73 雑談22(人生の選択について)
自己の直観を信じられない人がいる。これは気になる、となった時にその商品を買わないで一週間寝かせると大概のものは買いたくなくなるのだという。すると本当に買いたいものだけ残ってそれだけ買えば、上手く節約できるのだという話。
芸術的ではない人生とは、直観を信じることができない人間につきものだ。
一体、どうしてこんなに価値観が異なってしまうのだろう。
僕の考えでは、たとえば多くのことは体験できなければ損である、もし瞬間的にも興味を持ったものを、興味のあるうちに体験すれば、それは得となる。しかし一週間もして、興味を失ってしまい、エネルギーを失って、その価値を二度と味わえない人生を選択することになったらそれは「もったいない、損な人生」ということになる。
芸術的ではない人生の人は、興味を失うことを理性的になることだと考えるのだろう。芸術的である人生を歩んでいる僕は、興味を失うことをエネルギーの消失と捉えている。
興味を持ったくせに動かなくて「逃した!」と思うこともある。考えてもみれば、お互いに好きだと分かっていて話を切り出さずにお別れになる恋愛のようなもので、それは人生の選択の瞬間でもあったのだ。
ただその瞬間瞬間の直観と、湧き上がる好奇心が、主体性を生み出しているのでなくて他に何があるだろう。
出会わなければわからない、動かなければ味わえない……。
それが人生ってもんじゃなかろうか。
それと関連して、続けていたことを断念すると、しばらくして思い返すことがある。クラシック音楽の趣味を投げ出したり、四谷のジャズ喫茶いーぐるや西早稲田のナッティに行かなくなったこともそうだ。マティス展に行かなかったこともそうだし、知的障害児者のサポートをする仕事をやめたこともそうだった。それは通り過ぎた過去のことで今さら後悔することではないけれど、ふとこれでよかったのだろうか、と思うことがある。
ただ選択するってことは、別のものを選んでいるので、何も選ばなかったわけじゃないのだから、その選んだものを満喫する他ない。
僕も大学時代、仏教に造詣を深め、江戸時代の歴史を専攻したことはひとつの選択だった。
わりと打算的な人間なので、これはこれで利益が生じる方に意図的に寄せているのだが、今でも「近現代史」や「戦国時代史」の方が一般人に人気であること、そして大好きな「平安時代」が専攻の時代ではないことなどに後悔が生ずる時がある。
江戸時代の米俵や、いささかクールではない農具や、黄ばんだふんどしや、大きくて酸っぱい握り寿司が嫌になる時もある。
仏教好きといえば、宗教は……と距離を置かれる時に、冷たい気持ちになることもある。
しかしそんな時にも「あの時の直観が、他ならぬ今の自分を支えているんだ」と思う。少なくとも自分の人生とは直観の連続である。そうした世界に没入し、やり通し、生ききることがなによりも巨大な自分の人生観を生み出せるのだと信じて、今日も今日なりの直観で、中国の歴史などに思いを馳せている。




