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4 美味とは何か

 この世には、五種類の美味があると思っている。「高尚な美味」「世俗の美味」「愛情の美味」「空腹の美味」「ロマンの美味」の五種である。


 さて、僕が一番好きな食べ物はがんもどきと厚揚げに、白菜や白滝や豚肉を放りこんだ煮物で、まずこれほど美味いものはないと思っている。人類は汁物や煮物と共に生きてきた。しかし、この美味とはまったく異なる美味が、この世に存在していることもちゃんと知っている。


 僕が、「高尚な美味」と称したのは、いわば本当に研ぎ澄まされた味覚で味わって、骨の髄から美味しいと感じる料理のことである。繊細さと深みのある味わいなのだろう。そして、これこそが、一般的に目指されている正当な美味であるに違いない。

 僕はこの種の美味なる食べ物の代表として、鯛をあげておきたいと思う。鯛は、京都のものこそ本物の味がするらしいが、僕が食べたのは山形県の鶴岡の料理店で出された鯛の塩焼きで、日本海のものだった。これは抜群に美味しかった。その他にも、繊細な素材の味に、適格な調理を施した美食が数知れない。岩手で食べたすいとんもかなりの正統派な美味だった。

 こうした美味は、最高潮に達すると、非常に高額になる傾向は否定できない。鯛も松茸もフカヒレもキャビアも、庶民には縁遠いものとなっている。

 しかし、そういう値段のヒエラルキーと「高尚な美味」は必ずしも、同一ではないとも思う。豆腐屋さんの豆腐は美味い。素材の味わいに深みがある。繊細な味わいもちゃんとある。深みのある豆腐や納豆もまた、僕は「高尚な美味」だと信じる。しかし、どこかでそれは人々にとって、物足らなくなった。


 そこで、人々はもっと「世俗の美味」を求めるようになった。人々は明確で、よりはっきりとした美味さを求めるようになった。それがマクド◯ルドである。マクド◯ルドこそは、庶民の味覚を刺激し、蕎麦やうどんにも劣らぬ、素晴らしい大衆的な食文化を築き上げてきた。

 街中にあるハンバーガーのチェーンと言えば、(宣伝をしている風に見えるのも何なので、◯をつけました)ウェ◯ディーズ、モスバー◯ー、クア・アイ◯、ロッテリ◯、ファース◯キッチン、バーガ◯キング、ドムド◯バーガー、フレッシュ◯スバーガー、カール◯ジュニア、ベッ◯ーズなど、数え切れないほどあるが、やはりマクドナルドという伝説があってこそ、日本でも華開いた文化と言わねばなるまい。

 日本人の大衆食は、江戸時代の二八蕎麦からこのようなバンバーガーチェーンへと華麗なる発展を遂げてきたのである。

 この美味は、鯛や松茸のような繊細な味わいは求められなくとも、食べればガツンとくる。とにかく美味い。人間の本能を直に揺さぶるような美味である。そこには、理屈抜きの喜びがある。また、繊細な味覚を持ち合わせていなくとも、とにかく、誰が食べても、文句なしに美味さを実感できるのである。

 B級グルメもまた、こうした「世俗の美味」ににじり寄っている。カレーライスにラーメン。ちなみに断っておくが、俗という言葉を、僕は悪い意味では使っていない。

 森鷗外が高尚な文学を書いていた頃、夏目漱石はその頃にしては、世俗的な文学を書いていた。今では、森鷗外と夏目漱石、どちらが多くの読者に愛されているだろうか。はっきり断言する。夏目漱石である。(この後は、夏目漱石の小説の話は忘れるように)

 美味い料理とは、高価な素材を使ったものばかりではない。鯛よりもたい焼きを食べたくなる日も、多い。ハンバーガーの美味さは、やはりケチャップだとも思う。我々はケチャップに恋をしている。マスタードは恋敵だが、一緒に食べてしまおう。


 ところが、これらに対して、日本には古くから「愛情の美味」を語る一派が存在している。これは「お袋の味」派ともいう。

 それは、おかんが作ったカレーだからこそ美味く、愛妻がつくった弁当だから美味いと感じるというもので、味覚のみならず心情にまで響く、奥深い美味と言われている。

 特に注意すべきなのは、この美味は、超味覚的ということである。例えば、ここに味噌汁があるとしよう。この味噌汁はしょっぱすぎる。つまり、味覚的には不味いはずなのである。しかし、「このしょっぱすぎるところが懐かしい、とても美味だ!」という、おどろくべき事態が起こりうるのだ。いや、ほとんどの場合、こうした常識とはかけ離れたシチュエーションになるのである。本来の味覚を度外視した情緒的な美味が生まれるのが、この美味の特徴である。


 これに似た特徴を持ちながら、その実、まったく違うのが「空腹の美味」である。

 これを論じる一派は、美味の本質とは、食べ物の味わいではなく、食べる人間の側の空腹感にあるとしている。

 沢庵和尚がこの代表者であり、沢庵漬けを発明した逸話で知られる。また、「空腹こそが最大の調味料」とされる。確かに、腹が減った時に、とにかくにぎりめしに塩をふって、夢中でぱくつくのは何かもうどうしようもないほどの美味さである。また、このような一刻を争う空腹下では、にぎりめしやお茶漬けといった、シンプルな素材の味を持つ食べものが好まれる傾向にある。

 また、何よりもエネルギーを求めて、炭水化物が求められる傾向も否定できない。「本当に美味しいものは、空腹時に食べる、塩を振りかけたにぎりめしだ」という言葉が街中で見受けられるのは、こうした理由からである。この言葉は、確かに、真に迫ったリアリズムを持っている。空腹時の白米ほど美味いものはないのである。

 この一派の語ることが、圧倒的な説得力を持っているのは、やはり生死という人間の極限状態と密接に関わっている美味を論じていることからだろう。


 さて、空腹という人間の極限を突いたことは、確かに説得力を持たせている。しかし、それは人間が猿に立ち戻ることでもある。人類の築いてきた高尚な味覚文化をかなぐり捨てて、動物的な本能へと帰還することでもある。

 そのため、文化人に憧れる人々は、これに危機感を感じることだろう。腹を満たすためのグルメなど、動物的だと批判もする人もあろう。

 それでは、文化的生活としての美味は何かというと、それは「ロマンの美味」である。その美味は、例えばお洒落な喫茶店で、ジャズを聴きながら、飲む一杯の珈琲の美味のようなものである。それは言わば、人生のファッションや舞台演出のような美味である。

 人は、空腹や味わいのためだけに食事をしているわけではない。高度な文化的生活においては、舞台演出としてのグルメが必要になるのである。

 このロマンとなりうるのは、お洒落な喫茶店の内装や音楽ばかりではない。例えば、文豪が愛した鰻だとか、明治の頃からつくり方を変えていない老舗の西洋料理、トランプ中にサンドイッチを思いついたというサンドイッチ伯爵の逸話のような歴史ロマンもある。

 人は腹が減ったから食べるのではない。味わいたいから食べるのではない。人生に彩りを添えるために、文化として食べるということなのだろう。


 さて、この他にも珍味やゲテモノなど、普通の味わいとは違うものへの好奇心や驚きが美味であるとする一派もあると思うが、僕は珍味のようなものはあまり好まないので、今回はこれを美味のひとつに数えないこととする。



 気がついたら、腹が減ってきたので、ここらでこの話題は終わりにしよう。

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