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24 「名探偵 羽黒祐介の推理」について

 某作者様のエッセイを読んでから、あんまんを食べたくて仕方ないのですが、どこで買いましょう。僕は小さい頃、あんこが苦手だったのですが、あんまんのごまあんだけは大好きでした。今でも、ごまあんは大好きです。


 そういうわけで(どういうわけで)、今日は自作「名探偵 羽黒祐介の推理」の解説をしてゆきたいと思います。自作解説です。それも作品の構造を明かしてゆきたいと思うのですが、だからと言って作品の解釈を指定するものではありません。作者としては、開かれた小説を目指しておりますので、ここはこういう意味であると解釈を押しつけるつもりはまったくありません。また、本文中で語られる創作法ですが、一素人の執筆法に過ぎないので、創り手の方は絶対に参考にしないでください。このエッセイの読者様は、ハイレベルな創り手の方が多いと思いますので、創作論として議論の種にしたり、自分の創作法と比較なさるのは良いと思いますが、間違ってもこの創作法を鵜呑みにしないでください。商業的な作品とは違う観点で論じられている部分もあります。なので、この創作法を参考にすると間違いなく破滅します。それに、僕の創作法は日々、自ら改変を続けているので、当てにはなりません。こういう書き方もあるのか、という程度に読み物として楽しんで頂けたら幸いです。


 また本文中、「名探偵 羽黒祐介の推理」のネタバレがあります。


 さて、「名探偵 羽黒祐介の推理」は、群馬で根来警部が襲撃されるシーンから始まります。これが作品全体の「起承転結」の「起」に当たります。とっかかりみたいなものです。それについては後で述べます。そして、その次は鎌倉のパートとなります。これは鎌倉の旅情シーンになります。そして、この鎌倉のパートは、一つの短編小説的な物語になっています。一話完結の物語です。祐介と胡麻博士がホームに降りるシーンが「起」、白石詩織と出会うシーンが「承」、料理屋さんで再会するシーンが「転」、夕焼けの別れのシーンが「結」で、一旦完結します。「起承転結」で説明したので、お気づきかもしれませんが、この鎌倉のパートは、読み切りの短編小説の形式となっています。これに続く前橋のパートも、一応は別の短編小説という形式を取っています。つまり、この作品では短編小説を何作も連ねて長編小説に仕上げるという形式を取っています。


 連作風長編小説。


 つまり、この方法を取れば、短編が書ける人ならば長編小説も書けるということです。もしも、お悩みの方がいらっしゃいましたら、お勧めします。短編風の話を連続させて長編小説を成り立たせる、これは志賀直哉先生の「暗夜行路」などに見られるような構成です。というより、志賀先生ははじめから完全な短編作家で、これが人生で唯一の長編小説であるがために、そのような構成になってしまったのですが。


 現代のミステリー小説の作家やファンたちは、長編小説こそがメインと思いやすいようですが、ミステリーにしたって1920年代の英米のミステリー黄金時代より以前は、短編小説全盛の時代が長くあったわけで、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ探偵譚、チェスタトンのブラウン神父もの、オースティン・フリーマンのジョン・ソーンダイク博士ものなどは短編こそ名作が多かったものです。純文学でも、志賀先生をはじめ、芥川龍之介先生、太宰治先生、宮沢賢治先生などは短編に力が入っています。短編小説は長編小説に負けず劣らず重要なのです。


 なろうは、短編の名手が多いように感じます。その才能を活かさない手はありません。



群馬のパート(根来)

鎌倉のパート(祐介)

前橋のパート(根来)

前橋のパート(祐介)

上野のパート(すみれっちぃ)

群馬のパート(根来)

横浜のパート(すみれっちぃ)

池袋のパート(すみれっちぃ)

文京区・桃山荘のパート(犯人・祐介)

浅草のパート(祐介)

後日談のパート



 これがざっと「名探偵 羽黒祐介の推理」の構成ですが、全体として起承転結があるだけでなく、こうした一つ一つのパートの内部に起承転結があるようにすべきだと考えています。例えば、上野のパートは、すみれっちぃが明日の上野行きを想うシーンが起、すみれっちぃが羽黒祐介と上野を探索するのが承、すみれっちぃが事務所に泊まるのが転、夜中に起きて羽黒祐介が「僕がすみれさんを守ります」と言うのが結になります。36話から53話が該当部分になりますが、これは一つの短編小説の感覚で書いています。


 逆に、綺麗に「起承転結」にならずにぐちゃぐちゃしている部分は、僕としては失敗部分です。前橋のパート(祐介)のあたりは失敗したと思っています。


 短編を集めて長編にする。これは実は、美人すぎる名探偵シリーズの作者、ナツさんがどこかで語っていた創作法に学びました。ナツさん、ありがとうございます。創作法、使わせてもらってます。


 僕はこの創作法を自分なりに解釈して徹底していくべきではないか、という考えに陥りました。夏目漱石の「草枕」はどのページから読み始めても面白いものですが、それは名文からなっているからだと思います。つまり、ミクロの視点でも面白いわけです。そのミクロ視点の面白さが、小説の面白さの原子に違いありません。これに対するマクロ視点の面白さとはそうしたミクロ視点の面白さが積み重なって生まれる漠然とした感覚なのでしょう。マクロの面白さがミクロの面白さの連続からなっているとした場合、名文が集まって名ショートショートとなり、名ショートショートが集まって名短編小説となり、名短編小説が集まって名長編小説になるという仮説を持つようになりました。


名文→名ショートショート→名短編→名長編


 おいおい、ギャクマンガじゃないんだから、そんなに直接的な面白みを求めなくて良いのだよ、と考える方も多いでしょう。難しい文が延々と続いていて、一見なんともつまらない小説だが、最終的には深みのある感動が押し寄せてくるという例もある、といつになく饒舌になる方もいらっしゃるでしょう。

 しかし、それはそれ、これはこれ。僕のは言うても大衆文学ですから。


 ちなみにここで僕の言う名文とは「印象が深く長く心に残る文」のことです。単なる文章の見映えのことではありません。分かりやすい文でも、音調美や視覚美のある文のことでもありません。それらは名文を構成する要素に過ぎません。色々な文がありますが、深い印象が、最後まで心に残るものが名文だと思います。それが本質だと思います。これは谷崎潤一郎先生が「文章読本」で書いていたことを自分なりに解釈しています。それと夏目漱石先生が何か書いていましたが、それについてはよく覚えていません。


 だから、なんと言いますか、絵画でも映画でもその時はいくらつまらない作品だと思っても、家に帰ってから思い出し、一年経っても思い出すという作品は、やはり名作なのだと思います。反対にその時は面白いと思っても、すぐに忘れて、一生思い出すことのない作品というのは、やはりどこか力が足りなかったのだと思います。ずっと印象が残っている作品って、心のもっとも深い部分で共鳴した作品なのだと思います。


 余談になりますが、心理描写と情景描写は、小説における二大描写だと思っています。僕は情景描写オタクです。情景描写というと、有名なのは志賀直哉先生の「暗夜行路」のラストシーン。あれは、確かにもの凄いものでした。でも、僕は三島由紀夫先生の「美しい星」の冒頭の情景描写が好きです。

 僕は心理描写が下手くそなので、なんとも言えませんが、川端康成先生、三島由紀夫先生、谷崎潤一郎先生の心理描写には深い感銘を受けたものでした。中でも良いと思っているのは、谷崎潤一郎先生の「細雪」の心理描写。これは格別です。そもそも、僕はこの作品が好きです。


 あまりそんなことばかり述べていても仕方ないので、話を戻しますが「名探偵 羽黒祐介の推理」は、根来警部が襲撃されるシーンに始まります。最初に小さな事件が起こって、一応、その場で解決して一区切りつけるのは映画の007の真似です。それも「ゴールデンアイ」以降の。



小事件

大事件



 小事件がお手軽に面白いと、大規模な大事件も読んでくれるという寸法です。浅はかな作戦な気もしますが、いきなり大事件に突入してしまうと読む方も大変です。たまには通俗性も考えなくてはいけませんからね。しかし、これも短編の集まり=長編小説という形式に則っています。このパートでは、根来が襲われ、アクションシーンがあり、その場から頑張って逃げ出します。ここで場面が切り替わり、鎌倉のシーンとなり、祐介と胡麻博士がへらへらしながら出てきます。つまり、ここでようやく本編に入ったわけです。


 さて、冒頭の襲撃シーンでは、早くも犯人は誰かという謎が提示されます。物語の魅力には「目的的興味」と「楽しみ」というものがあると思います。旅行で例えると、山形の羽黒山に赴いた時、山頂に早く行こうとするのが「目的的興味」、その途中の道で立ち止まって風景を楽しんだり、お団子を食べたりするのが「楽しみ」です。つまり、「楽しみ」とは寄り道です。ふらふら歩きのことです。しかし「楽しみ」だけでは、読者も飽きます。だからミステリーには「謎」「論理」「真相」という「目的的興味」があります。これを僕は冒頭に持ってくるという、非常に安っぽいけど効果的な手段を採用しました。


 さらに、この時、伏線が張られます。それが「泣き地蔵」です。根来は「泣き地蔵」を見に行こうとして、途中で襲撃されます。しかし、その時「泣き地蔵」のことはこれ以上触れられず、置いてけぼりにされます。これは伏線です。このように名前を出しておきながら、ほったらかしにしたものは、どこかで回収しなければなりません。そこで、ノートにメモっておきます。「泣き地蔵」。これは完結までに必ず回収しなければならない伏線となります。


伏線をはる

伏線を回収する


 この「回収する」タイミングは、意外な方が良いです。読者様が忘れかけたタイミングがベストです。しかし、あまりなも伏線の影が薄くなり、回収した時には「なんだっけそれ」なんて思われないように注意しましょう。


 この「泣き地蔵」の伏線は、真ん中あたりの根来が再び犯人に襲撃されるシーンで出てきます。これらのシーンを並べてみましょう。


(1話目)

 汚い高札みたいなものがたっていて、見れば「泣き地蔵二百メートル」の文字が書かれていた。

「なんだこいつは……」

 この先に、面白おかしい地蔵があるらしかった。他に行くところもない。歩いてみるか、と根来は足を進めた。


(54話)

 根来は懐中電灯を持ったまま、山道をそのまま奥へ奥へと突き進んでいった。この先には、泣き地蔵という、半分泣いた顔をして、もう半分の顔が崩れてなくなった地蔵菩薩が佇んでいるはずである。それを根来は見たくなった。


(57話)

「来るな!」

 根来は思わず叫んだ。そのうちに、根来はおかしなことに気づいた。先ほど通った道とどこか違う気がした。しばらく歩くと、いよいよ、道が違うことが明らかになった。

 道はどんどん、細くなり、左手は崖になった。そして、突き当たりで、道は終わってしまった。その突き当たりには、泣き地蔵という、半分顔の欠けた泣き顔の地蔵菩薩像が立っているだけだった。

「しまった!」

 根来は闇に向かって叫んだ。その声は宙に消えていった。



 これは、つまり「玩具は出したら片付けましょう」ということです。「泣き地蔵があります」なんて書いてしまうと、読者の方はそのシーンを期待してしまいます。しかし、その時に泣き地蔵は出てきません。その期待は裏切られます。欲求不満になります。そして、忘れた頃にその期待を叶えてあげる、これが伏線だと思います。


 さて、鎌倉のパートでも色々あるのですが、僕も細かく説明してゆくのは疲れてしまいました。こんなことをしていると、自分の作品の穴もはっきり見えてきてしまいますし、創作法がばれているのは少し具合が悪いこともあります。ここらで終わりにしたいと思います。

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