に支度しておいた夕飯のシチューを温めて途中で買ってきたパンを切った。
冷蔵庫の中にはサラダが既に用意されている。
苗は夕方になるとぐずり出す柊に手を取られるので、いつも午前中に夕飯の準備をあらかた終わらせている。
桜は元気に「お腹すいたーー!」
と台所をウロウロして、柊はよっぽど疲れたのかあのまま寝続けている。
桜はお代わりまでしてシチューを平らげると苗と風呂に入り。
「楽しかったーーー!ねるーーー!」
と言ってベッドに倒れ、本当にそのまま寝た。
「何。今の?」
苗は大の字で倒れたまま寝ている桜を見て笑った。
子供らしく本当に楽しくて疲れて満足したのだろう、天真爛漫な娘に振り回される毎日だが、そんな桜がとても愛しく見えた。
柊は全く起きないのでそのまま身体を拭いて着替えさせて寝かせてしまう事にした。
不用意に起こして不機嫌になるよりはいいだろう。
少しして修二も帰って来たので苗はシチューを温めなおして出し、動物園へ出かけた話しをした。
「秋ちゃんと本当仲良いんだね。」
修二はシチューをすすりながら言った。
「うん、秋ちゃんみたいな人っていなかった。」
「友達はいただろ?子育てセンターみたいなの行ってたじゃん?」
「でも、本当に心許せる人っていなかった。ママ友って結局子供がいての関係だし、余計な事言えないし、気を使うんだよ。上手くやれる人もいるけど、私は人付き合いニガテだし。」
「ふーん。そういうもん?...秋ちゃんがいて良かったね。」
「うん。」
「いい友達が出来て俺も安心だわ。」
友達。
その言葉が苗の心に刺さった。
友達と思わせてる事。
友達じゃないと言う気持ち。
「私も疲れたから先寝るね、お皿明日洗うからシンクに置いておいて。」
「はいよ。」
修二はテレビをつけ出した。
パタン
「はぁ。」
苗は寝室の扉を閉めてもたれかかり一つため息を漏らした。
そして満足そうに寝ている子供達の顔を眺め髪を撫でながら自分もゆっくりとベッドに横になり眠りについた。
「んーー!」
隣で寝ていた柊が伸びをした声で苗は目を覚ました。
見ると布団を蹴飛ばしている。
かけ直してやった時触れた柊の手が熱く感じたので額に手を当ててみる。
(熱?)
苗はごそごそと布団からでるとリヴィングの棚にある薬箱から体温計を取り出し、寝室に戻った。
柊の隣には桜が、その隣には夫の修二が寝ている。
柊の脇に体温計を挟む。
ピピッ30秒で音が鳴った。
38.5度
(まだ上がるかな?)
アイスノンを専用のカバーに入れ頭の下に敷いてやった、すぐ飲めるように枕元のテーブルにストロー付きのカップに入れた麦茶を用意した。
体は暑いが今のところ穏やかに眠っている。
「......」
明日は日曜だ。
病院はやっていないし。幼稚園も休みなので、家で一人元気いっぱいで暇を持て余す桜と、熱で機嫌の悪い柊とを相手しなければならない。
子供の熱は仕方がない、熱による不快感で苦しんでいるのは柊で、もちろん可哀想に思う。
動物園からのぐずりも眠り続けたのも具合が悪かったからだろうか?気づかずに可愛そうな事をしたな。
でもやっぱり苦しくなる。
秋に会いたい。
一人だと大変なだけのお出かけも秋がいれば楽しかった。
いつからこんなに秋の存在が大きくなったのだろう?
秋は知らない。
あの日秋からキスをして苗が受け入れたのはそれよりずっと前から苗は秋が好きだったから。
その気持ちに気づかれて、からかわれてキスされたのかと思ったぐらいだ。
自分でも気づかぬうちに秋を好きになっていて、母親としてと妻として女としてその気持ちを認めたら終わってしまう気がして、決して言うつもりもなかった。
それなのに秋はキスをして真っ直ぐ伝えて来た。
ダメだよと言っても苗を包みこんだ。
秋を好きな気持ちは隠すつもりだったのに、今日の帰り際にキスして欲しいとまで言ってしまった。
そんな事言うつもりなかったのに、あのまま車に行かないで欲しかった秋の気持ちが欲しかった。
もう一度こっちを見て欲しかった。
キスをしたら気持ちは溢れてお互いにお互いの想いが流れ込んだ。
暖かくて気持ちが良かった。
嬉しい反面このままではどんどん抜け出せなくなる不安と家族への罪悪感で苗は揺れていた。