37 雑談9
エッセイを書くことがどういうことか僕にはよく分かっていないらしい。とりあえず、疲れている。その疲れの原因がよく分からないでいる。なろうにせよ、ツイッターにせよ、何らかの反応を期待して発信するものだから、反応がないとひどく落ち込んだりする。それはつまり、人間の欲求としては、自然なことだと思うのだけど、ちょっと前はそうした数字の呪縛から完全に逃れて、のほほんとしていたものだった。
羽黒祐介シリーズの再生数がやたら落ち込んでいるせいかとしれない。安倍首相が辞任したニュースの影響かもしれない。現実の人間関係が上手くいっていないのでは、と若干、被害妄想的になっているせいかもしれない。人の死が恐ろしくなっているせいかもしれない。コロナ疲れかもしれない。仲の良い人と久しく会えていないからかもしれない。ただただ、心身ともに疲れている。
ツイッターでは明るく振る舞って、こちらのエッセイでぐったりしている。疲れているくせにエッセイを書こうというのだから、本当は疲れていないのかもしれない。過度な緊張の状態。それはつまり、カフェインが濃厚なエスプレッソを大量に飲んだような……。
昼間、カール・ベーム指揮のベートーヴェンの『運命』を聴いた。なかなか良かった。CDはずっと前から持っていたし、何度も聴いていたのだが、こんなに良いとは思わなかった。特に第三楽章と第四楽章がよかった。特に第四楽章がたまらない。大変な癒しになった。クラシックは癒しだ。リラックス。勿論、興奮もするけれど。
今夜はやたら月が白い。あの人も同じ月を見ているのだろう。誰だ、あの人って……。
なんでもいいが、今日、本屋で立ち読みをしていたら、中原中也の詩で、月夜の浜辺でボタンを拾う内容のものがあって、非常によかった。詩も癒しだ。たまには紅茶でも飲みながら、詩を読むのも良いだろう。鋭くなった神経が、いくらか穏やかになりそうだ。
史学科を出たものだからと、ここのところ、江戸時代のことばかり調べていたが、誰かに披露する機会もないし、自分の歴史小説はあまり需要がなく、作品化するのも難しそうなので、集めた知識をどうしたものかと思う。いつもだったら、妄想で楽しくなってしまって、お寺めぐりなどのフィールドワークを始めているところだ。それが自粛のせいで、フィールドワークができないので、家で黙々と歴史の本ばかり読んでいたのだ。家でじっとして、頭ばかり使っているのはよろしくないらしい。
僕は、大学で江戸時代を専攻していた。それというのも、当時の庶民の生活に関心があったのだ。それだけでなく、仏教史にもハマっていった。庶民の信仰や空の思想などに最大の関心があった。苦しみから逃れるには、無我にならねばならないと思った。ところが結果、今の僕は煩悩の奴隷だ。一番なってはならないはずの人間になった。しかし、物書きは煩悩があった方がいいだろう。文学のテーマなんて、煩悩ばかりなのだ。いずれにしても、胡麻博士なんてキャラはこのあたりから生まれる。
今年はどこの祭りも中止で悲しい。しかし、まあ、こういう時期だからしょうがない。話は戻るが、現在、僕は歴史をインプットしても、上手いこと、アウトプットする術を知らない。そう考えると「寺社めぐり旅日記」なんてエッセイを書いていて、京都放送の岩男潤子さんのラジオで紹介してもらった頃は幸せだった。なにしろあの頃は、好きな寺や神社をめぐって、自分の興味があることばかり書いて、それで人に読んでもらっていて、ラジオで紹介までされたのだから、幸せなこと、この上なかった。
ジャズにしろ、クラシックにしろ、歴史にしろ、ミステリーにしろ、自分の興味のあることを、相手の関心に引っかけて、面白く語れるようにならないと、物書きはつらいものなのだ。そう考えると、僕が現在、欲しているのは話題や知識などではなく、落語家的な話術かもしれない。
どうも、歴史を面白く語れた試しがない。困ったものだ。ただ、小説を面白くさせる二つの方法のうちの一つで、やたら具体的・描写的に描くというものがある。これは説明文を描写文にするということ。理性ではなく、感性に訴える文にすること。要は、写実的なエピソードにしてしまうということだ。物真似を交えて、実演してしまうようなものだ。理屈ではなく、体験的に話せるかということだ。
もう一つの方法は、聞いている相手と話題を関係づける。もっとも簡単な例は「もし、あなたが彼の状況だったらどうする? どう感じる?」というやつだ。基本的に人間は自分と関係のない話題はつまらないと感じる。だから、関連づけるのだ。
僕はなんでこんな話を語っているのだろう……。




