79 新年の挨拶
新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
2023年という年を振り返ると、前半は仏教と歴史の年であり、後半はジャズと演劇の年でした。それも複雑な人間関係の出会いの中で起こったものであり、それは2024年に何かが始まるという予感に満ちていました。
新年は一族の新年会に始まりました。錚々たるメンバーの中で、僕は久しぶりにカルタとビンゴと黒髭ゲームとブランコとだるまさんが転んだをしました。ふたりの従兄妹がまだ小さかった頃によく遊んだ公園で、再び小学生の子供たちとの遊びに参加することになった従兄弟ども六人衆は、大盛り上がりで童心というものを遺憾なく発揮し、高貴なコートに身を包んだ可憐な従兄妹は砂だらけの滑り台から砂場へと舞い降り、大人たちで集まればルールもへったくれもないだるまさんが転んだに全力をかけていました。小学生をお姫様扱いをするようにと従兄妹から言われていた僕ですが、小学生たちは、ビンゴ大会を始めると他人から奪い取ったカードで何故かビリになり、泣き真似をしてくすぐられるという大変な騒ぎようで、かくいう僕もカルタをしてはズルをして小学生に怒られて、お互いにズルを重ねて、そこはもうめちゃくちゃで笑いが絶えない戦場なのでした。
その中で、イラストを一枚仕上げました。はじめて水彩ペンを注文し、思いのままに描いたのですが、これは水彩イラストなのか……?と疑問が生じるタッチになりました。
しかしこれはこれで、蓄音機の置かれたレトロなジャズ喫茶というイメージで、描けて良かったと思います。
片面三分のSP盤の時代って、喫茶店でどうやって音楽を流していたのか大変疑問ですね。三分おきにレコードを変えていたらコーヒーを淹れることもできない。
デジタルだけじゃなく手描きも頑張らないと思ったのは、小学生たちにデジタル画だけ見せたところ、絵を描いてと紙を持ってこられて焦ったのと、そもそも巷ではAIイラストが増加する中、イラストは手描きのヘタウマ感と制作の実演とインクを塗り重ねた実物の質感へと回帰するのでは、と思っていたからでした。
新年明けてコーヒーにも変化が訪れました。ネルドリップを始めたのです。ネルドリップというのは布製のフィルターのことで、日本の喫茶店では馴染み深いものです。ネルドリップの特徴は、とろっとした舌触り、オイリーなところです。それと味の調整が効き、さまざまな成分を透過して、深みのある味わいを作り出すことができます。
コーノ式のフィルターでペーパードリップをしていた僕ですが、今年は主にネルドリップになりそうです。というのは、ネルドリップのフィルターは保存が難しく(というほどでもありませんけど)タッパーに冷水を入れて冷蔵庫で保管し、一日に何度も水を交換しなければなりません。乾くとコーヒーの成分が変化して悪臭を発するらしいのです。また時々、煮沸消毒をしなければなりません。手洗いする頻度も多く、使い捨てのコーノのペーパーフィルターとは明らかに手間が違います。
一日に何度もタッパーの水を交換するのに、それを使わず、コーノフィルターでコーヒーを淹れるというのは考えづらいことです。
ちなみにコーノとは、サイフォンを開発したあのコーノです。
コーヒーの話題はともかく、ジャズについて新年思ったことは、僕は「ミステリアスなピアノ」が好きなのだろう、ということです。ミステリアスの感覚にはエキゾチックな感覚も入ります。とにかくただの綺麗なピアノはつまらない。抽象的なところがあってもミステリアスでなければやっぱりつまらない。
この前、バリー・ハリスのピアノを聴いて思ったことですが、モンクも、デューク・エリントンも、バド・パウエルもみんなピアノの抽象性をエキゾチックか、あるいはミステリアスな味わいに昇華している。その味わいに惹かれているのかもしれません。
もちろん、グルーヴィーなピアノや、ブラックミュージック色の濃厚なピアノに惹かれている一方で、ですけれど。
新年明けて、セロニアス・モンクばかり聴いていました。モンクのピアノが好きなのは、ある種の童話性ですけれど、バップの高僧と崇められるモンクを可愛いとかチャーミングと表現すると周囲に怒られるという印象もありますよね。童話イラストを描いている人間からすると、なにが悪いのかよくわからないけれど。
かわいいという感覚は今ではもう無限の芸術性を内在する可能性に満ち溢れていますね。たとえば「不思議の国のアリス」の中にはシュールもあればポエジーもあり、風刺もあり、感情もある。そういうものが「かわいい」によって表現されるととてつもない力を持つ。しかしそれはなかなか日本では理解されなかった。かわいいというと子供っぽいイメージしかなかったからですね。しかし子供っぽいイメージだからかわいいは理解されなかった、という説明では結局、童心を否定しているようであるし考え方が難しいですね。少なくともかわいいは童心の現われでもあります。ある意味では、日本はいまやかわいい文化の発信地のようでもあるし、喜劇が悲劇を内在しているように、かわいいは多くの芸術性を内在している。
あとは素朴さとか哀愁も、モンクとは相容れないものとされてきたようですね。それも僕には理解できない話で、クラシックをまったく聴いたことのない、前衛的なジャズピアノとしてモンクが高められていたことは、モンク自身がクラシックとジャズはふたつでひとつだ、とインタビューに答えているように、正確なモンク批評ではないと思います。モンクは前時代の文化の破壊者ではなく歴史の流れに身を置いた創造者であって、その世界の旨味は一般的なクラシック音楽の感覚と同じです。だからクラシックの文脈でも読めるし、デューク・エリントンや、ジャズのこれまでの文脈でも読める、他の芸術の文脈でも当然読めるのでしょう。
モンクのピアノに哀愁があるなら、ブルースの味わいもあります。モンクのこうした多面性は、抽象的なピアノの持つ幻想と情緒によってひとつの味わいに統合されています。
話題は変わりますが、西洋美術館のキュビスム展で拝見したアンリ・ルソーの絵画のジャングルのシリーズもまた深い幻想が表現されています。
昨年は、モンクとルソーが素晴らしかった年でした。今年はどんな年になるのかしらん。
昨年は、演劇を観に行った年でもありました。小劇場というのはすごいところで、目の前の俳優さんたちの挙体全真の表現力に底知れない力を感じました。僕の日頃接している小説やイラストというものは芸術にしても、どこか間接的な表現であります。動作=表現というのが、考えてみればもっとも本来的な芸術の姿ではないか、本来の表現のあり方ではないかと思いました。
同時にそこはアドリブの宝庫でありました。アドリブはジャズでも特に重要視されているものであります。禅などでもそうでしょう。人生そのものがアドリブなのでありまして、絶え間ない他者とのインタープレイでありまして、華厳経の相即相入、禅の以心伝心の世界、芸術的な闘争もこうした中での闘争です。それに引き換え、予定調和的な人生は苦もなく楽もなく、まったく無味乾燥としたものであります。もっともそれは平穏なものには違いありませんが……。
昨年末は、中国の黄河文明に想いを馳せました。僕のロマンといえば、仏教と中国の歴史ぐらいで、ヨーロッパもアメリカもあまりわからないので、とにかく仏教と中国の歴史に落ち着く。隋唐時代の仏教史が一番好きですが、今回、仏教伝来以前の中国、三皇五帝時代の神話と夏王朝や殷王朝だの、酒池肉林だの妲己だの鼎の軽重を問うだの青銅器だのに想いを馳せた大晦日でした。
かつて中国名詩選などもよく読んだものでした。李白と王維の詩が好きだったのです。その果てしないスケールとロマンティックな感じが好きなのですが、それは昔から日本人が抱いていた幻想的なイメージでしょうね。
尊敬する中国のお坊さんといえば、趙州と臨済というところで、他にも大勢いますけれど、とにかくこのあたりはよく読みたいところ。
般若心経を最高のテクストとしていた自分は、去年、華厳経に強い影響を受けたのですが、それはつまるところ禅の思想への接近だったのかもしれません。趙州も臨済も、中国の禅僧ですから……。
また日本仏教においては、奈良時代から平安時代にかけての雑密、つまるところ観音信仰ですな。そして日本の民間的な信仰、神道の流れなどにも非常な関心を持っているところです。大学時代から信心深く、観音信仰をしている自分としては歴史の源流として山岳信仰や祖霊信仰をみるわけです。そのひとつの形として、密教神道的世界観を日本の歴史上に見出すわけです。
仏教の哲学性と民俗性は時々、まったく矛盾してしまう。たとえば、自我的な魂はなく、すべての本性は空だと説いた仏教の哲学性と、仏像の中に魂の実在を見出し、人格神として祀り祈祷をする民俗性。この問題を取り上げて、解答を出そうとして今「白緑山の殺人」という仏教ミステリーを書いている真っ最中です。
このあたりで、話題も尽きてきましたので、一旦終わりにしますが、歴史にせよ、仏教にせよ、芸術にせよ、観劇にせよ、ジャズにせよ、コーヒーにせよ、小説にせよ、イラストにせよ、とにかく頑張る。深めると共に暴れる。そういうことをしたい。そんな想いを持っています。今年もどうぞよろしくお願いします。




