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56 カレーライス×小説論

 好きな食べ物について語ろうかな、と思って、あれやこれや思い出した結果、最近は外食なら、うな重とカレーライスだな、と思いました。

 外食の機会が極端に減ってしまったので、他には思いつかない。ラーメンやハンバーガーなんかは一向に食べたいと思わなくなりました。

 家の食事ならば、日本人は白米と味噌汁に漬け物があればよいのだと本気で信じるようになりました。しかし、それが結局、あまり健康的ではないのです。やはり肉と魚と野菜を食べなくては……。


 江戸の大工が、鰻の蒲焼きをお昼に食べていたなんて話を聞くと、いいな、と思うけれど、農民はやはり麦飯、味噌汁、漬け物、そして野菜の煮物という感じ。

 濃口醤油、味醂、砂糖が満足に流通するのは19世紀になって、幕末に近づいてからだから、それまで鰻の蒲焼きなんかは味噌で食べていたとか。

 やはり現代の食事の方がいい。


 カレーライスなら、新宿の中村屋の他、神保町のエチオピア、共栄堂、ボンディが美味しい。あとはインドのカレーなら、ほうれん草カレーが好き。あとはタイのグリーンカレー。家でつくるカレーならゴールデン。

 


 時間ができると、小説についてもあれこれ考えています。



 小説を書くということの行程でもっとも重要なのは「一つのアイデアをどのように演出するか」ということであると思います。

 斬新なアイデアを魔法のように生み出し、それをそのまま描けば、確かにストーリーは面白くなるのでありましょうけれど、僕はそういうタイプの物書きではないので、ここは「演出」ということを第一に考えてみたい。


 たとえば「ある人が道を歩いていてタンポポを見つける」というストーリーがあったとして、これはアイデアとしては大変に平凡なつまらないものに違いない。しかし、適切に演出できれば必ず面白くなるはずです。


 その適切な演出とは、一口にいえば、日常と非日常を合流させた演出。


 小説は「意識の流れ」をそのまま描けることが最大の長所であり、それゆえに「心理小説」が基本といえるでしょう。

 この心理を写実的に描写することこそが、最大のリアリティーであり、読者を説得する最大の力になるのでしょう。

 描写文は、意識の流れに沿った順番で記述され、説明文は、論理展開の流れに沿った順番で記述されます。

 さて、描写力の中でも、もっともリアリティがあるのが「感覚的な描写」です。その感覚というのは心理的なものであると共に知覚的なものです。つまり感じられるままに書くというのがとても大切なことだと思います。

 この感覚的な描写のリアリティを最大限に高めるために「語彙力をひけらかすような表現」を極力捨て、一般読者の過去の体験とも共通性を持ち、馴染みの深い「日常的な言葉」を使うことが求められます。

 そういう点では、僕は芥川龍之介先生のような大変に味わいの深い、それでいて聞いたこともないような言葉を自在に扱われる作家を、尊敬はすれども、自分とは異なるタイプだと信じてやみません。


 こうした感覚的なリアリティーを求めながらも、キャラクターは大袈裟に動かした方がいいというのが僕の考えです。それはお芝居のようなもので、オーバーなことをしなければ、伝わらないと思っているからです。


 なによりもキャラクターは、歌舞伎の役者が見栄を切るように、わかりやすい見せ場をつくってあげなくちゃ、と思っています。


 どうしてこうなったのか、自分でもよく分かりませんが、僕はミュージカルが好きで、芝居がかったものが大好きなせいかもしれません。

 ところが、その非日常的な表現の中にも僕は日常の生活感を感じさせることがとても大切であると思います。

 意識の流れのリアリティーと、日常的な生活描写のリアリティー、それでありながら非日常的なものも描いていく、と。


 以前「紫雲学園の殺人」を書いている時に思ったのですが、この物語は、電車内の映像から始まりました。主体となったのは、自宅から学園へと向かう少女八重の心理描写でした。この時、物語はベクトルとしては「日常から非日常へ」と進行していて、好奇心を刺激するようにしています。その後、学生寮のシーンになって、八重は、由依という少女と会話を交わしました。今度は「非日常の中の日常」を描いていました。それから転校生の百合菜が登場するシーンは、再び「日常から非日常へ」の切り替えになっていて、そういう風に「日常性」と「非日常性」は振り子のように交互に描かれてゆくべきだろうとその時、思っていたのでした。(この他に「緊張」と「緩和」の振り子も必要だろうと考えています)


 これらは機能としては、日常性がリアリティーをもたらすもので、非日常性が読者の好奇心を刺激するものです。日常的な表現は、読者にそれが自分と関わりのある出来事であると感じさせる力となってくれるのでしょう。しかし日常性だけでは、本当にノンフィクションと変わらず、わざわざフィクションにする必要性がまったくなくなってしまう。そこで、想像力によって、日常から脱する、日常を破壊する、つまり冒険的な要素が必要になってくるのでしょう。これは読者の好奇心を刺激をします。


 ……こんなことを書いているとみんな眠ってしまう。


 ところで、カレーライスの話に戻るが、白米は日常の象徴であり、カレーのソースは非日常の象徴であるに違いない。

 日本人の心の故郷である白米と憧れのインドから伝来したカレーの調和と破調。この調和と破調こそ、芸術の最高の境地!


 小説を書く時、僕はカレーライスのことを思い出しているのだろう。

 それでは、皆さまが美味しいカレーライスと素敵な小説に出会えることを心から願っています。

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