67 文化批評1 文化とは何か
エッセイとは何かというと文化批評だと思ったこの頃。自分の住んでいる東武東上線の沿線には、さまざまな文化が潜んでいるけれど、面白いことにはそれが一体何であるか、説明できないものの方が多い。
東上線の電車に乗って池袋に到着すると、その先にはさらに多くの文化が潜んでいる。
最近よく僕が通っている街は神保町と下北沢である。ここは文化の発信地であり、集積地でもある。これに加えて以前は、上野や新宿も好んで通っていた。たとえば上野には美術館や動物園があり、新宿はかつて日本のジャズの中心地だった。これも文化である。
歴史的な文化というものもある。歴史はどこにでもあるが目に見える形となって残っているものは少ない。関東でもっとも古い記録が残っているのは浅草寺である。推古朝の時代に隅田川を観音像が流れてきたところを、漁師が拾って本尊としたのが今の浅草寺であるという。ただそれをさらに遡る文化的な遺産が、縄文時代の貝塚ということになるだろう。これも文化だろう。
文化というものは有形にしろ、無形にしろ、有り余って混沌としている。人間に関わるすべてのものが文化であるという気がする。ただ、文化とは言えないものは、行為に至っていない頭の中の心理現象だけで、それを行為に結びつけると、即文化となるのである。
これらを育む母体は、土地という空間であり、そこに流れる時間であるが、それだけでは足りず、主体となり客体となる人間が必要である。すなわち自己というものである。加えて、他者というものである。そして影響を与えているのが社会通念というものなのである。
そもそも社会通念とは幻想である。しかしその幻想が共同体の中で「力」をもって人に作用し、行為を生み、文化を育んできた。たとえば日本という観念である。我々は日本そのものを知らないし、知ることもないだろうけど、それでも我々の脳裏には「日本」の観念が支配的に作用している。そういうものを我々はけして笑うことができない。
このような「力」をもった「幻想」がどこから湧き上がってくるかというと「個人的な体験」というものである。人間の一生の集合体である社会を俯瞰すると社会という観念そのものは幻想でしかなくて、それは個人的な体験の集合体でしかない。そしてそれによって生じる感情が、無限の行為の連鎖を生んで、文化を育むのである。
ある人が人生に悩み苦しんで占い師に相談したら「すぐに四天王寺の仏を見にゆけ」と言われ、その日のうちに新幹線に乗って、四天王寺に向かった。その人は仏を見た瞬間、涙が止まらなくなったという。この現象の意味を考えていたところ、ある人間は話を聞くなり「それで結局、その人の人生は変わったの?」とすぐさま冷笑的な態度を取ったので、芸術的な感性の足りなさに情けなく思えた。
その際に思ったのは、四天王寺に急行した人も、冷笑的な態度を取った人も、その行為はすべて「個人的な体験」に支配された「感情」によって生み出されているという事実である。この点を冷笑的な態度を取った人は知らずにいる。四天王寺の仏の意味を正確に判断することはできないが、我々が冷静に判断していると思い込んでいることのほとんどが「個人的な体験」によって生み出された「感情」に基づいている。
科学が宗教を駆逐したように思えた近代的文明化の後でも、我々の意識は変わらずに宗教的である。「共同体の中で力となって行為を生み出す幻想」はたとえば、日本という観念であり、男性という観念であり、女性という観念であり、大人という観念であり、子供という観念であり、善という観念であり、悪という観念であり、生という観念であり、死という観念である。これらが幻想であっても無にできないのは、すなわち「個人的な体験」に基づき、共同体において共有され、人の行為を生み出す「力」を有しているからである。
日本社会において、神や仏はけして、無力にはなり得なかった。それは我々に「個人的な体験」を与え続けているからである。個人的な体験の集積は「社会的な体験」を育むと思うが、それについては後に述べるとしよう。
個人的な体験が、幻想を生み、それが力(人の行為を生み出す力)となって、感情となり、人の行為(無という行為も含む)を生み出す。さらに個人的な体験を生み、幻想を深める。さらに共同体の中で共有されることによって、個人的な体験は社会的な体験となって、さらに力を有するようになる。これが文化を生み出すこの世の原理ではないかと最近、考えるようになった。
四天王寺の仏との奇跡的な出会いは、間違いなく重要な「個人的な体験」であり、次にはその衝撃が、強烈な感情となって、何らかの行動へと結びつくだろう。そしてその人はその体験を否定することはできなくなり、その後の人生観を決定づけるのである。
反対にこうした心的な衝撃を冷笑し、すべての幻想を無力だと否定してしまった時、人間の一生は単なる無根拠の混沌に陥らざるを得ないではないか。そればかりか、こうした現象を冷笑したいという感情そのものが、その人の「個人的な体験」すなわち「力をもった幻想」に由来するものでなくてなんであろう。
やたら幻想を打ち壊そうという無意味な運動をする時代はそろそろ終わるべきであって、というより幻想を打ち壊した先の自由には何も有価値なものはないのであって、これから先は、その幻想のもつ「力」を認めて、その根本である「個人的な体験」の中身に迫るべきであろう。何故ならば、我々の一生も社会も、個人的な体験の集合体なのだから。
個人的な体験が厳密には、一方的な意識によるものであることは疑いようがない。しかし人間同士の意識のあり方は向かい合わせの鏡のように反射し合うもので、そこに相互性が生まれる。華厳教学の相即相入や、禅の以心伝心のようなものであるが、神技ではなくて、人間社会においてはむしろ普通のことである。
このあたりから個人的体験は、社会的体験になり得るのだろう。共同体において観念が共有されることになる根本的な原理だと思う。
四天王寺の仏との奇跡的な出会いにしても、その人だけのものではなくて、我々の意識下に眠る体験と直結していて、少なくとも僕にとっては既視感やノスタルジーすら抱くものである。他者との関係作りの根本は、幼児期の母子の関係性だというが、母性的慈悲の象徴である仏は、そうした感覚を呼び覚ますものだろう。僕に言わせれば、理性からくる論理が行動を生み出すのではなくて、直観からくる感情が行動を生み出すのである。
そして我々は、その感情に基づく行動の中でとりわけ「表現」という形で伝達されるものの存在を知っている。それはたとえば「言葉」であり「声」であり「身振り手振り」である。これを突き詰めると「演劇」になり「詩」になり「美術」になり「音楽」になる。つまり「芸術」になるというわけである。
こうしたものを通して、個人的な体験を、社会的な体験にしようとする。このようにして人生そのものが表現の舞台となるのである。
我々は、観念的とはいえ、力をもった無数の幻想に苛まれて、縛されていて、そうした空間と時間の中で生きていかざるをえなく、ただ個人的な体験に基づく感情を表現することによって、他者と通じ合い、それを社会的な体験へと昇華しようとしているのではないか。それが文化というものを生み出しているのではないか。というようなことが、僕の文化に対する基本的な捉え方、姿勢である。
今後、本エッセイを通し文化について詳しく捉えてゆくことになるが、この考え方が何度も出てくると思う。




