69 歴史雑談1(浅草について)
歴史についてだらだら考えるに、関東で生まれて、関東で死ぬであろう人間としては、関東というものを今一度考えねばならぬと考える。そういう考える行為を続けてきて今に至って、関東の原点とは浅草寺だと急に思い至った。
というよりも、それ以上に古い関東の盛り場は、弥生にせよ、縄文にせよ、遺跡はあるにしても今ではすっかり物陰に隠れてしまった。君たちは、博物館の中に陳列された縄文土器の寂しそうな表情を見たことがあるだろうか。太陽光の下で、あるいは夜のかがり火に照らされて、祭祀の異様な昂揚感の中での、銅鐸のあの若々しさは一体どこへと行ってしまったのだ。
縄文時代の貝塚が時々、我々に優しく語りかけてくるように、関東の至る所には多くの人々の精神が魂と共に眠っている。いや、アニミズムの舞踏、自然と一体となって激しく動きまくっているわけであるが、それはなかなか自覚しにくいものである。ガラスケースの抑制の中で生命力をひた隠しにして、いずれ爆発するその瞬間を待っているかのように静かなのが今の縄文土器の現状ではないだろうか。それでは、目の前に現れており、今なお活動を続ける関東の歴史の原点とは何か。
……浅草寺である。
浅草寺の息吹は、推古朝に始まり、ずっと関東の中心に据えられて、今でもあの喧騒のど真ん中で、絢爛たる様相で展開され、街全体がすっかり商業化している今でも、信仰の対象として持続しているではないか。
というのは少しばかり誇張を交えている。というのは、飛鳥時代の浅草寺というのは、今の浅草寺とは大分、姿の異なるものであったに違いない。それにどれほどの因果関係のある持続かわからない。千四百年の歴史のうちに浅草寺の担い手は移り変わり、どれほど変貌したことだろうか。それでも存続し、今でも人間たちの信仰を集めているのはおそろしい存在感である。
実際、徳川家康が江戸入りをした当時、関東の豊かな物資が集まるこの江戸湊の地域で、浅草寺は特に栄えていた古寺であったという。
浅草寺を中心地とする関東史なんて今まで聞いたことがないが、物書きの妄想でひとつやってみようと思う。
推古朝の時代、隅田川を流れてきた観音菩薩像、これを拾ったのが当時の漁師たちである。
昔から魂のあるものは川から流れてくることになっている。桃太郎の桃のようなものである。要するに川上は、山であるから山上他界で、神域というわけだろう。神域から流れてきたものに魂が宿っているのは当然というものだろう。
観音菩薩像を本尊として、今の浅草寺が建立され、漁師ら三人が神として祀られて、今の浅草神社ができたという。
関東という地域の原点が、徳川家康や後北条氏という政治家ではなくて、東国武士団という軍人集団でもなくて、浅草寺という宗教的な権威、信仰対象だとしたら興味深い。日光山もそうであるが、土地に根ざしている信仰は権力者でもなかなか引っ剥がせるものではない。浅草という地域は、千四百年に渡り、信仰の坩堝であったことだろう。
実のところ、この地域の人々の生活は漁業によって成り立っていて、それほど浅草寺と関連を持っていなかったようにも見えるが、信仰の対象であり、シンボリックな求心力を持つ点で、まさに人々の精神的な生活に根ざしていたのではないか。
時代は下るが、浅草には江戸庶民の多くの楽しみがあったものだ。浅草寺の周囲にあるものといえば、吉原といい、歌舞伎といい、奥山といい、いずれも歓楽的なものであった気もするが、それは当時の庶民の心を癒したに違いない。
明治時代になると浅草六区には、凌雲閣という建物が出来た。これは当時もっとも高く、十二階建てであった。電波塔ではないけれど、つまるところ、東京タワーみたいな都市のシンボルであったと勝手に妄想している。
こうしてみると常に文化の発信地であり、集積地でもあった浅草は、関東では少ない、千年以上の歴史を俯瞰的に体感できる(矛盾するようだけれど)場所である。
浅草の幻想は、花屋敷のローラーコースターのノスタルジックな愉快さや、歓楽街の酔っぱらいたちの賑やかさ、人形焼きの甘い香りと、尾張屋や大黒屋の天丼の美味からくる誘惑とに荘厳された上、江戸川乱歩の浅草趣味の文学の魔力も手伝って、今ではエキセントリックな盛り場という印象に姿を変えつつあるが、浅草寺本尊の観音菩薩像は千四百年に渡り、関東の地とそこに住む人々の生活と発展を見守ってきたのかもしれない。




