75 久しぶりにジャズについて語る5 (ジャズピアノについて)
病み上がりにジャズピアノについて語ろうというのが今回のエッセイ。
しかし、考えてみれば、あまり王道のハードバップピアノを聴いてこなかった自分。そんなに語ることがあるかしらん。
セロニアス・モンクの熱心なファンである自分は、モンクのピアノから浮かび上がる情緒と幻想と美意識とを必死に吸収しようとばかりしてきました。
モンクの指がピーンと鍵盤を弾いた音に、僕は……中国の高名な禅師が悟りの境地を、指一本立てて具現化したように……そのミニマルな存在感のうちに、すべてが内在されているものと信じてやまなかったものですから、ある意味、宗教的な熱心さでモンクのピアノを聴いていたわけです。
モンクのソロピアノ名盤、4枚は僕にとってはジャズファンという意識を超えて「芸術のバイブル」と化しています。
こういう気持ちは、セシル・テイラーのピアノを聴いた時も同じように抱きました。しかし僕はセシル・テイラーの弾き出すピアノの音に、むしろ感情を感じます。破壊的な生命のエネルギー、シュールレアリズムの恐ろしい気配も漂ってきます。
特に「セシル・テイラーの世界」は衝撃的でした。
こうなると分かりますが、ハードバップのピアニストの代表者、トミー・フラナガン、ウィントン・ケリー、レッドガーランド、ソニー・クラーク、そしてその後のビル・エヴァンス、御三家であるハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットについて、僕が物知り顔で語れることはあまりないのです(物知り顔なんて、したことないけど……)
あまり語れることはないけれど、ソニー・クラークは、じっくりとタメの効かせてスウィングするピアニストと思っていましたけど、一つ一つのタッチが鍵盤に粘着しているように音色がしばらく残るところが、かえってあの「重々しくねばるようなクセになる感じ」を出しているのかな、と今日思いました。
聴き比べてみると、タッチの音が鋭く、きつくてまるで好きではなかったウィントン・ケリーの方が、わかりやすくタメを効かせて演奏が全体的にスウィングしているな、と思いました。
名盤「枯葉(ウィントン・ケリー!)」は勿論のこと、脚立の上でイカしているウィントン・ケリーのジャケットの名盤(「ピアノ」とかゆう味も素っ気もないタイトルらしい)も久しぶりに聴き直したところ「ウィスパーノット」の収録されたA面部分、そして後半のB面部分、すべての演奏が楽しく聴けました。あんなにきついと思っていたケリーのタッチがどういう訳か、今ではさっぱりとした塩ラーメン風味に聴こえます。
弾むケリー、粘るクラーク(原文「はねる謙信、逃ぐる信長」)
ソニー・クラークは大好きなピアニストです。先ほど挙げたハードバップの4人の中で一番好きでしょう。タイム盤含めて、合計2枚ある「ソニー・クラーク・トリオ」はどちらも名盤。
そもそも、僕が八年前、最初にハマったジャズピアノは、ビル・エヴァンスの「ワルツフォーデビイ」であり、その次に「モーニン」のボビー・ティモンズのピアノソロに胸躍らせ、3番にオスカー・ピーターソンの「プリーズ・リクエスト」にうっとりしました。それで、バイト先のロックアーティストの先輩にバド・パウエルの「シーン・チェンジズ」の「クレオパトラの夢」を紹介してもらって、エキゾチックなちょっと「こわい」ジャズピアノの世界にはまり込むという……極めて健全なジャズピアノ入門を果たしたのでした。
はじめて通ったジャズ喫茶で、マスターにさまざまなジャズピアニストを紹介していただきました。そのお店は今ではありませんが、モンクをリクエストしたら、マスターはやたら喜んでくれて、何時間もモンクの名盤を流してくれました。
しかしその数ヶ月のうちにジャズピアノというジャンルの造詣が深まることはなく、やたらコルトレーンに想いを馳せているうち、小説家志望だとバレて、マスターによる小説の特訓に移り、ある日、僕は行かなくなってしまったのでした。
マスター……。
マスターは人生の恩人でありました。それで、マスター、マスターと心の中でぼやきながら生きてきたこの8年間。
しかしジャズ喫茶に通わなくなってからの方がジャズのことはよく分かるようになってきたのです。ジャズのCDを買い漁って、行きつけのジャズ喫茶もなく、大した音も良くないイヤホンで1日六時間も聴き込んでいたのですから、僕はわりと死に物狂いでした。
その頃、ソニー・ロリンズとセロニアス・モンクのジャズをとにかく徹底的に聴こうと思い立ちまして、とりわけセロニアス・モンクへの愛が深まってゆきました。アーティスト一人一人への愛が深まる一方で、50年代のジャズ一般、つまりハードバップ全体への造詣は深まりませんでした。
それでは、ここでジャズピアノについて語ろうという本題に戻りましょう。
ジャズ初心者でも、ジャズピアノは聴きやすくて好き、と世間では言われているようです。僕もそう思います。しかしそもそも抽象的な楽器であるピアノは、さまざまなフレーズや和音を生むことによって、具象的な演奏を生み出そうとする楽器です。それゆえ、ピアノが抽象的な演奏を追求したら、どこまでも抽象的になりうる存在ではないですか。難易度の高いピアノは、どこまでも難易度が高くなり得る。
しかしピアノにも欠点もあります。ノイズという概念です。テナーサックスにはノイズを入れることができます。それは魂の叫びのような音であったり、深層心理を掻きむしるような音であったりします。しかしピアノはどんなにハンマー打鍵や、不協和音を駆使しても、やはり人間の肉声のようにはならない、生々しいノイズが生み出されないのではないか……。
セシル・テイラーのフリージャズピアノを聴くと、その破天荒ぶりに、一旦は心が掻き乱されるようですが、ピアノの音色の持つそんな特性からか、どことなく美しい仕上がりが、我々に理性的な世界を与えてくれます。ピアノは理知的な楽器だという印象は、セロニアス・モンクになるともはや強烈なものになります。それは黄金比の世界であり、絵画でいうとセザンヌやピカソの構図の美を思わせる完成度です。そんなモンクには土着性があまり感じられないのです。モンクのピアノはきわめて素朴な音色ですが、構成はきわめて知的です。ところが、この知的さこそ、モンクの魅力だというのは死んでも言いたくないのです。モンクの魅力は人柄です。素朴な味わいです。それが滲み出ているピアノの音色こそ愛すべきものなのです。これが、ジャズピアノの考えなくちゃならない問題なんじゃないかしら……。
……さすがに違うか。




