74 文化批評2 (カレーライスについて)
文化批評シリーズというような企画を立ち上げてずいぶん経つけれど、文化とは「力を持っている幻想」だと言ったか言わずかして、続きを書かねばならぬ書かねばならぬと思いながらジャズエッセイばかり書いていたこの頃。
実のところ、ジャズも文化だから、あれはあれで文化批評だったわけだ。
今日は、文化批評の2ということでカレーライスを論じたい。というより、ただカレーライスの思い出についてだらだらと語るだけである。
そもそも、カレーライスはインドの灼熱の大地に生じて、イギリスのしとしと冷たい雨降るロンドンベイカーストリートの探偵小説的情景を経て、桜と紅葉の美しいこの日本国に欽明朝の仏像の如く伝来した。
そもそもインドにはカレーライスという概念すらないものらしい。エキゾチックなスパイス文化は無数のインド料理を生み出していたが、それがイギリス文化に摂取された。イギリスでカレー粉の発明などを経て、文明開花の香りを放つ西洋料理として、横浜あたりに黒船の如く上陸し、この得体の知れない美味は、瞬く間のうちに、風変わりな日本の洋食文化の頂点に君臨してしまった。
日本の明治、大正、昭和、平成、令和を通して、洋食でありながらカレーライスの煮物のような優しい美味は人々に愛された。今では日本の家庭料理を代表するまでに浸透し、我々、現代日本人の肉体は、例外なしにカレーライスの栄養素から構成されることとなったわけである。
「それで、どこのカレーライスが一番美味しいのだね?」
という厳しい質問が来ることだろう。
相手がそれ相応の文化人ならば、中村屋のチキンカレーと答えることがもっとも相応しいだろう。
あれは三回しか食べていないけれど、間違いなく日本を象徴するカレーライスの頂点である。インドカレーのようで実は日本人好みのカレーのひとつの到達点だろうと我は信ずる。
しかし個人的には神保町のエチオピアのカレーだ。
神保町といえば古本の街であり、この前、行った時には神田古書センターの二階にある漫画専門店で、ピーナッツ(スヌーピー)の漫画1冊と、つげ義春の漫画を二冊購入した。
それと伯剌西爾やさぼうるといった喫茶店も充実している。伯剌西爾のレアチーズケーキと珈琲は美味い。それとBIG BOYときっさこという新しいジャズ喫茶もある。BIG BOYは5回ほど、きっさこには1回来店した。
以前は、まず神保町駅に辿り着くと、まず東京堂で綺麗なトイレを借りて新刊本を見た後に(とはいえ、谷崎潤一郎とツルゲーネフの本を読みたかっただけだ)、古本屋の店先に並んだ安い本を何冊か購入し、仏教書や歴史読本を仕入れると、パン屋のリトルマーメイドか、BIG BOYに入店して文庫本を片手にゆったりしたものだ。
それが済むと、エチオピアのカレーを食べて、お茶の水駅の方まで歩き、ディスクユニオンのジャズ館とクラシック館で、買いたいCDをチェックしてから帰ることが多かった。
やたらソニー・ロリンズとセロニアス・モンクのジャズにハマっていた時期だ。
神保町のカレー屋は、エチオピアの他に、ボンディと共栄堂とがあるが、僕はなによりもこのエチオピアのカレーが好きだ。このところ辛さを十倍にして、チキンヤサイカレーを注文するのが望ましい。なによりもルーの中でめちゃくちゃになったヤサイたちが美味い。ルーまみれのえのきの塊と熱々のプチトマトは、エキセントリックな見た目だけど、食べると間違いなしに感動する。実のところ、僕が一番食べに行っている外食はエチオピアのカレーだ。今までに50回は食べに行っているだろう。独特の発汗作用で、2キロばかり痩せて、体調もよく整った。僕の脳裏には常に「医食同源」の言葉がある。健康的でないものはどんなに美味しくても「美味」とは認識されない。その点、まさにエチオピアのカレーは食べる漢方薬なのだ。
家庭で使うカレールーでは、ゴールデンカレーが一番と決まっている。いや嘘だ。ジャワカレーでもバーモントカレーでもなんでもいい。じゃがいもがごろごろしているのが家庭のカレーライスという気がする。それとレトルトカレーはなんでも美味い。この頃、レトルトカレーだとグリーンカレーばかり食べてしまっている。偏食にも困ったものだ。
一庶民の外食としては、松屋のハンバーグカレーと、デニーズのハンバーグカレードリアはべらぼうに美味しい。金沢カレーのゴーゴーカレーも好きだ。
そうやって、僕は街に飛び出るとカレーライスばかり食べてきた。
正直、カレーライスならなんでもいい。カレーと共に生き、カレーと共に死ぬ、それでいいじゃないか。
これが文化批評なのか、自分でもよくわからないが、カレーライスへの愛を沢山語れたので、ここらへんで話を終わりにしたい。この珍紛漢紛な駄文が文化批評かといわれれば、そうだ、と無理をして胸を張る他ない。




