80 東洋的な人間の生き方
数千年の歴史を振り返り、数多の先人たちの教えとそれに関する現在の自分の考えをまとめると……。
人生には理想があり、生きる目的がなくてはならない。そういうものがなくて人は生きてゆけないだろう。人はその場しのぎの快楽に浸ろうとしても、死に向かってゆくだけの生のおそろしい虚無感に鬱々とさせられるばかりである。だからこそ人は自分が生きている満足を得ようとして、自我に執着し、その場しのぎの快楽に依存し、鬱々としながらも尚のこと背伸びばかりしているのである。
人生に争いは絶えないが、争いに勝利することが目的ではなくて、その人生の理想を実現することが目的なのだとよくわきまえて慎重に行動しなくてはならない。ただ争いに勝利することに固執することほど無益なことがあるだろうか。障害が立ち塞がった時こそ、不安になったり、感情的になったりしてはいけない。ただ心を落ち着せる技を磨くべきである。
脳内に仮設された理想が、人生を目的的なものにする。ひとつの理想へと通じる道が人生なのだと錯覚する。そのための無数の手段が、今現在こうして生きていることであって、すべてはなんらかの理想を実現するためにある。
しかしその理想そのものがすぐには見つけられないだろう。そんな時はひたすらもがく。もがき苦しみながら生きる。結局のところは、大切な人やものを見つけることができれば、それが理想となる。自分だけが幸せになることはどこか虚無的で冷たい。誰かを幸せにしようと頑張ってはじめて自分も幸せになれるというものだ。
そうした心には主客の分かれ目がない。わたしとあなた、あなたはわたしというわけである。
理想のために生きている。その理想が見つかればあとはまっしぐらで努力する他ない。
争いの後、憎い相手を赦すというのは容易なことではないが、もしもその相手をすっかり併呑してしまうべき時ならば、思いきって可哀想だと同情してしまうことだ。それで自分の心は楽になるし、相手の心は自分の意のままになる。相手を操ろうとしたらまずは相手の心を深く理解しないといけない。相手の欲しているものとおそれているものをよく知っておくことだ。もしも相手の中に理解できない心がまだあるならば、それは操ることのできないおそろしい存在になる。そういうものを減らすことだ。でないと、こちらも不安になり、感情的にならざるを得ない。何事もよく理解することだ。相手の心を知ることからすべてが始まる。すべてを知っている人間には不安な心など生じようはずもない。それには相手の心にまず寄り添うことだ。敵と看做して攻め滅ぼすのはその後でいい。仲間にして併呑してしまうのが本当に攻め滅ぼすということだ。まずは相手の心によく寄り添い、事細かに理解できるようにつとめることだ。突き放した心はどうしようもない。すっかり自分の腑に呑み込んでいるうちが心を上手く扱えるというものだ。それゆえに相手に対して争いが強いというのは相手を深く知っていることを言う。相手を知らずに自分を強いと誇示するのは何の根拠もないことだ。
たとえば感情的になっている人間には、混乱しているものと捉えて、仏教の伝統にのっとって、病人のように丁寧に扱うべきだろう。しかしそれはそれとして問われている内容は吟味した方がよい。吟味するに足る問いを含んでいることがあるものだ。また、器の大小という観念を仮に信じたならば、器の小さい人は慰めて、器の大きな人にはあえて挑発をしてでも、問答を通して、その技量を試すべきである。
相手の本音を知りたいならば、相手の語る言葉をひっくり返してみることだ。相手の語ることは相手が本当に信じていることではなくて、ただ相手が信じたいと願っていることである。希望的観測というものである。だから人の語ることはすべて自作自演である。信じたいように信じ、語りたいように語っているだけである。ただ、そう信じたいと願うことの本音は、実際はそうではない、ということが実は分かっているのである。俺は強いと自慢する人は実際には弱くて怯えている。本当に強い人は自慢をする必要すらないのである。本当に強い人は、強さという概念すら忘れている。
強張った心を持たないで、柔弱な心を持つことだ。そしてこだわりを捨てて、いくらでも変幻自在な心を持つことだ。自分はこういう存在だ、という自負や、固定的な観念を捨てて、自分というものの実在を信じないことだ。ただ山林や天地の気の流れを感じて、それと同化するのが東洋的なとらえどころのない生き方だろう。
人に笑われても、人を笑うよりはいいのである。そして笑われている自分などどこにもいないのだと深く理解すれば、ただ現象だけが通り過ぎて、感情は虚しく消えてゆくばかりだろう。
すべての存在は固定的な実体があるのではなく、ただ無というものから事象のみが生じ滅しているだけだ。この無というものを深く思惟し、捉え直さないといけない。
しかし人生の理想のために必要とあれば、すなわち自我を仮設し、仮の闘争心にまかせて、自分というものをその場に生み出し、演技をする。そこに感情の力を具現化させる。生きることは表現することである。人生は演劇だというのはまさにこのことだろう。その実体はやはりどこにもない。どこにもないと知りながら、その無を有に顕現させるようなものなのである。生きるということは演技の連続である。自分という存在を仮設して、なおそれにとらわれることがないのは、自分も他者もありとあらゆる存在が観念の幻だと知っているからだ。その上、自分の内側から湧き起こる感情の力は、自分を縛り上げる妄念そのものだ。その妄念がそのまま悟りだというのはこの生命力を他者のため、理想のために転じて活かしきるからである。
もしもなにかをよりどころにして、それに心を硬くするならば、それは打ち砕かれるだろう。なにもよりどころにしていないから、心は柔らかく、変幻自在で、打ち砕かれることがないのである。それなのに人は、絶えずよりどころとするものを見つけ、依存し続ける。そのよりどころの大半は、自我であり、自分という意識、自分というものの価値である。そして自我にもとづく、自分のための感情というものである。ところが、このために人々は離れてゆくのである。
自我の匂いのする言葉や、行動を見て、人の心は離れてゆくのである。ただ、人生の理想のための言葉や、行動を選ぶべきである。人生の理想というのは主客の別れていない理想である。だから相手の心に入って、あるいは相手の心に寄り添った言葉や行動を一つ一つ選ぶことができれば、人が離れてゆくことはあまりないだろう。それでも人が離れてゆくのなら、それはその人々の選択なのだと潔く割り切るしかない。そこの分別が大切だろう。
誰かの評価に縛られることもなく、自己評価に酔いしれることもなく、自分は自分である他はなく、その自分は掴みどころのない無である他はなく、道端の苔むした石のように寂然としていなければならない。
自分の本心を偽る発言や、嫉みの心は自分を堕落させる最大の原因である。この心に陥った人は無限の苦しみの連鎖に苦しむ。だから、自分は自分、他人は他人と、きちんと分別しなければならないし、自分も他人も元は一体だと無分別の心も持たなければならない。そうやって自分の目の前にある、自分にできることを一つ一つしてゆく他に、生きるということはないのだろう。
生存に関わるおそれが不安の根本だ。本能はすべてここより出でるというべきだろう。このため人は死なないために生きているというべきである。不安から生じるのが感情の力である。それが人の行動を生み出す原動力である。しかしそれはそのままでは自我にしかならない。人間は自我と共に苦しみながら死んでゆくだけである。この力を主客の分かれ目のない表現へと転じ、心を転じたところに、はじめて共感が生まれる。主客の分かれ目のないところに人はいなくて、すべてを包み込むような心があり、場と時間がある。いずれもそれは心の集合体のようなものだが、その一つ一つを分け隔てることができない。共鳴し合っている音は分けることもできない。芸術的な空間と時間はこのようにして心の世界として如実に生まれる。
主客の別れていない人生の理想を見つけることである。そしてそれを目的として一つ一つの行動を選び生きることである。深く思惟することである。世間の感情や観念に侵されないことである。そのために存在を空じ、観念を空じ、心を空じながらも、妄念である感情にも全身全霊で向き合って、無限大の今という瞬間を生ききることである。それが心が自分の体内から飛び出して自由闊達に飛びまわるということの意味である。
主客の分かれ目のない人生の理想へと突き進む気持ちこそ真の主体性というものであろう。そこには生命の力が溢れている。理想へと向かう気持ちがとりも直さず理想そのものだと言える。生きるというのはたどり着いたらそこにはただ死があるのみで、生の過程こそが実際の生である。理想へと突き進むこと自体が理想そのものである。だからこそ行為即目的であり、悟りを起こそうと思う心が悟りそのものであり、行為には常に自己目的性が備わるのである。生きようとすることが生きることである。
それが仏教や道教や、日本民俗の中に息づいている思想、東洋的な人間の生き方なのだろう。




