31 雑談3
今日は朝っぱらからエッセイを書いている。
ジャズのアルバムを一枚、クラシック音楽を二曲、聴いた。ジャズはマッコイ・タイナーの「インセプション」で、クラシック音楽はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番とベートーヴェンのピアノ協奏曲五番「皇帝」だ。協奏曲は、どちらもホロヴィッツがピアノを弾いている。感想というほどのものはないが、マッコイもホロヴィッツも、ピアノの音が弾けるように輝いていて、リズム感もずば抜けているように感じられた。それぐらいで、またなろうに戻ってきた。いただいた感想を読み返し、なんて返そうか考えている。そして、エッセイになにか良いネタはないかと考える。従兄妹と今度、どこかに遊びに行く話があるが、どこにいけば面白いだろう、ともやもや考えるが、コロナの騒ぎが収まってからになるだろうな、とそこで思考がストップする。この前は、焼き肉に行った。また焼き肉もいいだろう。
焼き肉か、と僕はまた考える。このところ、あまり外食していない。それは料理が好きになったからだ。しかし、外食もよいだろう。あまりあぶらっこい食べ物は、胃腸が弱いので、避けなくてはならない。炭酸もあまり飲めない。しかし、ペプ○のコーラの味が好きで、外出先で、でかい缶を買ってしまうことがある。飲んで、炭酸が胃に溜まって、大体苦しくなることがある。なので、家に帰る前に購入し、何口か飲んだら、冷蔵庫に入れることにしている。炭酸が苦手なので、カフェオレの関係の飲み物を買うことが多い。あれは胃に優しいものと信じている。ただ、コーヒーは胃が痛くなることがある。それでも、喫茶店では必ず、一杯はコーヒーを飲む。コーヒーは素敵な存在だ。紅茶だとジャンナッ○のジャンナッ○ブレンドか、フォショ○のブランドが好きだけど、この頃、飲んでいない。
この頃、小説についてよく思うのは、内容と表現という問題である。まず内容を練ることから人間は始まる。しかし、それと同等の重要性を持つのが、それをどう表現するか、という問題である。内容があっても、表現が出来ていないと当然、作者が思ったほどの感動は伝わないことになる。一人の人間の精神世界から別の人間の精神世界になにかが伝達される、そういう芸術活動の流れには、表現という問題が大きく関わってくる。内容が変わったものでなくても、表現が優れていれば、それは優れた芸術になりうる。たとえば、日常の何気ない一コマ、台所でコーヒーが出来上がるその出来事を、ある優れた文体を使えば、それだけで面白く、情緒に溢れた描写になったりする。
こうした表現の重要性は、クラシックの指揮者の細かい指示などを見ていると痛感する。小説家は度々、どう伝えるべきかという問題を忘れる。面白いストーリーがあれば、その面白さが伝わるものだと思っている。ところがこれは間違いだ。
文章には、それぞれ限界がある。志賀直哉先生の文章は優れているが、それは志賀直哉先生の世界を表現するのに特化していて、そこから谷崎潤一郎先生の和文的で繊細な世界を感受することはできない。だから、伝えたい内容にふさわしい表現があるとみてよいだろう。この内容を、哲学性、表現を、芸術性と置き換えてもよい。
芸術の方向性は無限だけど、常に内容(哲学性?)を伝えきるにふさわしい表現(芸術性?)という問題がからんでくる。それが成熟したものは美しい。表現を深めてゆくことは、自らの内面性を発揮する唯一の手段である。




