↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/79

81 東洋的な人間の生き方2

 言葉とは、抽象的な表現であり、対象それ自体を差すものではない。「犬」というのは犬の抽象化だし、「赤」というのは赤の抽象化である。「犬」自体でもないし、「赤」自体でもない。


 犬といった時に思い浮かべているのは、漠然とした犬のイメージで、犬そのものの個体差は無視されている。ポチもシロもジローもハチも、その共通性のみを捉えて、一律に「犬」と名付けるのが言葉であり、概念であり、そのイメージこそが観念である。


 そもそも犬を犬と呼んだ時に、はじめて犬は犬となったのであって、その性質の共通性や存在の関係性を見抜いてそれを「犬」の名付けたのであるけれども、やはり耳も尻尾も毛並みも内臓も事物の断片でしかないし、その精神も泡沫のようなものでしかない。とめどなく流れゆく感情のなにを掴んで、それを犬の精神と言っているのか。そこから犬そのものをつかみ取ることは難しい。犬と言っているのは肉体なのか、精神なのか、それともその両方なのか。一括りのイメージでまとめてそれを「犬だ」というのは、存在を抽象化しているのである。このため「犬は美しい」とか「犬は醜い」とか、言ってしまうと実際には「美しい犬」もあろうし「醜い犬」もあろうし、そもそも犬自体には「美」も「醜」もない。そして「美」も「醜」も感覚の抽象化にすぎない。このため、「無」そのものである犬の存在の本性を、弟子に「犬に仏性はあるか」と問われた中国の禅者趙州は「無」と答えたのである。


 犬は犬になって、今度はポチと固有名詞で呼ばれるようになる。より具体的になったがこれも存在の抽象化に他ならない。ポチはポチであるけれども、それがポチの本性ではない。ポチと名付けられたのは、ポチ自体ではない。耳も尻尾も毛並みも内臓もその精神も一括りにされたイメージで、それがひとつのポチという存在だと捉える脳内作業が必要である。どんな観念をもってしても、ポチそのものを捉えることは誰にもできない。それでポチがポチと捉えられた時、はじめてポチはポチとなったのである。


 しかしながら、ポチは「犬としての性質」を有している。その性質の共通性ゆえにポチは「犬」と抽象化されて呼ばれる。ポチはこの点で隣家のシロという犬と同じ言葉で一括りされている。同じ概念で一括りにされる。同じ観念で捉えるようになる。また猫であるタマとは違う生物として認識されるのである。しかしその性質とは何か。「犬らしさ」とは事物の方にあるのか、認識の方にあるのか。

「わたしは犬は好きだけど、猫は嫌いよ。だって縁側で欠伸をしているだけじゃない」

 という何気ない日常会話は、まさに観念の巣窟である。


 ポチの本性は、犬でもなければ猫でもない。なんでもない「無」であって自由自在なのに、犬としての性質を有しているため、ポチは「犬」という概念に縛られることになる。この犬としての性質と、犬であるという認識のいずれにも侵されてないところにポチの本性がある。


 ポチは犬である、という文章は、抽象的なイメージと抽象的なイメージとを結びつける行為である。この文章によって、ポチというイメージと、犬というイメージが結びつく。しかしここにも抽象化されたイメージがあるだけである。ポチそのものもどんなポチかわからぬし、赤色もどんな赤色かまるでわからないのに、この言葉は、ポチの実態に則しているように思える。


 抽象化されたイメージは、次のような論理展開が可能である。


 犬は赤色ではない、ポチは赤色ではない、ゆえにポチは犬の可能性がある。もしも犬が赤色でありうるのなら、ポチは犬である可能性があった。もしポチが犬ではないのなら、ポチは赤色である可能性があった。こうした論理展開が成立する。これは、すべてはイメージであって実態そのものではないのに、そのものの性質の共通性と、存在の関係性から生み出された概念の論理は、実態から大きくかけ離れることがない。論理というのは抽象化することが必須ということだろう。


 つまるところ、そのものの性質を有しているか、つまり「犬」は「犬らしさ」を有しているか、犬らしい性質を事物が有すること。この犬らしさは性質こそあれ、捉える側の観念の問題でもある。つまり、存在を成り立たせているのは存在の相互関係である。つまり、これが第一である。そして本体がどこかもわからない犬には部分のみあり、犬の尻尾も、犬の毛並みもすべて犬の部分であるというのは、犬そのものにまつわる関係性から生み出されているのだった。しかし犬そのものが無いとすると、犬の尻尾も、犬の毛並みも、主人のいないペットである。ただ犬と呼ばれる他の部分と連動するから「犬」と呼ばれるのである。そして神経によって、あるいは肉体そのものによって、これらの存在は相互に関係しているからひとまとめで「犬」と呼ぶのである。この関係から疎外されたものは「犬」と呼ばれない。因果関係や、相互依存関係によって、生じている事象こそが、ひとつの存在として対象を捉え、「犬」という形象的な観念を築き上げるのである。


 論理的な文章とは、主語と述語より成り立つ。たとえば「犬が走る」。この時、主語は「概念」であり、述語は「そのものの性質や動作・作用にまつわるもの」である。この時、述語的内容を概念と結びつけることによって、はじめて論理が生まれる。述語的内容だけの世界では科学は発展しなかったのである。「犬の足は速い」といった場合、「犬の足」という事物にまつわる概念と「速い」というそのもの性質は、共通項によって結ばれて「法則」を炙り出すのである。そして「法則」は「普遍性」を持つものとして、さまざまな学問のレベルを向上させた。


 たとえば、絵描きならば「青い色は悲壮感を、赤い色は情熱を感じさせる」ということについて異論をとなえる人はいないだろう。これは「主語と述語の関係による論理的な構文」によって「法則」を導き出しているのである。


 ところが、無数の異なる赤色のクレヨンを前にして「目の前にあるのはすべて赤色のクレヨンだ」と言い切ってしまったら、これは抽象化の毒牙にやられているのである。

 抽象的な概念とは、イメージの一元化であり、単純化であり、やはり個体差を無視してしまうものなのである。


 古代人にとっては、オレンジ色も赤色であったことだろう。緑色も青色であったことだろう。というのは昔は、色については四色しかなく、中国から黄色が伝来しても五色というぐらいで、色の概念は少なかったのである。それしか色彩に関する言葉がなかったのは、必要がなかったからである。中国から密教が伝来して、曼荼羅を通して色彩感覚に注目が集まると、概念が増え、観念が増えるのである。そうであっても、その色彩に関する感覚は伝来する前からいつの時代にあっても存在していて、それは言葉で表さなくても、実感をもって生々しく感受されていたのである。


 音楽のピアノの音ひとつひとつに、バイオリンの音ひとつひとつに、風の音ひとつひとつに名前がついているわけではない。そうであってもそれは生の実感をともなって、自分の心に宿るのである。生の実感をともなって心と関係をもったものは心を伝ってさらに生まれる。


 生の実感は、言葉や、概念や、観念に侵されずにこのように存在しているものなのである。



 ここまで突き詰めてゆくと、犬とは何か、赤色とはどんな色か、ポチとはなんぞや、という本性への問いが再び浮かぶ。それは概念を追求しているのではなくて、観念を弄ぼうとしているのでもない。概念や観念では捉えられないそのものの本質を捉えようとしているのである。


 心で捉えられないものを、自由闊達で何にも縛られていないものを「無」と名付ける。しかし無であると同時にそれは有でもある。有とか無とかいう概念にも侵されていないからである。虚空のような心で、心と事物は一体で、ただ流れゆく感情に釘を打ち込むようなこともなく、自我の縄に繋ぐこともなく、ありのままの自然でありながら、さまざまな感情の豊かさの中でとらわれがなく寂然としている、概念では掴み取れない「無」が存在の本性というものである。




 さて、論理の話に戻るが、実態とはこのようなものであるけれども、すべてを一旦概念に置き換えるからこそ論理は成り立つのである。


 このように抽象的な概念によって構成された文章というものは本来理性的なものであり、法則を導き出し適応するもので、感性の氾濫を許さないものと思われる。そこには論理が展開しているものである。言い換えれば、具象的なものでは論理は展開できない。風そのものは捉えようもないものである。それゆえに詩は、あえて論理的構文を破壊し、矛盾を含んだ表現を追求して、実感そのものへ接近しようとしてきた。犬は赤色だ、猫はダンスホールで歌うものだ、とやったわけである。


 しかしこのような詩的表現を例外とすると、語るということはそもそも論理を必要としていて、ゆえにロゴスという言葉は相手に語る技術から生まれたそうである。


 そのため人は、口を開けば論理を語る。会話といえば「こうであるからこうなのだ」の連続である。しかし騙されてはいけない。その論理は何のために持ち出してきたものなのか。そもそも、相対的な価値観のこの世の中で、人々が得意顔で語っている「論理」とは一体何なのか。自分に都合の良い一方的な理屈をもっともらしく語っているだけではないのか。


 自己の感情をただ正当化したいがために、その時々で異なる論理を借用してきてもっともらしく語るのが、ご都合主義者というものだ。


 理想の追求の過程で、方便として論理を借用しながら、感情や本質と向き合うのが詩人であり、芸術家であり、思想家である。


 感情の問題を切り捨てて、感情の力から目を背けて、ただ論理のみを盲信して語るのが、詭弁家である。


 物事そのものをいくらひん剥いてもそこに本質は見えてこない。たとえば、犬を犬と名付けたのは人間の意識であって、犬らしさを抱いているのは意識の方であって、意識のないところには犬も人もない。あるのはただの事物である。言い換えれば、心と心の関係性からこそ本質は生じるといえるだろう。たとえば、美しい音楽を聴いた時、意識ひとつで音楽が美しくなるわけではない。やはり音楽自体が「それらしい性質」を有しているのである。しかし聴く側がそれを感受するための感覚を持っていなければ、それは「美しく」なるはずもない。バイオリンの音色は「美しい」が、それを奏でる時に音色に「そうした性質」を宿らせるのが達人の腕というものだろう。しかし、感受する側がそれを「美しい」と感じる心を持っていなければそれは雑音でしかない。つまり関係性のみが存在を生み出しているのである。存在とはそういうものである。この関係性が無くなれば、存在も無くなってしまう。たとえば、犬という存在を犬と見なしているのは、人間の事物に対する一方的な意識だし、それにイメージを付加して、社会的に共有しているのは心と心の相互関係である。関係性が違えば存在もまた違ってくる。そのため、人には本質を捨ててしまいたいと思う時がある。しかし自己の認識とは常に、心を離れることがない。つまりその世のありとあらゆるものが心の反映なのである。心の世界でのみ生きて、最後には死ぬというのが人間の実際だろう。ただ、それは自分の心だけでなくて、他人の心もともに混ざり合い、溶け合い、ふたつ並べた鏡に映った灯のように、無限に光を映し合って、心と心は切り離すこともできない。仏教の重々無尽とはこのことである。そのため、人は心の世界に生きて、心の世界に死ぬのだろう。そうであるから人は、心の世界で生ききらなくてはならない。心をよく熟知した者が、生きてゆくことの達人となり、心について考えの浅い者が苦しみの淵を彷徨う。


 これは論争の例え話だが、日本では犬を食べないが、韓国では犬を食べるという伝統文化の違いがあるらしい(現在、犬食文化がどうなっているかは別の議論であるから置いておいて)。意識のあり方で、同じ犬がペットになり、食材にもなる。この差異をどう捉えるべきだろうか。

 この時、どちらの認識が正しいのかなんて真面目に考えるのは不毛だろうが、人はそんなことを論じたがるものであり、争いは絶えない。しかしもしも、どちらかが正しいかを決しなければならないという時には、「論理」をもって「議論」するより他にないだろう。




 たとえばとある日本人が韓国の犬食文化を批判しようとして、議論を持ちかけたとしよう。

「ペットとして我が子同様に愛情を降り注げる知的な動物である犬を食するのは残酷ではないか」とこちらが突きつけたとしよう。すると「日本人が犬を食べるのを拒みながら、平気で鶏や牛や豚を食べているのは矛盾しているのではないか」と言下に反論されることだろう。

 論理に矛盾があることは致命的な欠陥だとされている。感情は感情であって論理ではない。他国の文化を批判する根拠にはなり得ていない、これは日本人と犬の関係性を浮き彫りしている以上のものでないのは事実だろう。

 このように反論したとしよう。「なぜ日本の文化圏にありながら、ペットである犬に愛情を降り注ぎ、食用である鶏や牛や豚に食材以上の扱いをしないことが問題となりうるのか」と。「それならば、汝は韓国の犬食文化を批判することもできないだろう」とすぐさま反論されるだろう。

 もしも国際的には犬を食さない、そのような文化は国際的に批判される、と言ったならば、それはすでに感情論となっている。そして感情の力でもって、衆の力でもって、批判への恐れを呼び起こして、相手を自己の思い通りにしようするのは、健全な議論とは言えない。


 というと、健全な議論とはなんぞや、という話になりそうだけれども。


 この架空の議論上で問題となっているのは、第一には「感情論」の問題であって、第二には「公平であること」の問題である。

 犬をペットとして我が家同様だと認識しているのは、感情論であって、もとより同じ価値観を共有している人間にしか通じない論理である。

 第二の「公平であること」については、議論の際のもっとも重大な点であるが、論理の世界においては「感情論」は説得力を持たないとされる。たとえば「残酷だ」という主観は、相手に通じるとは限らないからである。論理の世界ではただ「公平であること」が正義なのである。たとえば犬だけを可哀想だと贔屓にした時、「その論法ならば……」という前置きをつけて、現在食用とされている鶏や牛や豚の立場の不公平さを主張するのである。あるいは犬食文化のみを批判されることの不公平を主張されるのである。そうやって相手の意見を抽象化する。「犬を食べるのは可哀想だ」というのは犬にまつわる主観である。しかし「動物を食べるのは可哀想だ」という意見に変換し「それならば豚や牛や鶏も可哀想ではないのか」と相手にとって不利が生じる例に転換するのである。


 そもそも感情とは、矛盾が内在しているものである。その矛盾とは、自我が生じてくるもので、自分にとって都合の良いものを善とし、都合の悪いものを悪とすることで生まれるのである。


 どんなに論理的に見えても、それは感情の争いである。もっとも強いのは共感である。


 実は、仏教の問答でも、共通の概念やテーマでなければ、引き分けになるというルールがあった。相手の認めていない概念を使って、一方的に主張することは許されない。それはたとえばキリスト教徒の教義を「阿弥陀如来の四十八願」を根拠にして、批判するようなものだ。これと同じで「感情論」になる場合は、その感情が共有されているものでなければならない。誰もが抱く感情を表現して、相手に訴え、あるいはオーディエンスに訴えて、議論に勝利しようとするのは、物書きや宗教者がよくやる手である。重要なのは「社会が共有している感情」を使用するというところである。


 しかし、それは別段、論理の話ではない。要するに情に訴えたのである。感情で訴える一方、感情を責めるのが議論でもある。相手を論破する時は「相手の言っていること」それが「間違っていること」を証明すればいいのである。そのためには「相手の論理」をそのまま、当てはめた時に「感情的に無理が生じるシチュエーション」を例として挙げるべきである。たとえば、犬食文化を批判する一方で、豚食を維持したいという感情の矛盾を論理で突くのである。これはしかし、こういうことである。我々が日頃「論理」と思っているものはその実「感情」から生じている。「感情」というものは本来矛盾を抱えているものだ。その矛盾を浮き彫りにするのがひとつには「論理」というものだろう。

 論争とは「具体的な事例」をまず「抽象化すること」である。そして抽象化した論理を他の「具体的な事例」へと結びつける。相手は、その時にひとつ目の「具体的な事例」では感情が許せたものが、ふたつ目の「具体的な事例」になると感情が許せないのである。何故ならば、ひとつ目の事例は、自分の自我にとって都合がよいもので、自分にとって「得」なものなのである。ふたつ目の自分の自我にとって都合の悪いことで、自分にとって「損」なものなのである。つまり論争というのは、論理の争いというよりも、感情の争いであって、論理の限界を知っているもの同士が、論理を方便として駆使して、いかに相手の感情に不利を与えるかで、自分に利益を生じさせようとする行為なのである。この世の中を動かしているのは論理の力ではなくて、感情の力である。



 まとめると、現実に存在しているのは、個々の意識における関係付けの問題なのである。それと共に氾濫している感情とどう向き合っていくかが課題である。果たして、犬は食べるべきなのか、鯨は食べるべきなのか、鶏も牛も豚は食べないべきなのか、それならば魚も食べないべきなのか。それともすべての動物を食して、供養塔を建てればよいのか。それともそんな精神論は意味を成さないのか。すべて尽きることのない感情の世界で、相互性がなければすべて一方的な論理である。この対立を打破するのは論理ではなくて、ただ話し合いによって共通認識を生み出すしかない。共通の感情である。しかしそれすら数の暴力である。あるいは徹底的に物事を公平にする。そんなことは実現されることはない。だから、論争は自分から意見を言うのではなくて、相手の意見を書き出して、矛盾を指摘するものである。こんな自己矛盾にまみれた人間社会はAIにこそ嗤われることだろう。


 孤高の世界では、誰とも分かり合えない。すべての論理がただ吹き抜ける風のようなものである。話し合い、価値観が一致しなければ、それがよりよい結果に結びつくものでなければ、どんな論理も虚しく消えてゆくばかりである。


 各々が自己の権利を守るために、公平性を根拠にすることによって、正当性を主張しているということである。


 そもそも、この世においては、公平さなどまるで頭にない暴力的な存在、自己矛盾したものが権力を待つことは往々にしてあるものだ。その感情の醜さからは平等という観念も生まれ得ないだろう。弱肉強食の世界であるから、衆の感情が集まればそれは巨大な権力となるのである。実際に力を持ってきたのは論理ではなくて感情であり、権力としての共同体であった。論理はいつだってあくまでも方便である。


 


 以上の思惟をもとに、感情と論理の関係を突き詰めてゆきたいと思う。



 この世に真理を突き詰めたいと真剣に思って論理を構築する人は少なく、ただ自己の感情を正当化するために論理を利用しようとする人は多い。


 感情が先立って、論理が後付けされる場合は要注意である。


 人はしばしば、生存に関わる不安感から感情的になる。その感情を正当化するために論理を用いることがあるものだ。たとえば怒り狂って人を責めた時には、周囲から咎められないようにと、自分の正当性を訴えながら、相手の非を主張する必要性が生じる。その時、論理はまさに一方的なものである。相手を言い負かすことは論争の目的ではない。真理を追求しようとするものでなければならない。不安になって語る多くのことは論理ではない。詭弁を用いているにすぎない。


 生存に関わる不安感から人は感情的になるというのはこのような話である。猛獣と出会うことを恐れていた原始時代の人間は、遁走術を覚えた。しかし現代人の生活において、責任を果たさずにその場から遁走すれば、社会的に圧殺される危険性を孕んでいる。遁走術では効かなくなった。不安は複雑化した。遁走術では効かなくなった現代人はその代わりにさまざまな論理をもって自己を弁護し、正当化するようになった。そうすれば、社会から孤立することがないと信じているからである。


 こうしてみると現代人にとって、生存に関わる不安は、猛獣と出会ったり、餓死することから、社会からの孤立へと大きく対象を変えたといえるだろう。そうだとしても、その根源に流れるのはやはり生存に関わる不安感からずっと変わることがないのである。


 社会的な孤立を恐れることで、人は他人の評価に怯えるようになった。そして、不安から感情的になった人間は、自己正当化のため、自己弁護のための方便として論理を多用するようになった。それはすべて一方的な論理である。真実を吟味するつもりもない詭弁的な論理である。おそろしいことには多くの人はそんな論理を正しいと信じきっているようでもある。それでも人は自分の論理だけでは生きてゆけないのである。生存に関する不安から生じる怒り、嫉み、欲望、そのような負の感情を正当化するためだけに論理を用いるようでは、すぐに論理が破綻し、その乱れようから矮小な器が相手に悟られてしまうというものである。


 それでは自分が語るべき論理とは、どのような関係から生じる論理なのだろうか。ひとつの心のご都合なのか。それとも複数人の幸福のためのものなのか。目的に即して考えるのだ。まず、そこを思惟しなければならない。




 おそらく人倫関係における論理とは、自己の感情を盲目的に正当化するためのものではなく、自己の心理現象や社会現象を精密に分析し、自我から湧き起こる負の感情をコントロールするため、あるいは他者との関係づくりのためにこそ使用されるべきであろう。心と心の関係性をあぶり出し、どのような行動を取ることが現状において正しいかを総合的に判断するためのものである。つまり自己の感情に対し、自己の論理は、弁護するためのものではなく、批判をするためのものであるべきだろう。


 湧き起こる自我の苦しみを転じて、主客の分別のない意識に変えた時、はじめて他者への愛が生まれ、慈悲が生まれる。それに基づいて利他的な行動が生まれてくる。しかしそこにはもはや目的がない。理想へと突き進む行為のすべてが理想そのものなのである。


 つまるところそれに基づいて行動しなければならないということだろう。


 それはそうとして、現在、韓国では犬食が廃止に向かっているそうである。議論の例として挙げたので、一応説明しておくことにする。


 この話題について特別な意見は持っていない。ただ、この世を動かしているのは実は論理の力ではなくて、感情の力、ひいてはそれは衆の力だということを述べたかったのである。感情の氾濫の中で、人はどう生きるべきかが課題なのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。